立花隆(1999)『ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論』文春文庫
ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論 (文春文庫)/立花 隆

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筆者は相変わらず凄いなぁ、というのが率直な感想である。
自然科学から社会科学に至るまでよくもまあ、こうも手広く研究できるものである。その圧倒的な研究量、読書量には誰もが舌を巻かざるを得ないだろう。読んでいるとふいに、筆者は自身の知識量を自慢しているのか、といって気持ちになるが、たとえ知識のひけらかしであろうと、ここまで大風呂敷を広げることができるのならば、誰も文句を言えまい。
本書を読む目的は、筆者のもつ豊富な情報網に及ばずながらも触れ、我々自身の知的好奇心を刺激させることに終始すべきである。決して筆者と張り合おうとか、筆者のように生きようと思って読んではいけない。エッセンスさえ盗み取れば、それで充分である。
論ずべき対象として、語り合うためのマテリアルとしての「古典」を述べている箇所には、強く共感した。古典というモノは、それ自体「新陳代謝」を繰り返すものであって、幾重もの時代を超えて読まれる古典こそが、古典たりえるのだ、と。
前半の対談形式の内容もさることながら、後半の「私の読書日記」も興味深い。時折見せる、お茶目な本紹介が痛快だ。
読書熱を再燃させる、そういう一冊である。

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筆者は相変わらず凄いなぁ、というのが率直な感想である。
自然科学から社会科学に至るまでよくもまあ、こうも手広く研究できるものである。その圧倒的な研究量、読書量には誰もが舌を巻かざるを得ないだろう。読んでいるとふいに、筆者は自身の知識量を自慢しているのか、といって気持ちになるが、たとえ知識のひけらかしであろうと、ここまで大風呂敷を広げることができるのならば、誰も文句を言えまい。
本書を読む目的は、筆者のもつ豊富な情報網に及ばずながらも触れ、我々自身の知的好奇心を刺激させることに終始すべきである。決して筆者と張り合おうとか、筆者のように生きようと思って読んではいけない。エッセンスさえ盗み取れば、それで充分である。
論ずべき対象として、語り合うためのマテリアルとしての「古典」を述べている箇所には、強く共感した。古典というモノは、それ自体「新陳代謝」を繰り返すものであって、幾重もの時代を超えて読まれる古典こそが、古典たりえるのだ、と。
前半の対談形式の内容もさることながら、後半の「私の読書日記」も興味深い。時折見せる、お茶目な本紹介が痛快だ。
読書熱を再燃させる、そういう一冊である。