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 ポジティブ・シンキングが主流となっている自己啓発系の中にあっては、その逆を行く水際立った著作。ポジティブ一辺倒のありきたりな自己啓発系著作に疲れ果てていた読者が、著者の体験から紡ぎだされたこの著作を読みだせば、一気に魅入られ耽読することだろう。人間模様を描いた文学小説としてこれを書いても、傑作になっていただろう。最後にエピローグとして書かれている詩のような記述を読んだ時は、首肯しつつも、それこそ震撼してしまった。2009年4月初版。

 

【「あとがき」に書かれていること】
 本書を読んだことで、ハートの内側や腹の奥底あたりがザワザワするあなたは、今世の大きな目的のひとつに「霊的探究」を掲げて転生した魂である。(p.248)
 また、本書を読んだことで、なんとも言えない怖さや抵抗を感じるあなたも、霊的探究を目的として転生した魂である。(p.249)
 よく「自分の闇と向き合うのが怖い」と言う人がいるが、私は決まって「そのままにしておくことの方が怖い」と切り返す。そうすると、殆どの人が「その通りですね」と腹を括る。
 「カルマ清算」。これは泣こうが喚こうが、どの魂も必ずどこかで通らねばならない輪廻転生のプロセスにおける必須事項だ。今やるか、それとも先送りにするか、それを決めるのはあなたである。(p.249-250)
 闇を放置したまま光の側ばかり見つめていても、ことは進展しない。闇を見つめ受け入れ自分自身に統合して初めてカルマの清算は可能になる。
 そのような過程で起こり得る様相を知ることで、自ずと統合できてしまう人もいるだろう。誰であれ、全編を自分でつぶさに読んでみた方がいい。

 

 

【秘訣】
 人生を大きく変えるためには「秘訣」がある。この秘訣には、いくつもの段階が存在するが、まず最初に心得ておきたいことがある。それは、「諦めないこと」。苦しい時には、十分に苦しみを味わえばいいが、そんな時こそ「絶対にあきらめない」と、繰り返し自分に言い聞かせることだ。
 諦めないということは、常にがむしゃらに頑張るということではない。一時的に休みながらも、寄り道をしながらも、迷いながらも、ゴールを見据えてそこから目を離さないことである。(p.27)
 「諦めない」ということは、どん底の時であっても、自分で自分の心を持ちあげて歩く決意をするということだろうか。他への依頼や期待を排して、自分で自分を支える。その決意ある人にのみ、神なるものが加勢することがあるかもしれない。
 視点が変わるけれど、神道を学び始めた頃、「信仰心とは、継続すること」と聞かされて、やや当惑したことを思い出した。何を継続するかは言っていないのだけれど、それは人によりけりだからなのだろう。生まれ変わり死に変わりする魂の遍歴過程にあって、すべてに共通することといったら、学び向上するということか。心の機微を学ぶ目的の人生もあれば、愛することを学ぶ目的の人生もあれば、知力を高めるという目的の人生もあるかもしれない。いかなる目的であろうと、諦めて継続しなかったら自らの魂の約束に違反する。

 

 

【落とし穴】
 「愛しなさい。許しなさい。光に向かいなさい」といった綺麗事が、多くの人の心を掴む世の中にありながら、その綺麗事が一体どこから何のために発され、そしてどこに向かうのかを見極めたいのである。
 それらを文字通り受け止めて、愛すること、許すこと、光に向かうことばかりを心がければ、それは先にも述べたお決まりの落とし穴に嵌る。
 「愛しなさい」と言いながら他者と向き合うことを避け、「受け入れなさい」と言いながらネガティブを排除し、「許しなさい」と言いながら自分のありのままを許さず、感情の抑圧を重ねる。どこかの本で得た知識ばかりで頭は埋めつくされ、「統合へ向かう」ということの真意も理解せず、統合、受容と口にしているわりには己の内側の分離には気付かない・・・・。これが、霊的進化の道程に、まるでお約束のように用意された落とし穴に、すっぽりと嵌った者の典型的なパターンである。 (p.39)
 この本の読者は、自己啓発系の実践で壁に当てっている人が多いのだろうけれど、宗教団体に属している人が読んだ場合は、以下のようなことを思うはずである。
 「愛」とか「慈悲」と言いながら他の宗教団体の信者はその対象外で、「愛念」といいながら自分の教団内にあっても自分好みの人以外を巧妙に排除するその心理機制については全くの不問。その偽善ぶりは、とことんうんざりするものであるけれど、宗教団体信者の偽善に満ちた愚かさは、自分自身が落とし穴に嵌っていることすら自覚させないのである。なぜなら、教団によって洗脳され植え付けられた目的は、組織の拡大ないし維持だからである。自らの内面に真摯に向き合う機会などほぼないのである。

