茅(かや)

皆様こんにちは

今回も茶花から、茶道や日本の文化
工芸を一緒に學んでいきたいと思います。

今回は【茅(かや) 】です。


◼️茅(かや) と共に生きる日本人

まず、あまり知られていない所では
端午の節句の粽は本来は
笹ではなく茅(ちがや)です。


またイネやムギなどの茎(藁)は
水を吸ってしまうのに対し、茅の茎は
油分があるので水をはじき、耐水性が高く
古くから茅葺(かやぶき)屋根
として利用されてきました。

茶室の茅葺屋根はもちろん、
私の住む岐阜県にある
世界遺産に認定された白川郷
合掌造りの茅葺屋根はあまりにも有名です。




◼️浅茅生(あさぢふ)から生まれた日本の抒情

茅といえば晩秋~初冬の風情ですね。

影とめし 露のやどりを 思ひいでて 
霜に跡とふ 浅茅生の月
飛鳥井雅経

⚫訳
秋には、月はちがやの露に
かりそめの宿を借りて、
光を映しとどめていたが
冬になった今、その頃を思い出して
その名残を訪ねるかのように
霜に映って光る月


◼️『浅茅生』『露』そして『月』を愛で
  確立した日本人の美の感性

醍醐天皇の勅命により『万葉集』に
撰ばれなかった古い時代の歌から
和歌を撰んで編纂した
『古今和歌集』は平安時代前期
905年~912年ごろ完成しました。

その中で「秋の月」は8首しか
撰ばれていません。

対して
後鳥羽院の院宣により定められ
平安時代後期1201年~1210年に
完成した『新古今和歌集』では
その様子が一変します。

秋の月が70首
春の月が14首
夏の月が11首
冬の月は約30首
も詠まれています。

『古今和歌集』の編纂から300年後に
『新古今和歌集』は編纂されました。

この300年の間に日本人の
「月」への関心が一気に
飛躍したことになります。

その理由は966年8月15日、
きっかけだと云われています。

「栄花物語」第一巻名の由来とも
なったこの「中秋の月見」は
以後宮中の正式行事として
定番化されました。

正式な宴には
もちろん「歌」が詠まれますから
「中秋の月」の歌が増えたことで

現代に続く『秋は月』という
日本人の美の感性がここに確立されたのです。


つまり『浅茅生』『露』
そして『月』
それは源氏物語から定家へ、
そして現代の私達に継承された大切な
美の感性でもあるのです。


◼️村上天皇と『鶯宿梅(おうしゅくばい)』

ある時内裏の清涼殿の前にあった
梅の木が枯れてしまったので、
村上天皇は替わりのものを
探すように命じました。

あちこち探しますが、
まったく良いものが見つかりません。
しばらくして都の外れのある家に
たいへん見事な紅梅が見つかりました。

さっそく主命であることを告げ
その紅梅を掘り返し内裏に運ぼうとすると、
家の者が主からの文を短冊にして
枝に結びつけ、どうかこのまま
お持ちくださいといいました。

めでたく清涼殿の前に
移植されたその紅梅は、以前より
勝るとも劣らない立派なもので、
村上天皇も大変喜びました。

ふと見るとそこに短冊が結ばれています。
不審に思って開けてみると、
そこには

勅なれば いともかしこし 鶯の 
宿はと問はば いかが答えむ

⚫訳
勅命とあらば、この紅梅を献上することを
断るのは、全く畏れ多いことですが
もし紅梅に毎年巣を作る鶯
やって来て
いったい私の宿はどこへ行ってしまったの
だろうか?と尋ねられたらさて私は
どのように答えたらよいのでしょう。

とあった。
この歌の作者がただ者ではないと察し
村上天皇が調べさせると
その家の主人は紀貫之の娘の
紀内侍(きのないし)であること、
そして父の死後、彼女は父が手入れしていた
その紅梅を父の形見として
慈しんでいたことがわかりました。

その詩情を憐れみ村上天皇は梅を
元の庭に植え返されたという
心温まるお話です。
(大鏡・拾遺和歌集)

その時からこの梅が「鶯宿梅」又は
「軒の紅梅」と呼ばれ現代の私達に
風雅とは何かを伝えています。


風雅も風情も感じられる茶道をしませんか?