【古代賀茂氏の足跡】飛鳥田神社 | 東風友春ブログ

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山城国紀伊郡八座 大三座、小五座

飛鳥田神社 一名、柿本社

真幡寸神社二座 頭注※真幡寸の寸は「樹」の省なりと或人云へり。信は寸の訓「キ」を用たるなるべし。

【延喜式神名帳】「延喜式」巻九巻十(927)より

 

延喜式神名帳に記載された飛鳥田神社(以下、飛鳥田社)は、式内社調査報告によると論社が四箇所挙げられている。

後継社の確定がほぼ不可能と言っていい状態だと思います。

ただし、伏見区横大路に鎮座する飛鳥田社は、明治十年(1877)京都府から式内社たる認定を受けているとして、式内社調査報告では最も有力視している論社である。

 

飛鳥田神社

所在地/京都市伏見区横大路柿ノ本町

御祭神/別雷神・市杵嶋姫命

例祭/四月二十日(春祭)、九月一日(御千度祭)、十月第三日曜日(秋祭)

孝謙天皇白雉四年(653)天皇貴布祢賀茂両神の神託によって横大路に宮を造り、別雷神を勧請し、翌五年(654)四月廿日斎主卜部倉見をして奉幣せしめられたのを以つて当社の起源とする旨言い伝えている

【式内社調査報告】式内社研究会(1977)飛鳥田神社社伝

 

 

延喜式神名帳には、飛鳥田社について「一名、柿本社」と書かれています。

京都府は、横大路の飛鳥田社が「別雷神」を御祭神とすること、鎮座所在地に「柿ノ本」の小字が残り「柿本社」を連想させる事などから、式内飛鳥田社の可能性が高いと判断したのでしょう。

しかしながら、白雉四年から当地「柿ノ本」に鎮座していたなら、当社をなぜ飛鳥田社と呼ぶのかは謎が残ります。

 

飛鳥田神社はもともと嶋瀉神社と称していた。享保年間(1716-1736)に京都の儒学者並河誠所が地誌編集のために近畿一円を巡見したことがあり、その時に誠所が嶋瀉神社の号は本来は柿本神社であると主張した。その後、横大路村氏子と神主小畠主税との間に社地の範囲をめぐって相論がまきおこり、その時、氏子側が勝手に神鏡の裏に柿本神社という神号をきざんでいたことが発覚し、監督者である京都の吉田家をまきこんだ紛争に発展した。

【河合家文書】「史料 京都の歴史16 伏見区」(1991)所収より

 

河合家文書は、横大路村に居住した河合家に伝わった文書です。

この文書からは、横大路の飛鳥田社を式内社の有力な後継社と視るには疑問を感じます。

境内の鳥居には「慶安五壬申年(1652)嶋瀉弁才天」手水鉢には「明暦三年(1656)嶋瀉弁才天」の刻銘が見られるので、嶋瀉社と称していたのは確かなようです。

 

 

ところが飛鳥田社を名乗る神社はここだけではありません。

城南宮には「飛鳥田神社」と呼ぶ境外摂社が存在するのです。

 

飛鳥田神社(城南宮境外摂社)

所在地/京都市伏見区中島城ノ越町

御祭神/荷田龍頭田の遠祖の霊

例祭/十月第三日曜日(秋祭)

江戸時代の文書に、「荷田龍頭田の田に、祖先の霊が白い鳥となり稲の実を口に含んで飛来した。そこで祖先の霊を祀り飛鳥田神社と名付けた。真幡寸神社と同じく弘仁七年(816)に官社に昇格したが、神社の一帯に東福寺が建てられることになり、延応元年(1239)に今の地に遷られた」等と記される。

【飛鳥田神社社頭案内板】飛鳥田神社護持委員会より

 

城南宮境外摂社の飛鳥田社は、城南宮から南へ少し離れた場所にある小さな祠です。

式内社調査報告によると、以前は周囲を田圃に囲まれた小さな樹林に、基壇を残すのみの荒廃した状態だったそうだが、現在は建物脇の小さな敷地ながらも小綺麗に整備されている。

 

 

二基の石灯籠があるのみであるが、そのうち一基の竿に「安須加多社」なる社名を刻し、「天明甲辰(1784)九月建焉」「施主星野源右衛門清直」なる銘があることによって、その社名が必ずしも最近の比定でないことがわかり、式内飛鳥田社の所在考証に無視し難いことが感ぜられる。

【式内社調査報告】式内社研究会(1977)より

 

