【古代賀茂氏の足跡】田中神社 | 東風友春ブログ

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さて、式内社調査報告では、式内飛鳥田社の論社として他に「田中神社」をあげています。その理由は、稲荷五社合祀の際の告文に、田中社に「飛鳥田」と分注されているからです。

 

 

伏見稲荷はもと三座なれども弘長三年(1263)告文ありて、文永三年(1266)正月十六日、田中社飛鳥田、四大神三諸を併まつりて五座とせしよりこのかた稲荷五社と崇め奉て(後略)

【神名帳考證】伴信友(1813)より

 

伏見稲荷大社は、もともと宇迦之御魂神を主祭神として三座だったのを、田中大神、四大神を合祀して五座としたものです。

伴信友は、合祀の際の告文により田中社を飛鳥田社と考え、最終的に田中社は稲荷大社に合祀されたので、稲荷大社が飛鳥田社の後継社だと考えたようです。

 

今、明日荷田社と云ひ、稲荷上社傍に在り、地主神。

【神名帳考證】伴信友(1813)より

 

余談ですが、告文には四大神「三諸」と分注されており、こちらは現在所在不明となっている式内社「御諸神社」が稲荷に合祀されたのではないかと目されています。

 

山城国紀伊郡八座 大三座 小五座

御諸神社

稲荷神社三座 並名神大、月次、新嘗

【延喜式神名帳】「延喜式」巻九巻十(927)より

 

現在、伏見稲荷大社の説明では、本殿向かって左側より順に、田中大神(田中社)佐田彦大神(中社)宇迦之御魂大神(下社)大宮能売大神(上社)四大神の五柱の神が祀られています。

 

 

その他にも、稲荷山中の荒神峰「田中社神蹟」と呼ばれる塚所があって、田中大神に関係ある場所と思われるが、拝所の扁額には「権太夫大神」とあり、詳しい由来は不明。

 

 

また、稲荷大社及び稲荷山中には「荷田社」と呼ばれる末社がいくつか存在し、荷田氏の祖霊を祀っています。

 

荷田社は東丸神社祭神荷田東丸の遠祖荷田殷、嗣、早、龍の四霊を合祀しています。

和銅四年(711)稲荷大神稲荷山三ヶ峰鎮座の際、最初に奉仕したのが第二十一代雄略天皇の皇子、磐城王の裔である荷田殷であって、爾来荷田家は代々稲荷社正官御殿預職をつとめましたが、この祖神のうち特に龍は高徳で学問をよくし、弘法大師とも親交あり、龍頭太夫龍頭太などと称せられました。

弘仁八年(818)十二月十三日その帰天のとき、雷鳴風雨はげしく、早咲の梅花悉く裏向きに降らし黒雲を呼び、あかたも龍神昇天の如くであったと伝えられています。

【東丸神社末社荷田社案内板】より

 

 

稲荷大社摂社の東丸神社境内の荷田社の案内板には、城南宮摂社の飛鳥田社由緒に登場した「龍頭太」が登場します。

やはり荷田社は「明日荷田社」から来ているのでしょうか。

ここでも、飛鳥田社と稲荷大社との深い関係が窺えます。

尚、東丸神社祭神の荷田東丸命とは、江戸時代の国学者で知られる荷田春満のことです。

 

 

さて、冒頭に式内社調査報告では田中神社(以下、田中社)も飛鳥田社の論社に挙げられていると述べましたが、肝心の田中社については紹介していませんでした。

 

 

田中社、同街三橋の南三町目西方にあり。稲荷五座の一神たり。世人、稲荷叔母乃神たりといふ。古は田野の中にあり、故に名とす。

【拾遺都名所図会】秋里籬島(1787)より

 

田中社は、稲荷大社前本町通り北約700mの地点にも、境外摂社として存在しています。

田中社の記述は古く、すでに古今著聞集十訓抄(共に鎌倉時代中頃成立)には、和泉式部の説話の中に田中社が登場しています。

 

