式内乙訓坐火雷神社の論社には、向日社の他にもう一つ、「角宮神社(以下、角宮社)」があります。
角宮社は向日社の約800m西方、古くからの集落と思われる「長岡京市井ノ内」に鎮座しています。
角宮神社
所在地/京都府長岡京市井ノ内南内畑
御祭神/火雷神・玉依姫命・建角身命・活目入彦五十狹茅尊
例祭/五月一日
継体天皇六年五月勅して乙訓社を建営し給ひ、火雷神を鎮め給ふ。延暦四年二月十二日、桓武天皇勅して玉依姫命、建角身命、活目入彦五十狹茅尊の三神を火雷神と共に鎮め給ひ、同年四月朔日天皇行幸奉幣し、角宮乙訓大明神と仰ぎ給ふ。
【角宮神社社伝】「式内社調査報告」より
社伝では継体天皇により創建されたとある。
日本紀に「継体天皇十二年、都を山城国乙訓に遷した」とあるが、社伝が伝える乙訓社の創建時期とはややズレがあり、継体天皇の都と関連があるのかは不明。
しかし、乙訓社は承久の変(1221)に際してその運命が一変します。
中世になり、社運にかかわる大事に遭遇した。世にいう承久の変のことである。この変に際し、乙訓社は朝廷に味方した。しかし、官軍には利あらずで、賊将の三浦義村が西の丘に侵入することとなり、神社はついに回録し、乙訓社の神官の一人である六人部氏義は、一時、丹波に逃れ隠棲することとなった。
【角宮神社略誌】林和夫(1986)「乙訓の原像」より
承久の変により、神官の六人部氏義が丹波に逃れた事や、乙訓社が一時廃絶状態になった事については、角宮社と向日社の伝承は同じようだ。
つまり、承久の変は、二つの神社が式内乙訓社の後継を主張している原因になったと言えそうです。
井ノ内では、宮山の旧社地に替えて現鎮座地(旧社のお旅)に移り、ここに乙訓社をお祀りした。この造営について社伝に「文明十六年(1484)後土御門天皇再び営御し給い卜部兼倶卿をして今の地(現在の角宮の地)に幣を捧げ給う」とある。
【角宮神社略誌】林和夫(1986)「乙訓の原像」より
向日社の主張では、丹波から帰った六人部氏が、乙訓社の御神体を向日社に納めたとするのに対し、角宮社の主張では、もともと御旅所のあった現在地に乙訓社を復興したと伝えています。
角宮社の説明では、乙訓社の旧鎮座地は、現社地より約500m西に離れた「長岡京井ノ内宮山」にあったそうですが、こちらも確かな情報が無く所在不明。
ただ、向日社では「下ノ社」鎮座地が向日山麓に在ったと伝える事から、角宮社と「下ノ社」では、由緒も旧社地も全く異なる別の神社だと言わざるをえない。
下ノ社火雷神社を併祭するに至り大変紛らはしい事が色々と生じた。それは併祠した事実を隠していた上、相殿神の由来についても明白でなかった。
【向日神社社誌】六人部克己(1940)「乙訓の原像」より
乙訓社(角宮社)の復興は、井ノ内の村民の熱い働きかけに、卜部兼倶(吉田兼倶)が応えたものだと思います。
この時、向日社からは異議が出なかったようです。
向日社によれば、向日社で火雷神を併祭している事実を、地元にも隠していたからですが、この辺りの経緯は何とも釈然としません。
結局、この事が後々になって、式内社争いの火種になってしまうのです。
乙訓神社 井ノ内に在り。鳥居南向木柱、拝殿南向、社同。二社相並べり。一は乙訓神、一は春日四所を祭る所也。
【山州名跡志】釋白慧(1711)より
角宮社の復興後、角宮社は村から選ばれた宮年寄によって祀られてきました。
江戸時代に入ると、角宮社は「乙訓社」又は「乙訓大明神」と呼ばれ、山州名跡志や山城名勝誌など様々な地誌に紹介されるようになります。
これに対し向日社では、角宮社は乙訓社ではなく、もともと「建角社」という別の神社であり、向日社の所管社だと考えていました。
然るに、天和貞享頃に至り、建角社を乙訓社と称する説が俗間に生じた。元来この建角社と云ふのは、井内村にある所管内の社で建角命を祭り、俗に角宮とも云っていた。
【向日神社社誌】六人部克己(1940)「式内社調査報告」より
しかしながら、文化二年(1805年)幕府より「寺社の社格及び本末改め」の御触れが出され、向日社が「角宮社は向日社の摂社である」と主張したのを機に、向日社と井ノ内村では対立が表面化し、訴訟沙汰にまで発展しました。
井ノ内村の神事拒否をうけて、祭礼後の文化二年五月二日、向日神社が京都町奉行所へ出訴におよびます。 この争論をすすめるにあたって、井ノ内村は、唯一神道の吉田家の威光を背景にもつ向日神社に対抗するために、四条家の代官井上帯刀に相談し、角宮神社が賀茂社の流れをくむものと主張しています。
【ふるさとファイル第41号「むらの訴訟と解決」】生涯学習課文化財係(2010)より
この訴訟は、奉行所の勧告により和解が成立しましたが、どちらが乙訓社の後継社であるかは争点でなく、双方が式内論社を主張して現在に至っています。
最後に、江戸時代に記された「金蔵寺略縁起」や向日神社の社記に、こんな伝説があるのを紹介します。
向日明神は初め金蔵寺のある付近に出現したとされます。山の上から東へ三本の矢を放ち、最初の矢が落ちたところが「栢森」(大歳神社の別名)、二本目の矢が落ちたところ「角森」(角宮神社)、三本目の矢が落ちたところが「向日宮」になったと伝えます。
【平成18年度向日市文化資料館企画展「向日神社」開催記念 歴史ウォーク資料】より
向日神に関する伝説ですが、角宮の地に矢が落ちたというのは、向日神が「矢を用いる神」である事を物語っています。
また、この話は、西の方から丹塗矢が飛んできたという久我社の伝説と似ており、何か因縁めいていて面白い。