【古代鴨氏物語】大和と河内のシキ | 東風友春ブログ

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磯城県」は神武東征の論功行賞により定められ、県主は「弟磯城」に与えられたと日本紀にあります。

 

天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。珍彥、此云于砮毗故。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名黑速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。

 

この「弟磯城」の名を「黒速」とするのは「磯城県主の波延(又は葉江)」に似ており、もしかすると同一人物か近親者なのかもしれない。

弟磯城こと黒速は「兄磯城」との兄弟で、神武東征時に「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑 或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之」とあり、皇軍に抵抗する長髄彦側の勢力として登場します。

 

 

弟磯城の名を黒速としたり、この兄弟を「磯城八十梟帥」や「磯城彦」と表現するのは、「磯城」が人名ではなく、地名から得られたものかと思われます。

この磯城は、一般的に「石の城」を意味していたと思われ、近世城郭の石垣とはいかないまでも、古墳の葺石や神社の玉垣のように、岩石を巡らせて塁壁とした環濠集落だったのかもしれない。

磯城兄弟は「賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通」とあるように、この石の城に立て籠もっていたのではないでしょうか。

 

 

ところで弟磯城と同じく論功行賞で弟猾(おとうかし)が賜ったとする「猛田県主」とは、その子孫が菟田主水部であることから察するに、ここでは盂田(うだ)の誤写かと思われるが、猛田邑を橿原市東竹田町の「竹田神社」鎮座地周辺に充てる説もある。

その場合、猛田邑は橿原市十市町に大変近い距離となり、「十市県」の前身だった可能性も浮かんでくる。

さて、十市県は、神八井耳命神渟名川耳命(綏靖天皇)に皇位を譲り、古事記に「僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也」、日本紀に「吾當爲汝輔之、奉典神祇者」とあるように、神祇を奉祀するため、大和国十市郡飫富郷(現在の奈良県磯城郡田原本町多)に移住したことによって新たに設けられた県である。

 

 

神八井耳命が神祇を奉祀した場所とは今の「多神社(多坐弥志理都比古神社)」とされ、「多神宮注進状草案」に「號社地、曰太郷、定天社封、神地舊名春日宮 當神社與河内國日下縣神社共所祭神爲同一神格互得春日之名と記すように、神八井耳命の宮は「春日宮」と称し、このことから十市県は当初「春日県」と呼ばれていました。

同じく多神宮注進状草案には「而主神事之典焉、使縣主遠祖大日諸命 鴨王命之子 爲祝而奉仕也」とあることから、春日宮の祝には鴨王命の子が務め、それが縁で鴨王の家系からは磯城県主だけでなく十市県主家も派生しました。

神八井耳命は、古事記に「神八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也とあり、数多くの氏族の始祖となった人物です。

この内、特に十市郡に残って飫富郷を本拠地とした「意富臣(多臣)」は、古事記を編纂した太朝臣安万侶を輩出したことで有名である。

 

 

ちなみに姓氏録には河内国に「志紀縣主、多朝臣同祖。神八井耳命之後也」と記し、河内の「志紀縣主」を神八井耳命の子孫としている。

シキの県は大和国だけでなくお隣の河内国にも存在していたのです。

志紀県は後の「河内国志紀郡」であり、その志紀郡に神名帳「志貴縣主神社」を載せている。

志貴縣主神社は、現在の大阪府藤井寺市惣社一丁目に鎮座し、神八井耳命を主祭神として祀っている。

 

 

この河内の志紀縣主の姿は、雄略天皇の話として古事記に描写されている。

 

爾登山上望國內者、有上堅魚作舍屋之家。天皇令問其家云、其上堅魚作舍者誰家。答白、志幾之大縣主家。爾天皇詔者、奴乎、己家似天皇之御舍而造、卽遣人令燒其家之時、其大縣主懼畏

 

河内国に鰹木を載せた立派な屋敷があるのを目にした天皇は、天皇の御殿に似せた建物があるのはけしからんとして、その家を焼き払おうとするが、その屋敷の主が「志幾の大縣主」でした。

これは、志幾県主が天皇の御殿に匹敵するほどの屋敷を建築できる権威や財力を有していたことに他なりません。

この河内のシキ県は、単に県名が一緒というだけでなく、元を辿れば、おそらく大和の磯城県主と同じ支配勢力の領域から生じたものだと推測します。

つまり、大和朝廷の成立以前より、シキは大和と河内に跨がる地域を支配下に収める一大勢力であったのではないかと思うのです。

これは、神武東征時に河内の孔舎衛坂にて戦端が開かれるなど、河内は大和への玄関口として連携していたと同時に、大和の防衛拠点としての役割も有していたことが想像できる。

さらに見逃せない事実として、河内の志貴縣主神社の東約一八○Mに位置する「国府遺跡」の存在があげられる。

 

 

国府遺跡は、約二万年前とする旧石器をはじめ、縄文時代から弥生時代にかけて計九十体の人骨、古墳時代の土器、飛鳥時代の寺院跡など、旧石器時代から中世に至るまでの遺物が出土した複合遺跡です。

この国府遺跡が永く旧石器時代から続いた集落跡であるということは、神武東征時には既に存在していた旧勢力の居住地であり、この集落こそが河内の志紀県の前身だったはずです。

大和と河内のシキ県が、もともと鴨王が属する集団の支配地であったとしたら、天日方奇日方命の子孫を称する大田々根子が古事記に「河内の美努村」で発見されたとすることにも繋がる気がするのです。

 

 

河内のシキでは、神八井耳命が十市県に移住した縁により、彼の子孫を県主に迎えて「皇別」の地位を獲得したのだろう。

それは、この地が大和川石川の合流地点にあるため古代からの交通の要衝であり、古墳時代には土師氏が隆盛して古市古墳群の一画と化し、奈良時代から平安時代に至っては「河内国府」が置かれて、大和王朝になっても河内国の重要拠点であり続けたからです。