【古代鴨氏物語】味鉏高彦根神と長髄彦 | 東風友春ブログ

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天稚彦の物語が神武東征での出来事を基に創作されたのなら、気になる関係がある。

それは、天稚彦の妻が味鉏高彦根神の妹「下照姬(高比賣命、亦名下光比賣命)であるのに対し、饒速日命長髄彦の妹「三炊屋媛(古事記では登美夜毘賣)を妻としている関係性に全く重なる事だ。

 

嘗有天神之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。是娶吾妹三炊屋媛、亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛、遂有兒息、名曰可美眞手命。

 

味鉏高彦根神が長髄彦なら、下照姫三炊屋媛であり、下照姫を妻とした天稚彦は饒速日命がモデルとなる。

これは、饒速日命を祖神とする物部氏と、味鉏高彦根神を「迦毛大御神」として崇拝する賀茂氏とが、実は婚姻を通じて親戚関係にあったのでは無いかと疑わせるのだ。

 

 

しかし、味鉏高彦根神が登場する「天稚彦の殯」の場面は、天稚彦が「反矢」によって亡くなる事の結果であり、これらは連続する物語である。

旧事紀は饒速日命が既に「神去る」と記すので、天稚彦が射殺した雉を「金鵄」の比喩であると考えた場合、天稚彦のモデルを饒速日命と見るには矛盾を感じるが、実際には記録が無いだけで饒速日命は神武軍との戦いで戦死したとも考える事ができるだろう。

しかしながら、先に述べたように、この話は兄宇迦斯兄磯城それに長髄彦の「死」をもよく似た表現で語られるため、彼ら「饒速日命の勢力」が「天神の子」である天皇家に対し、文字通り「弓」を引いて反抗した事を象徴している。

 

 

さて、古事記では「阿遲鉏高日子根神(味鉏高彦根神)が、天稚彦の殯では何故か「阿遲志貴高日子根命」として登場する。

この「志貴」が「磯城」の事だとすると、もしかすると阿遲志貴は「兄磯城」を指しているのかもしれない。

そうすると、兄磯城は長髄彦の別名だったかもしれず、長髄彦と弟磯城黒速は兄弟だったかもしれない。

古事記は、味鉏高彦根神と下照姫を大国主神「多紀理毘売命」との子神とし、事代主神は母を「神屋楯比賣命」としているので、神武軍に降伏した弟磯城が事代主神のモデルなら、長髄彦と弟磯城は異母兄弟の間柄だったのだろうか。

さらに「天稚彦の殯」に続く「国譲り神話」では「建御名方神」信濃に逃亡するが、味鉏高彦根神の斬り伏せた喪屋が美濃に落ちた話も、美濃が大和から信濃への途上にある事を思えば、長髄彦は死なずに信濃へ逃走したのかもしれない。

しかし、天稚彦の殯は長髄彦の死も表現しているので、信濃に逃げたのは長髄彦本人では無く、味鉏高彦根神の容貌が天稚彦と瓜二つで勘違いされたとの記述から、逃亡したのは長髄彦の近親者だった可能性もあるだろう。

 

 

ところで、古事記は長髄彦を「登美能那賀須泥毘古」又は「登美毘古」と記すが、この「登美(トミ・トビ・トゥミ)」は「(ツミ)」の事では無いだろうか。

 

高句麗の國の傳説には、高句麗の系統といふものは一體東明王から來て居る。東明の名は音通で色々になりまして、鄒牟とも朱蒙ともなることもある。是はどちらも高句麗でありますが、百濟の國になりますと是が「都慕」となります。皆同じであります。東明といふのが又色々に分れるのであります。百濟では都慕と言ひ、高句麗地方の人々は東明とも鄒牟とも朱蒙とも云ふ。日本で大山祇神(おほやまずみのかみ)の祇(すみ)、海童(わだつみ)の童(つみ)も、同音同義である。大山祇を大山咋(くひ)とも申しますが、日本語の隅のことを朝鮮語でクビと申しますから、是も同義だと思ひます。

 

よく引用される話だが、内藤湖南博士は「大山積神」や「綿津見神」の「ツミ」が朝鮮の始祖伝説に見出せると述べている。

「祇」は「地祇(くにつかみ)」と表記するように一般的に「天神(あまつかみ)」の対義語であるが、登美毘古の「登美」が「祇」だとすれば、「神の子(国津神の息子)といった意味合いになりはしないか。

言うまでもなく、この「祇」が「武茅渟祇」の「ツミ」に通じ、それが「賀茂建角身」の「ツヌミ」や「陶津耳」の「ツミミ」に転じたものと推測できる。

しかも、内藤説に基づけば「大山咋」の「クイ」も「祇」の同義語とするので、「三島溝杭」もまた、これらの人物に類することになる。

つまり「登美(鳥見)は、長髄彦が賀茂氏三輪氏の遠祖である可能性を暗示しているのだ。

 

 

しかしながら、長髄彦が賀茂建角身命と同一人物だと主張したい訳では無い。

賀茂社伝承には「賀茂建角身命、丹波の国の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ」とあるので、兄妹関係に照らせば、「玉依彦」の方が長髄彦のモデルだとも言える。

余談だが、常陸国風土記には三輪山説話によく似た話があり、そこに「兄の名、努賀毗古。妹の名、努賀毗咩」とする兄妹が登場する。

この「努賀毗古(のがひこ)」は、地名(那賀郡)に由来するのか、それとも兄妹の名が郡名になったのか、とにかく長髄彦の名に似ている気がする。

長髄彦に似た名前の「努賀毗古」は、神の子を生んだ母の兄に当たるが、この人物は賀茂社伝承では「玉依彦」に該当する。

賀茂氏の伝説と類似点が窺えるのは「長髄彦」と「神の子を生んだ兄妹」の関係だけでは無い。

 

 

賀茂社伝承では、賀茂別雷命が昇天する場面に「七日七夜樂遊」したとあるが、これは天稚彦の殯が「日八日夜八夜遊也」との記載や、旧事紀に饒速日命の死に対して「日七日夜七以遊樂哀泣」とした記述によく似ている。

又、賀茂旧記に賀茂別雷命が御祖神の夢に現れて「吾に逢はむとするに、天羽衣天羽裳を造り、火を炬き、鉾を祭りて待て」と教える場面は、旧事紀に饒速日命が妻の御炊屋姫の夢に「天璽瑞寶を吾が如く形見物にせよ。又、天羽弓矢羽々矢、神衣帯手貫の三物を登美白庭邑に葬し斂めて此を以て墓と為す也」と告げる話によく似ている。

賀茂社伝承では賀茂別雷命の父を「火雷命」として「謂はゆる丹塗矢は乙訓の郡の社に坐せる火雷神」とある事や、矢田坐久志玉比古神社に伝わる飛矢の伝説が乙訓郡の伝説と似ている事を踏まえると、饒速日命は火雷命とも共通性があると言える。

そう言えば、饒速日命の別名である「火明命」は火雷命と一字違いで似ていなくも無い。

 

 

そもそも「天羽羽矢」を所持していた饒速日命や天稚彦は矢に縁がある神と言えるし、一説に賀茂別雷命の父神とする「大山咋神」が鳴鏑を用いるのも、これらの神が異名同神だからかもしれない。

もしかすると、丹塗矢が流れきたと言う賀茂社伝承の「瀬見小河」とは、饒速日命に縁ある大和国鳥見郡の「富小河」が由来かもしれない。