 

 

【陰陽を表現し味わう】
 振り子が左右対称に揺れるように、十分にネガティブを感じたり表現したりすることができない者は、当然、ポジティブを十分に味わうこともできない。これは、不動の法則である。
 社会生活の中で溜めこんだストレスを、その都度十分に表現したり開放したりすることなく、長い年月抑圧を積み重ねた末、一体自分が何をしたいのか、自分の価値基準が何なのか、自分がどこへ向かっているのかさえも、見失って、私のもとを訪れるクライアントは後を絶たない。(p.40-41)
 陰陽の感情を解放せず封印気味に生きることは、日本人一般が美徳と思い込んでいる生き方傾向なのだろうけれど、それ故にこそ日本人全体が隘路に入ってしまっていると言えるはず。
 親の言いつけを守り“良い子”として育った子ほど、内面の抑圧が強くなっていることは、今では教育界でも常識として理解されているだろうけれど、チャンちゃんもそのパターンだった。高校以降になってその反動が出てややバランスを回復していたけれど、今はネガティブな感情をあえて表現するようにしている。だから時々このブログに「ウンコおやじ」とかって意図的に書いたりするのだけれど、それを読んで眉をひそめているような人々こそ、自分自身が善というワンサイドの意識に抑圧された人生を生きているという自覚がないのである。
 自分自身のネガティブを吐き出し晒し許容し、そうしている自分自身の様相を客観的に観察する。それが受容・統合の意味である。

 

 

【善人ではなく賢者に】
 善悪の判断をしている暇があったら、その原因を知ろうとすることだ。
 善人で在ろうとするな。賢者であれ。
 善人という在り方は、世間一般で認識されているほど立派なものではない。善人というあり方は、言い換えれば、物事に囚われた愚人である。
 賢者は囚われない。賢者とは、どんな混乱の中にあっても、物事の本質を見極めることが出来る者である。そして賢者とは、周囲をより進化した在り方へと導く者である。 (p.48)
 なぜ、「善人というあり方が、物事に囚われた愚人」なのかというと、善人は社会常識という規範に従って生きているだけだからである。善人は本質や真実などほとんど考えていない。善人≒常識人≒役立たず、である。
    《参照》   『2020年ごろまでに世の中大転換する』 船井幸雄 (徳間書店) 《後編》
              【奇想天外な事実にも、しっかり目と耳を開いて・・・】
    《参照》   『地球人革命』 松久正 (ナチュラルスピリット) 《前編》
              【地球社会で築かれてきた「常識」と「概念」で生きてはダメ】
 この世のマスト(must)に従っていれば善人でいられるけれど、人生はそのためにあるのではない。そんなことでは「叡智」になど到底手が届かない。
    《参照》   『風の谷のあの人と結婚する方法』 須藤元気 (ベースボール・マガジン社)
              【マストの本質】

 

 

