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司馬遼太郎(1998)『竜馬がゆく(一)(二)』文春文庫

竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎

¥620
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竜馬がゆく〈2〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎

¥620
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 渡世、という言葉が私は好きだ。
 のらりくらりにでも今、目の前に見える世の中を生ある限り暮らしていく。そんな生き方が私の理想だ。そんな理想に近しい人間として私がぱっと思いついたのが、「竜馬」だった。これから自分がいかに世を渡っていくか考えながら、本書を読んだ。
 土佐から江戸へ遊学に出た、若き竜馬。齢は弱冠二十歳。彼は江戸生活の中で、長州藩の桂小五郎ら、意気揚々とした青年たちと出会っていく。
 二十代の若者が天下国家の向かうべき道を論じ合い、そのために行動をなしていく姿を見て、わたくしは自分の現状を省みてしまった。ただ、彼ら自身何か特別なものを持っているわけではなく、今のわたくしと違うのは自分を取り巻く世間一般の情勢だけである。彼らの輝きは、その生き様一つ一つに現れる意識の高さゆえである。幾万もの若者が割拠する江戸の中で、後に国を、歴史を動かしていくことになる人間とは、かくある人物なのだ、ということを深く意識させられた。

 石川島造船所の成り立ち、岩崎弥太郎の暗躍が描かれた場面に興奮した。

三島憲一(2006)『現代ドイツ―統一後の知的軌跡』岩波新書

現代ドイツ―統一後の知的軌跡 (岩波新書)/三島 憲一

¥819
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 ヨーロッパの国なら、ドイツに興味がある。神聖ローマ帝国に始まるドイツと呼ばれるこの国家は、いつだって私にとってはヨーロッパの中心だ。そんなドイツにおける、現代知識人たちの思想に触れているのが、本書だ。
 現代ドイツというと、つい「ネオナチ」をイメージしてしまう私だが、ドイツの知識人のもつ思想というのは「ネオナチ」に負けず劣らず、危なっかしいように感じた。そうした、ある意味バランスを逸しているようにみえる数々の思想の存在は、ドイツが未だナチスという「過去」の影響下にある証明である、ともいえそうだ。
 たとえば、90年代いゴルトハーゲンという学者が登場する。彼は、ドイツ人は無理矢理ではなく、自ら進んでユダヤ人殺しをしていたのだ、と主張する。そこでもちろん、この主張にドイツの歴史家たちは怒りを見せる。ある歴史家は、ゴルトハーゲンのしていることはホロコースト関係の議論でカネを儲ける、いわば「ホロコースト・ビジネス」だ、と批判する。またある作家は、「いつまでもナチの過去を。この我々の恥辱を毎日のように新聞、テレビ、シンポジウムなどで見せつけられ、論じられてはたまらない。論じる側に絶対の正義があるかのような議論もいい加減にしてほしい」と論ずる。すがすがしいほどに、幼稚でヒステリックな議論だ。
 ドイツ人の歴史に縛られ続ける姿が、我がことのように感じられ、痛々しく感じた。

佐野眞一(2004)『だれが「本」を殺すのか』新潮文庫

だれが「本」を殺すのか〈上〉 (新潮文庫)/佐野 眞一

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だれが「本」を殺すのか〈下〉 (新潮文庫)/佐野 真一

¥700
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 出版社。取次。書店。陸運。図書館。古本屋。漫画喫茶。そして我々読者。いったい「だれが本を殺すのか」を問いかけながら、筆者は「本」の未来図を述べていく。
 業界にとっては厳しい現実が突きつけられる場面がほとんどだった。今後とも大局的な点での出版不況は免れないだろう。
 また実際に「本」に関わる世界の人間に対するインタビューが興味深かった。出版業界を取り囲む制度問題、古き体質のもたらす旧弊の数々の影響を受けながらも、強い意志と新たな発想を持って出版に携わり続ける人間に希望を抱いた。
 本書を読めば、出版界における構造的問題についての多面的な知識を持つことができるだろう。

司馬遼太郎(2005)『功名が辻』文春文庫

功名が辻〈1〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎

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功名が辻〈2〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎

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功名が辻〈3〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎

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功名が辻〈4〉 (文春文庫)/司馬 遼太郎

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 戦国時代を生きた女性「千代」の目線で、その時代の躍動を捉えた作品。
 戦国の世を「功名」がために駆け抜ける男たちを尻目に、そんな彼らを背中から見守ると同時に、冷静に男の生き様を分析している女性、それが筆者の描く「千代」である。
 「千代」は、優れた男性に憧れるありふれた女性。だからこそ、夫一豊だけでなく、時に秀吉を、時に家康を注意深く観察していた。それは、言ってしまえば街中で男を品定めする利発な現代女性と何一つ相違なき姿である。そして、その経験から多分に目の肥えた「千代」にとって、一豊は物足りない、夫であった。そんな彼が、「ただ律儀である」というたった一つの武器をこの狂乱の時代をのし上がっていく。わたくしはその処世術の在り方に大きな学びを得た。
 また、一豊に飽きれながらも、一方では強く愛していた「千代」に女性の恐ろしい多面性をみた。一方で深い愛を示しながらも、他方では冷酷な視点を持てつことができる。それが、女性というものである。そんなことを感じさせる物語の幕切れだった。

立花隆(1999)『ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論』文春文庫

ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論 (文春文庫)/立花 隆

¥540
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 筆者は相変わらず凄いなぁ、というのが率直な感想である。
 自然科学から社会科学に至るまでよくもまあ、こうも手広く研究できるものである。その圧倒的な研究量、読書量には誰もが舌を巻かざるを得ないだろう。読んでいるとふいに、筆者は自身の知識量を自慢しているのか、といって気持ちになるが、たとえ知識のひけらかしであろうと、ここまで大風呂敷を広げることができるのならば、誰も文句を言えまい。
 本書を読む目的は、筆者のもつ豊富な情報網に及ばずながらも触れ、我々自身の知的好奇心を刺激させることに終始すべきである。決して筆者と張り合おうとか、筆者のように生きようと思って読んではいけない。エッセンスさえ盗み取れば、それで充分である。
 論ずべき対象として、語り合うためのマテリアルとしての「古典」を述べている箇所には、強く共感した。古典というモノは、それ自体「新陳代謝」を繰り返すものであって、幾重もの時代を超えて読まれる古典こそが、古典たりえるのだ、と。
 前半の対談形式の内容もさることながら、後半の「私の読書日記」も興味深い。時折見せる、お茶目な本紹介が痛快だ。
 読書熱を再燃させる、そういう一冊である。