【古代賀茂氏の足跡】葛城一言主神社 | 東風友春ブログ

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修験道の祖とされる「役小角」は賀茂氏の出である。

 

役の優婆塞と申す聖人御けり。大和国葛上郡茅原村の人也。俗称は賀茂役の氏なり。(中略)優婆塞、葛木の一言主の神を召て云く、「汝ぢ何の恥の有れば形をば可隠きぞ。然らば、凡そ造り渡すべからず」と云て、嗔りて、呪を以て神を縛て、谷の底に置つ。其後、一言主の神、宮城の人に付きて云く、「役の優婆塞は既に謀を成して国を傾けむと為る也」と。

【今昔物語集】(平安末期)巻第十一本朝付仏法より

 

「賀茂役の氏」とは、日本霊異記「役の優婆塞は、賀茂の役の公、今の高賀武の朝臣といふ者なりき。大和国葛木上郡茅原の村の人なりき」とあり、高賀茂朝臣の一族のようです。

この役小角は、修験道及び様々な霊場の開祖とされるが、伝説上の人物ではなく実在の人物である。

役小角は、奈良県御所市茅原の吉祥草寺を生誕の地としており、大和志料「五大明王を本尊とし役小角の開基と為せり、小角俗姓賀茂役君氏にして茅原の産なり」と記されています。

 

 

ちなみに日本霊異記では、一言主神「一語主の大神」と書いて、今昔物語集と同じような記事を載せています。

今昔物語集では、役小角は葛城山と金剛山に橋を掛けるよう諸神に命じますが、人目を憚って夜にしか働かない一言主神は、役小角に怒られて谷底に置き去りにされます。

これを恨んだ一言主神は、都人に取り憑いて悪評を流し、その結果、役小角は伊豆に流されてしまいます。

 

文武三年(699)五月丁丑、役君小角、伊豆島に流す。小角、初めは葛木山に住む。咒を以って術と稱す。外從五位下韓国連廣足は、小角を師とす。後に其の能を嫉み、世人を妖惑すと讒言す。故に遠所に配す。世に相伝へて云はく、小角、よく鬼神を使役し、水を汲み薪を採る。若し命を用いざれば、即ち咒を以ちて之を縛る。

【続日本紀】(797)巻第一より

 

続日本紀では、役小角は韓国連廣足の讒言により伊豆に流されています。

これは史実だったらしく、この事件が今昔物語集や日本霊異記では脚色されて、役小角と一言主神の説話の元になったのです。

役小角は、鬼神を使役できたと当時噂されたそうだが、このあたりの資質が、後に賀茂氏の陰陽道家に繋がったのかもしれない。

 

 

一言主神が出現したとされる地に鎮座しているのが、葛城一言主神社(以下、一言主社)です。

この地は、古事記「神沼河耳命、葛城の高岡宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある綏靖天皇の高岡宮があったと伝わる。

大和志料に「葛城高丘宮、綏靖帝の皇居なり、吐田郷村大字森腋にあり」とされる御所市森脇には、葛城古道沿いに一言主社への鳥居が立ち、県道30号線をまたいで葛城山方面に参道が延びている。

 

葛城一言主神社

所在地/奈良県御所市森脇(小字角田)

御祭神/葛城之一言主大神・幼武尊

例祭/四月五日(春の大祭)、九月十五日(秋の大祭)

一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。このように天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。

【葛城一言主神社由緒書「いちごんさん」】より

 

葛城一言主神社の御祭神は、葛城之一言主大神及び幼武尊の二柱。

延喜式神名帳には、大和国葛上郡十七座(大十二座、小五座)の中に「葛木坐一言主神社 名神大社、月次、相嘗、新嘗とある。

一言主社は「葛城明神」「一言(いちごん)さん」とも呼ばれ、延喜式神名帳では名神大社、旧社格は県社

全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社でもある。

一言主社の初見は、「文徳実録」(879)に「嘉祥三年(850)十月辛亥、葛木一言主神に正三位を授く」とあるのが最も古い。

本殿背後の山中には磐座があるらしく、式内社調査報告によると「神殿西方約50mの磐境(奥宮)は信仰の対象となり、神聖視されている」とされるが、現在は危険なため立入禁止になっている。

また、境内には、土蜘蛛の頭と胴と足の三つに分けて埋められたという塚が三つ伝えられている。

 

 

さて、一言主神は、旧事紀素戔嗚尊の子神として「葛木一言主神。倭国葛木上郡に坐す」と記載されていますが、一説に味鉏高彦根神、もしくは事代主神と同一視されるなど、系統の不明な神であります。

しかし、一言主神が記紀に初めて登場するのは、出雲神の系譜上ではなく、雄略天皇幼武尊)の時代です。

日本紀では、雄略天皇四年、天皇が葛城山に狩りに出掛けた時、「忽に長き人を見る。来りて丹谷に望めり。面貌容儀、天皇に相似れり」といった、天皇と容貌のそっくりな長身の人物に出会います。

 

ここに天皇望けまして、問はしめて曰りたまひしく、「この倭国に、吾を除きてまた王は無きを、今誰れしの人ぞかくて行く。」とのりたまへば、すなはち答へて曰す状もまた天皇の命の如くなりき。ここに天皇大く忿りて矢刺したまひ、百官の人等悉に矢刺しき。ここにその人等もまた皆矢刺しき。故、天皇また問ひて曰りたまひしく、「然らばその名を告れ。ここに各名を告りて矢弾たむ。」とのりたまひき。ここに答へて曰しけらく、「吾先に問はえき。故、吾先に名告りをせむ。吾は悪事も一言、善事も一言、言ひ離つ神、葛城の一言主大神ぞ。」とまをしき。

【古事記】太安万侶(712)より

 

古事記も日本紀と同様の記事を載せ、葛城山中にて、天皇一行とそっくりな一団に出会った天皇は、「この国に自分以外に王はいないはずだが、何者か」と問うと、相手からもまたそっくりな言葉が返ってくるのです。

ここで天皇は怒り、双方は矢をつがえて一触即発の状況になります。

相手の言葉により、一言主神だと知った天皇は畏みて、弓や刀を捨て、従者の衣服を脱がせて、それらを大神に献上するのです。

気分を良くした大神は、天皇一行を長谷の山口(現在の近鉄線「長谷寺」駅辺り)まで見送ります。

 

 

この辺の記述は記紀に若干の違いがあるのですが、日本紀では、一言主神が「現人之神ぞ。先づ王の諱を称れ」と言って、名乗る前に自分が現人神であると告げます。

それから、一言主神と天皇は和解し、共に馬を並べて狩猟を楽しんだ後、一言主神は天皇を来目水(来目川、現代の曽我川)まで見送るのです。

 

しかしながら、実はこの時、天皇の機嫌を損ねてしまい、一言主神は土佐国に流されてしまう異説があります。

役小角といい雄略天皇といい、一言主神には相手を怒らせてしまう性質があるのかもしれません。

そして、それは一言主社の鎮座時期に関わる話なのですが、その話はまたの機会に。