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 戦前戦中の日本が、台湾で何をしたのかということは、戦後の蒋介石政権下で行われていた事実と、相対比較することで、より分かりやすいけれど、このような内容については、黄文雄さんの著作などに詳細に書かれているから、それらを読んでいる人がこの本を読んでも新発見の内容はないだろう。それでも、1926年生まれの学者さんである著者が、研究のため台湾に滞在していた間に知り得たことの記述の中に、その世代の方ならではの気づきと具体的事実を読み取ることができる。2001年5月初版。

 

 

【著者の台湾体験】
 この書物の主題は〈私の体験し思索した台湾〉だ。 (p.49)
 叙述の重点は、第一に、私がはじめて渡台した昭和44年と45年に、そして第2に、台湾の中心に位置する埔里地域で、本格的な現地調査を開始した昭和50年から53年までの期間に、おかれている。(p.321)
 西暦で言えば、1969~1970、1975~1978。
 著者の比較民俗学研究の協力者の中に諜報機関の人物がいたことが書かれているけれど、当時はまだ戒厳令が敷かれていた時代であり、それが普通だった。
 当時は、日本語を話せる台湾人が大勢いたにもかかわらず、そのことも知らずに、北京官話で苦労して会話していたなんてことも書かれている。
 ところで、この本の記述は、全体的に話があっちこっちに飛んでいて、雑記本みたいに思えないでもない。

 

 

【「白色恐怖」の時代】
 蒋介石政権の戒厳令は、当時、なお厳然とつづいていた。
 その解除は、蒋介石の長男で父親の政権を継承した蒋経国の死後のこと、昭和62年(1987年)である。なんと40余年。戒厳令の世界最長記録ではなかろうか。
 いうまでもなく、戒厳令とは事実上の無法地帯を意味する。
 国民党政府はほしいままに台湾人を捕らえ、ほしいままに ―― 死刑を含む ―― 刑罰を加えることができた。
 その当時、台湾に荒れ狂った「白色恐怖」(テロリズム)は有名である。
 その実情について、我々は、倖い、台湾人自身によって日本語で書かれた書物を読むことができる。私が手にしたものは次の三冊である。
 柯旗化『台湾監獄島』(平成4年、イースト・プレス)
 蔡徳本『台湾いもっこ』(平成6年、集英社)
 蔡焜燦『台湾人と日本精神』(平成12年、日本教文社)
 がそれだ。
 台湾に興味と関心をお持ちの読者に、一読をお勧めしたい。 (p.7-8)
 恐怖の白色テロの時代については、いろんなところで読む機会があったけれど、「現代の日本が、そんな時代でなくてよかった」と思うことしきりである。現在の日本が戒厳令下であるなら、こんなブログに書いているチャンちゃんなんかは、即、処刑である。
 上記にある3冊の内、蔡焜燦著の『台湾人と日本精神』しか読んだことがないけれど、現代に生きる日本人として最も印象的だったのは、「公の精神」という内容だった。中国の「私」に対比して輝く日本の「公」である。
    《参照》   『私は、なぜ日本国民となったのか』 金美齢 (WAC)
              【中国人と台湾人の違い】

 

 

【日本民俗学】
 柳田國男が寄稿した小林保祥著『高砂族パイワヌの民藝』の序文を引用し、それについての著者の感想が書かれている。
「・・・自分も其際は壮年学徒の情熱を以て、片端からそれ(高砂族慣行調査)を読み通したものであるが、あの時ほど強く烈しく、興国の気運というものに感銘したことはなかった。我々内地人のすみずみの生活に就いては、まだ一巻の調査報告書の出て居らぬ・・・然るに国家が最爾たる新附の章民族の為に、是だけ周到なる観察の記録を作ってやるということは、尊い雅量であることは言うに及ばぬが、同時に又始めて眼前に展開した広い珍しい世界への。至って人間的な気取らない知識欲の収穫でもあったのである」
 ここに我々は知る。柳田の《民族伝承論》が、そして《民俗学》が、そのような感動、そのような感銘に根ざしていることを。それは彼の国民意識が彼独特の回路をとおって発露したものだった。(p.65)
 著者自身が思いを同じにするからこそ、こう書いているのだろうけれど、台湾の高砂族って、スピリチュアルな次元で日本と縁のある民族らしいから、シャーマン的資質のあった柳田さんにとっては、より感銘の深いものだったはず。しかし、戦後の日本は、スピリチュアルな視点を削除する西欧由来の方法論に向かうようになってしまった。だから、柳田自身も野に下ってしまったのかもしれない。
 爾来、戦後の日本民俗学は社会人類学・構造主義・記号論・・・と方法論上の西欧学界の流行を追っていった。思想としての民俗、思想としての民俗学への関心は消失した、そう見ても大過あるまい。
 輝かしかった日本民族学は、柳田学として生まれ、育ち、そして生命を終えたのである。
 そのあとを継ぐ者は、今のところ民俗学界には見当たらないようだ。 (p.68)
    《参照》   『スターピープル vol.45』 (ナチュラルスピリット) 《後編》
              【南方熊楠と柳田圀男】