田中神社(伏見稲荷大社境外摂社)

所在地/京都市東山区本町二十丁目

御祭神/田中大神

例祭/十一月十一日(火焚祭)

本町二十町目西側四百三十番地にあり。官幣大社稲荷神社の境外摂社たり。華表中門社殿共に東面す。祭神五座の内なり。本社明細図書に二座相殿。北を田中社、神名不詳。旧神官の伝には建角身命とも大己貴命とも猿田彦大神に大歳神をも合祭すと云ふ。南を四大神、大八島神とも三輪大神とも、旧神官の伝には大己貴神とも大己貴幸魂下社。中社。上社の三神奇魂を合祭すとも云へり。摂社八島神社周らすに玉垣を以てす。祭神四大神とも三輪大神とも云へり。

【京都坊目誌】碓井小三郎(1916)新修京都叢書より

 

世人に「稲荷叔母の神」とも言われるように、田中社は稲荷大社にとって特別な神社で、京都坊目誌では二座相殿を「四大神」とし、おそらく五座合祀は、この神社を吸収合併するような形ではなかったかと想像してしまう。

 

 

当社最初鎮座の年月及び其地を詳にせず。或は九條にありて洪水社地を浸害するを以て、之に遷すと其後沿革を詳にせず。祭日本社に同じ。火焚祭十一月十一日とす。

【京都坊目誌】碓井小三郎(1916)新修京都叢書より

 

京都坊目誌には田中社の遷座について注目すべき記述が続きます。

飛鳥田社の論社は、遷座の伝説を持つ神社が多いのだが、当初九条にあった田中社は実は飛鳥田社の可能性があるのではないか。

東福寺の建つ場所も九条の付近と言えそうだが、同じく京都坊目誌に引用された稲荷谷響記にも、田中社旧跡について興味深い記事を載せる。

 

田中社の旧跡は東福寺門前田中町に在り。今に小社あり。古老伝云、昔日は社地広大なり。今に狭きものは延応の比、東福寺御建立の時、寺家の領地となるもの多しと也云々。

【稲荷谷響記】新修京都叢書所収「京都坊目誌」より

 

田中社の旧跡が東福寺門前田中町(現在所在不明)にあって、「今に小社あり」とは「塚本社」を指していると思われるが、「昔日は社地広大」とは、もしかすると、その地にあった柿本社御諸社のことを指しているのではないだろうか。

ともかく、東福寺建立により遷座を余儀なくされたという話は、城南宮摂社の飛鳥田社の伝承と旧鎮座地が一致します。

 

 

最後に、式内社調査報告に論社とされている、もう一つの田中社を紹介しましょう。

 

田中神社

所在地/京都市伏見区横大路天王後

御祭神/素盞鳴尊・櫛稲田姫命・八柱御子神

例祭/四月十日(春祭)、十月第三日曜日(秋祭)

当社は平安時代治歴年間(1065–69)に祇園感神院(現在の八坂神社)より神霊を勧請し産土神としたことに始まる。当初は鳥羽里田中に鎮祭し牛頭天王田中神社と称したが、その後安土桃山時代に起こった洪水のため社殿が流され、漂着したのが現在地である。この時社殿は全くの無傷であったため、村人はその奇跡を喜び、境内を整備し盛大な祭典を催したと伝えられている。

【田中神社社頭案内板】より

 

こちらの田中社は、横大路飛鳥田社のすぐ近くに鎮座しており、稲荷五座合祀告文の分注に関連して論社としたようだが、牛頭天王を祭神とする点で創始年代がやや新しく、式内飛鳥田社とは関係ないのではと思われる。

ただし、旧鎮座地の鳥羽里田中とは「伏見区竹田田中殿町(城南宮の北、真幡木町の隣)」辺りと推測され、洪水により遷座の歴史を有している事は些か興味深い。