【神とは魔物でもあり、鬼でもある】
 人は神を愛の象徴としたがるが、神とは愛ではない。神は愛でもあるが、一般的に認識されているような愛などというもので、語れるものではない。神とはそんなに偏った不完全なものではない。
 神とは、この宇宙に存在する全てである。愛や慈しみだけではなく、怒りも憎しみも、悪臭を放つ生ゴミや害虫でさえ、神の一部であり、神の表現である。
 神はとめどなく私たちに愛を注ぎながら、一瞬にして冷酷にもなる。
 神は人間と同様に、いや、人間以上に怒るし、目に余るほどのひいきもするし、執着もする。・・・中略・・・。
 神とは、存在する全ての要素をマックスに表現してくれるものである。あなた以上に愛を知る神が、あなた以下の怒りしか覚えないことなどあり得るだろうか? あなた以上に光を放つ神が、あなた以下の闇しか知らないことなどあり得るであろうか?
 神とは、魔物でもある。神とは、鬼でもある。神とは、狂人でもあり、愚人でもある。そして神は、あなたでもある。(p.59-60)
 「破壊と創造は神の両面」という表現には慣れていながら、怒りも憎しみも神の一部と言われると、ちょっと引いてしまう認識の不完全さはどうしたものか。善人として生きてきた期間が長く、自分自身の中にある強い否定的な感情に真正面から対面し十分感受してこなかった人は、そのような認識の不完全さに留まってしまうのだろう。
 本質を考える意思のない善人では何ら社会の改革などできないように、陰陽の両極を強く深く知り得た者でなければ、巷の人々を本質的に救済することなどできないだろう。

 

 

【無条件の愛を理解した社会】
 無条件の愛を人類が十分に理解したら、それはさぞかし平穏で光に満ちた世の中が訪れるのではないか、と想像する人も多いだろうが、残念ながらそれは大間違いである。
 無条件の愛に基づく教育というのは、何もかもを笑って許し、黙って全てを受け入れることではない。無条件の愛を体現するものは、自分のネガティブな側面をも受け入れ、ネガティブな感情を表現しながら生きているわけで、そこには当然あらゆる衝突や諍いが起こる。
 ただ、大きく異なるのはここから先だ。無条件の愛を生きる者たちは、衝突や諍いを通じて共に成長する道を歩むことができるのだ。逆に条件付きの愛を生きる者たちは、衝突や諍いを通して学ぶことは最小限で、自分を正当化することと相手を攻撃し否定することに労力を注ぐため、いつまでも同じ意識次元に留まる。
 また、条件付きの愛を生きる者は、宇宙の真理や法則を理解しない者でもある。(p.65)
 無条件の愛を理解した人々と、条件付きの愛を実践する人々が混在する過程では、ここに記述されているような状況にならざるを得ないらしい。
 条件付きの愛しか実践できない人々が、無条件の愛を理解できるようになるには、感覚の拡大が必要。テレパシー能力を活用した感情の転移が可能になれば、EQ(感情指数)が高まり自己正当化や他者への攻撃は自ずと収束する。
   《参照》   『死後体験Ⅲ』 坂本政道 (ハート出版) 《前編》
             【我々の理想とする社会】
   《参照》   『クラリオン星人コンタクティが体験したアセンション〔量子転換〕のすべて』 マオリッツオ・カヴァー
             【銀河系意識のネットワークを有するスターピープル】
  なお、「無条件の愛」や「条件付きの愛(必要性)」に関しては、いろんな角度で語り得る。
   《参照》   『超スピリチュアル次元 ドリームタイムからのさとし』 ウィリアム・レーネン&よしもとばなな (徳
             【無条件の愛と不適切な優しさ】
   《参照》   『神との友情 (上)』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版)
             【愛なのか、必要性なのか】
   《参照》   『分裂する未来』 坂本政道 (ハート出版) 《後編》
             【本当の愛と自己愛】
   《参照》   『神とひとつになること』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
             【第8の幻想:条件】

 

 