 

 

【基隆河】
 基隆河は東方の基隆港ちかくに発し、西に流れて台北市の西端で淡水河に注ぐ。 (p.112)
 えっ! と思ってグーグルで確認してしまった。基隆河って、当然、基隆港に流れ込んでいるものとばかり思っていた。基隆河は、台湾北部の東側(九�囲のそば)に発して、真近の基隆港の海には注がず、わざわざ西側にまで流れていた! 松山機場のヘリを流れているのは基隆河だった!
 台湾の地理に関心のない人は、「それがどうした、そんなこと、どうでもいいだろう」って思うだろうけど、チャンちゃん的には目から鱗である。

 

 

【�罨南語―日本語―北京語】
 祖父や父までの世代は先祖代々の�罨南(ミンナン)語を話していた。そこへ、劉さんの上の世代になって日本語を「国語」(こくご)として学ばせられ、戦後日本が撤退するや、今度は北京官話を「国語」[guo-yu]として押しつけられる、といったあんばい。
 北京語と�罨南語とは同じ「シナ語」といっても、王育徳先生によれば、双方の隔たりは英語とドイツ語以上だという。(p.142)
 戦前、戦中、戦後の台湾の言語に関する変遷は知っていても、北京語(中国語)と�罨南語(台湾語)がそれほど違っていることを知らされると、日本人は少しばかり驚く。
 現在の台湾で、�罨南語を話せる若者はどれほどいるのだろうか。

 

 

【「憎まれ口」ではなく「正論」】
 ついでに一つ憎まれ口を叩いておくならば、政治家の一部が夢中になって主張し、文部官僚までがそれに押されて制度化しつつある、あの小学校から英会話を習うという考え方、それは、英語を使う大衆 ―― 米国ニユケバ乞食デモ英語ヲ自由ニ話シテイル ―― を育てることには万が一成功しても、英米人から尊敬されるような知識人はついに養成出来ないだろう。(p.143)
 憎まれ口どころではない。正論である。しっかりした思索できるようになるには、一つの言語をきちんと深めることが大切。台湾人であったがゆえに複数の言語を学ばねばならなかった金美齢さんも同じことを言っている。(下記リンクから3つ目) 
    《参照》   『勉学術』 白取春彦 (Discover) 《後編》
              【日本語ができなくては外国語も無理】

 

 

【日本文化論】
 『菊と刀』の「恥の文化」からはじめて、そのどれもこれもが、分析用語の単純さ、歴史的な動きや揺れを入力できない、固定的で非動学的な性格を共通にしていた。―― 私は、いわゆる日本文化論にはほとほと愛想をつかしている。今では見向きもしたくないのである。
 私が事実であると考え、あらゆる実質的な議論がそれにもとづいて為されるべきだと信じるものは、ただ一つしかない。すでにその輪郭を示したが、念のためにくりかえしておきたい。
 すなわち、それぞれの民族国家あるいは国民国家は、歴史的に、複数の動きをその内部に潜めているということ。それら複数の動きが、時代と共に様相を変えてゆく外の世界に応じて、その影響力の強弱を競うということ、がそれである。 (p.223)
 確かに現代の日本と明治の日本を、同じ「恥の文化」で語ることはできなくなっているし、日本の社会が「タテ社会」か「ヨコ社会」かは、見る角度や事例の当て嵌め方でどうとも言える。
 また、諸外国文化に対比して日本文化の個性を浮き彫りにすることはできるけれど、それとて時代と共に相対変化するものであると。

 

 