当社の由緒では、祖先の霊が白い鳥となって田圃に飛来したので「飛鳥田」の神と呼ぶようになった由来が伝わっています。

さらに注目すべきは、祖先の霊が現れた田圃もしくは田圃の持ち主が「荷田龍頭田」であり、「龍頭太」とは稲荷大社の創建譚にも登場する神名で、稲荷社神官の「荷田氏」は龍頭太の子孫に当たるとされているのです。

この事は、飛鳥田神と稲荷大社及び秦氏との関係を深く物語っていると感じるのです。

しかし、稲荷大社と所縁の深い飛鳥田神が城南宮摂社になっているのは何故でしょうか。

 

 

 旧記に曰く、四条天皇御宇延暦元年(782)九条殿下道家公、東福寺を御建立に就き、当社の敷地へ遷座すべしとの由、台命により真幡寸神を相殿に配せ祭り、飛鳥田神を三丁余ばかり南の森中に祭るといふ。

【城南宮伺書】明治二年九月(1869)京都府立総合資料館所蔵「菊号調書」の翻刻と解説より

 

城南宮には飛鳥田社だけでなく真幡寸社の遷座についても記録が伝わっているようです。

東福寺建立によって遷座を余儀なくされたなら、もともと飛鳥田社は東福寺が建つ辺りに鎮座していた事になります。

 

今東福寺中門北東側に小社有り。土人曰く、塚本社と。疑はしくは柿本社か。

【山城名勝志】大島武好(1705)「新修京都叢書」より

 

東福寺の側には近世まで塚本社という小社があったようです。

この塚本社を「柿本社」に推定する説があるのは、東福寺付近に「福稲柿本町」の地名が残り、この地に往古「柿本里」があったからという理由によります。

 

大江左衛門業尚先祖相伝の私領なり。山城国紀伊郡に柿本里在り。大和大路より西云々 

【八坂法観寺古文書】貞応二年(1223)四月十六日「新修京都叢書」より

 

 

塚本社は、明治十年(1877)に祠が廃され、跡地の土塚は大正十三年(1924)に陵墓参考地に指定され現在に至ります。

塚本社を「廃帝社」とも呼んだので、土塚が九条廃帝(仲恭天皇)の陵墓ではないかと考えられたためです。

 

塚本の社の址

所在地/京都市東山区本町十六丁目

本町十六町目東側三百零八番地に在り。少祠ニ宇南面す。祭神一は淳仁天皇、舎人親王、早良親王。一は神功皇后、井上皇后、他戸親王を合祀す。其鎮座の起原詳ならず。祭日五月五日とす。境内面積百三十二坪三合ありしが、明治十年一月廃社となる。地は遂に民有に帰す。此社往古柿本社と云ふ。蓋し此邊の地名なりしを以てなり。

【京都坊目誌】碓井小三郎(1916)「新修京都叢書」より

 

しかし、京都坊目誌に記されている塚本社の祭神は、およそ実在した人物の御霊であり、日本紀略「鴨別雷神の別也」とする飛鳥田神とは異なるように感じます。

もちろん城南宮摂社の飛鳥田社遷座はもっと古い時代の話ですし、明治十年に廃社になった塚本社とは関係がありません。

 

ところが、藤森神社の主張では、藤森社本殿西座はこの塚本社が遷座したものだと伝えているのです。

 

 

本殿西殿(西座)御祭神は早良親王、伊豫親王、井上内親王の三柱。

(前略)早良親王は延暦四年(785)事に座して淡路に流される途中で亡くなられた。延暦十九年(800)親王は崇道天皇と追号され、塚本の地(京都市東山区本町十六丁目)に祀られた。天長三年(826)伊豫親王、井上内親王の二柱を合祀し、官幣の儀式が行われた。塚本の宮は、たびたびの火災により小天王の地(深草西出町)へ移り、応仁の乱で焼失したため三柱は藤森に遷され、西殿に祀られた。

【藤森神社ホームページ】藤森神社縁起より

 

藤森社の由緒には塚本社の遷座の経緯がしっかりと記されており、京都坊目誌が記す塚本社藤森社西座では、御祭神に若干の違いが認められるものの、藤森社西座の旧地が塚本社だったという説は信用に値します。

したがって、塚本社を柿本社であると推定するには、東福寺建立時と明治十年では御祭神が代わったという事実が必要で、ただ鎮座地が昔は柿本里だったという事だけでは根拠になり得ません。

つまり、塚本社と飛鳥田神とは何の関係もないと言えるでしょう。

 

 

さて、この続きは、次号「田中神社」にて。