【最も理想的な在り方:わがままの勧め】
 人は、基本的にわがままでいい。十分に自分のために生き、十分に自分を表現しつくした人間こそが、その次の段階として、他者のためにも生きることが出来るようになるのだ。
 そこに到達した者は、他者のために在ることで、抑圧や被害者意識を生み出すことはない。他者のために生きる事が、自分にとっても真の喜びとなるのだ。つまり、わがままな在り方が、そのまま他者や社会に貢献することに繋がるのだ。これこそが、人にとって、最も理想的な在り方である。(p.75)
 日本人として生まれ、日本人だけに囲まれて、日本社会的観念に則して普通に生きている人の中には、「わがままなんて許せない」と思っている人が多いような気がする。チャンちゃんは少なからぬ外国人と接する機会があったから、彼らの「わがまま」が、「自分勝手」なのではなく「のびやかな生き方」であることに気づくようになった。日本人は概して飼い主に忠実な「犬派」の傾向があり、外国人は飼い主がどうであれ自由に生きる「猫派」なのである。
 「犬派の人間」が「本物の犬」より悪いのは、「こんなにやってあげているのに」とか「私の方が○○」とか言いながら、容易に他者を裁く思念を発するからであり、それを口外し発散しない者は、自己犠牲だとか被害者意識という歪んだ心を形成してゆくからである。
    《参照》   『死ぬときに後悔すること25』 大津秀一 (致知出版社)
              【やりたい放題】
 自分勝手にわがままに、やりたい放題に生きていれば、他者を束縛しようという思いは普通に起こらないものであり、一人の自由に飽きた時には、人を愛してみようとか、社会に貢献してみようという思いが沸き起こるのかもしれない。このような自然な流れであるならば、淀みなく美しく最適な流れになっているだろう。
 「調和」とは、自分を押し殺して周囲に合わせることではない。真の調和とは、それぞれが存分に個性を発揮しながら、お互いを尊重し合い、お互いを教育しあう中で生まれるものだ。
 社会が私たちに求める調和は、「出る杭は打たれる」中でこそ、成立してきた調和である。これも、人類の根深いカルマパターンのひとつと言える。(p.76)
 「ガマン」が基調の社会は、「出る杭を打つ」ようになってしまう。共通項は「抑圧」。
 地球社会は、水が水蒸気になるような意識の次元上昇過程にある。
 次元上昇しているにもかかわらず「抑圧」を続けていると、社会が歪むし、最悪、内圧増加によって破裂する。

 

 

【「無知」「傍観」「保身」】
 「無知」「傍観」「保身」。これこそが2000年前、キリストを十字架にかけることを許した、人類の集合意識の正体である。(p.77)
 あなたが目覚めたものであるなら、あなたはこの世で起こる全ての出来事に、自分自身も加担していることを知っている。あなたは、あらゆる事件の凶悪犯を生み出しているし、凶悪犯になり得る要素を、自分の中に隠し持っている。政治が腐っているのなら、そんな政治を成立させているのはあなたでもある。
あなたは、それに気付いているだろうか?
    《参照》   『となり町戦争』 三崎亜記 (集英社)
              【僕を中心とした世界においては・・・】
 スピ系の著作では、このような指摘をよく読むけれど、日本人の殆どは諦めきっている。
 欧米では目覚めた人々が、実際に社会を変革すべく行動する場合が多いけれど、日本人の心には、「事なかれ精神」が厚く広く定着している。これも日本民族の集合無意識に潜む重たいカルマである。
 そんなことには一切気付いてない人に対して、問いかける。
 では聞くが、あなたは誰かが目の前でイジメられているのを、見てみぬふりをしたことはないか?
 あなたは、心の中で「違う」と思っているのに、権威ある人間に黙って従ったことはないか?
 あなたは、地位や見た目だけで、人を判断したことはないか?
 あなたは、ある特定の人物に関する悪い噂や情報を鵜呑みにし、真実を確かめることもなくその人物を嫌ったことはないか?
 あなたは、周囲の誰かが人間関係に亀裂を生じさせているのを見て、その人間関係を修復することに力を注がず、どちらかの肩を持ち、更なる分離に加担したことはないか? (p.77-79)
 大抵の人間はここにある通りだろう。
 某宗教団体のグループにおいても、ここにある通りの様相に直面したことがある。意見は批判であると看做し、遺失物があれば証拠もなく新参者を犯罪者扱いし、出鱈目な噂を流して人を排除することを、普通に行うのである。「カルマの解消」どころか「カルマの上塗り」をしていながら、そのような運営に対し誰ひとり異を唱えないのである。自己啓発系ワークショップに集う人々に比べて、宗教団体の信者というのは、本当にトコトン学んでいない。