【「創氏改名」は差別か?】
 東アジア研究が主題のゼミで、女子学生が「創氏改名」について、朝鮮人を差別するものであったという意見を述べたところ、一人の男子学生が立ち上がって感想を述べたという。
「朝鮮人に日本語を教える。日本風の名前に変えさせる、日本人の風俗習慣を学ばせる、等々。ひとことでいって日本人と見分けのつかぬ人間を育てる教育、それがどうして『差別』なのでしょう。私には納得がゆきませんが・・・・。
 もしも朝鮮総督府が、―― 同じことですが『改姓名』政策を実施した台湾総督府が、本気で朝鮮人や台湾人を差別しようと考えたのなら、そういう余計なことは一切しないほうが効果的だったでしょう。
 たとえば英国がインドで、オランダがインドネシアで、したことが正にそれでした。“士民”なんぞに普通教育を与えようとは露思いませんでした。そのまま放っておいたのです。そして単純明快に植民地収奪のための労働力として現地住民を使役しました。
 ただほんの一握りのエリートを本国に送り、一流大学で学習させたのです。彼らが卒業後、現地に戻って植民地統治の忠実な手足になったことはいうまでもありません。・・・・」
 女子学生 ―― 日本人だった ―― の反論はなかった。彼女がおそらく夢にも思わぬ視点から、彼女の発表を批判し、沈黙に追い込んだ男子学生は台湾人。私の友人の陳培豊君である。(p.224-225)
「夫婦同姓は、女性差別である」、と考えている愚かな日本人女性は今でも非常に多いだろうけれど、その発想と同じである。
    《参照》   日本文化に関する疑問と回答
              ■「父系の血統主義」は男女別姓という差別を常とする ■
 東大で彼の周辺にいた大学院生たちは、日本人・台湾人のわかちなく、すべて〈日本たたき〉の文脈で、つまり日本たたきを基本的な論旨として、論文をまとめようとしていたという。
「なぜかって、それがいちばん安全な“作戦”だからですよ」
 と陳君は笑って話した。
 私はといえば、日本人の痼疾ともいうべき同調性、悪く言えば付和雷同が、当代のアジア研究の分野にまで及んでいるのか、そう思ってヤレヤレと嘆じたものである。
 問題の根本は、もちろん、そのようなテーマを選ぶことが学生にとっていちばん「安全」だと思わせるような東大の教官たちの論文指導の方針にあることはいうまでもない。(p.226)
 つまり、ルイセンコ野郎ばっか。

 

 

【朝鮮人が「創氏改名」を差別と言いたがる理由】
 いうまでもなく、《姓》は、漢人(シナ人)社会の親族組織、つまり父系血縁制度、の根本にある大原則である。そして日本人はシナ文明の姓制度をついに採用しなかった。
 一方、台湾人はそれを先祖から受け継ぎ、朝鮮人は六百年前に広く採用したのである。
 だが、漢人社会のその点における先進性は、姓を身分の貴賤と結びつける習慣を、つとに止めていた。私の想定では、宋代においてすでにそうだった。
 これとは逆に、朝鮮社会は奴隷制 ―― 奴婢制度 ―― をもっとも遅くまで残した社会である。悲劇の元はそこに発する。(p.238)
 朝鮮社会は、《姓》によって、女性を差別する父系血縁制度を維持しながら、なおかつ、《姓》によって、身分差別もおこなっていた。
 ゆえに、「創氏改名」は決して強制ではなかったにもかかわらず、身分の低い者達は率先して「創氏改名」を選択したのであり、身分の高かった者達は、“利権の喪失”として末永くこれを恨み続けるのである。

 

 

【台湾と朝鮮の「創氏改名」手続き】
 同じ時期に始まった朝鮮の創氏改名は、わずか半年のあいだに、なんと170~180万戸、全体の70%を超える朝鮮の人々が創氏の手続きを取ったのである。その際、手続き上の違いのあったことが、台湾と朝鮮双方の途方もない数の差を生みだしたのだろうか。いや、やはり、朝鮮半島古来の厳しい身分差別が決定的な原因だろう。
 一応ここに双方の手続きの違いを紹介しておく。
(1) 朝鮮の創氏改名は8月まで。台湾の創氏改名は期限なし。
(2) 朝鮮は届け出ですんだが、台湾では許可がいった。
 許可の条件は二つ。
(甲)「国語常用の家庭」であること。
(乙)「戸主は勿論家族も皇国民としての資質涵養に努むる念厚く、かつ公共的精神に富める者」であること。
 このように条件を付けて許可する ―― ということは、改姓名を行政当局が“恩恵”として受け止めていたことを証する。強制どころではなかったのである。(p.242)
 朝鮮における「創氏改名」が強制だったと、“「事実無根」の思い込み”をしいている方は、下記のリンクから末端まで辿ってください。
    《参照》   『韓国人は日本人をどう思っているのか』 朴相鉉 (新人物往来社) 《前編》
              【創氏改名に関して】

 

 

【内地旅行】
 費用がかかるので、学生の誰もが行けたのではない「内地(日本)旅行」。
 三週間にわたるその旅程を書き出しておくと、
 下関で下船。山口県にある赤間神宮、乃木神社。
 京都の清水寺、平安神宮、渡月橋。奈良の若草山。
 伊勢の皇大神宮。二見ヶ浦。夫婦岩。
 東京見物。東京に行ってまっさきに挨拶に出向いたのが、北白川宮邸。(p.254-255)
 愛宕山(当時の東京の最高所)。日光の中禅寺湖。鎌倉の鶴岡八幡宮、露座の大仏。
 関西に戻って、大阪城、神戸の湊川神社。
 神戸で乗船、台湾の基隆港へ。 (p.258)
 へぇ~。当時、三週間もかけた内地旅行なんて、日本人学生だってしたことがなかっただろう。
 赤間神社 って知らなかったけれど、安徳天皇をまつる神社らしい。何でここが訪問先だったのか、あまりよく分からない。
 北白川宮については、
 北白川宮能久親王とは、いうまでもなく、明治28年、清朝から割譲を受けた台湾を受け取りに行った近衛師団長である。
 かねて私は、日本教育を受けた世代の台湾本省人のあいだに、北白川宮家に対する思い入れの不思議なほど強いことに驚嘆している。(p.255)

 宮はその時(明治28年)すでにマラリアにかかっていた。・・・中略・・・。
 能久親王が台南で亡くなったのは、その年の10月末である。・・・中略・・・。
 宮の台南御遺跡所は、後に台南神社になった。(p.256)
 北白川宮能久親王は、日本政府が台湾各地に作った神社の祭神にもなっていたという。

 

 

【日本と台湾】
 本書は、同時に、台湾の若い世代にとっても、同じように新鮮な情報でありうることを、私は心ひそかに期待している。
 それはほかでもない、戦後の日本と、戦後の台湾とは、外来の強大な武力による苛烈な支配を受けるという不幸な経験を、共通にしているからだ。
 戦後日本の言論は、占領軍の言論統制によって、特に、「日本人に戦争犯罪意識を植え付けるための洗脳工作(War Guilt Information Program)によって、大きく歪められた。その後50年になるというのに、日本国民の多くは未だにその桎梏から抜け出してはいない。
 まさにそのように、いや、一党独裁国家の常として、日本の場合よりもはるかに酷烈だったのが台湾である。戦後の台湾人は、外来の蒋介石政権の手によって、「中華化」 ―― つまり台湾人を中国人(シナ人)に変える ―― ための洗脳工作を受けたのである。
 私はこの書物が、そのような戦後世代の台湾人にとっても、一種の解毒剤として役に立ってくれればよいが、と切に思う。(p.322-321)
 戦後の日本と台湾を支配している強大な力は、未だに両国を支配し続けている。
 日本と台湾における真の支配者とは、アメリカや中国ではなく、「分断と統治」という手法で世界支配を続けている「闇の支配者」と言われる勢力である。

 「分断と統治」の両翼を担っていた米ソ両国は、今現在、ロシアの覚醒によって、表向きのカウンターパートナーとしての役割は終り、本当の対立状態にあるらしい。欧米側に中枢を残す「闇の支配者」による世界支配計画をロシアから教えられたBRICs諸国が、その計画実現の防波堤になっているけれど、中国の中にも、中華民族の貪欲なDNA故に、「闇の支配者」の意向に合うような、アジアの安定を覆しかねない危険な動きがあったりする。中国自体も「闇の支配者」の歯牙に引き裂かれているがゆえに、アジアの安定を維持できない状態が続いている。
 こういったことは、「闇の支配者」に支配されている各国のマスコミ情報だけを盲信している愚か者以外は、今や世界中誰でも分かっているはずである。
 今現在の世界には、光と闇がコントラストを増しつつ混ざり合っているけれど、「真の支配者」を見間違うような愚かさなど、日台両国の戦後世代には決してないことを期待しよう。

 

 
<了>