《前編》 より

 

【ベースはキリスト教】
 学問においても、宗教の知識がないためにかえって難解に思われている事柄が多い。たとえば、哲学である。・・・中略・・・。哲学にたずさわっている大学教師自身ですら、そう思い込んでいる。・・・中略・・・。
 なぜ、彼らは哲学を難しいと思うのか。宗教を知らない、宗教の教養を持っていないからだ。ベースにある宗教さえ分かっていれば、哲学はそれほど難解なものではない。カントも、ハイデッカーも、ニーチェも、サルトルも、彼らの文章ほど内容は難解ではない。(p.102-103)
 西欧芸術において、キリスト教ベースは当たり前の認識。
 下記リンクはその一例(といってもキリスト教というよりギリシャ神話だけれど)。
    《参照》   『ピーター・パンはセックス・シンボルだった』 松田義幸 (クレスト) 《前編》
 哲学においてもそうだと言われると、我々一般人はちょっとびっくりするけれど、大学の先生まで含めて積年の誤解をしていたらしい。
    《参照》   『人生力が運を呼ぶ』 木田元・渡部昇一 致知出版社
               【デカルトの言う「理性」とは?】
 西洋の詩の頽廃さがわかるのは宗教を知っている者だけである。とにかく、ほとんどの大きな文化の根底に宗教がある。もっと正確に言えば、聖書が前提としてある。(p.104)
    《参照》   『なんでだろうアメリカ』 みなみななみ 休息的時間
              【プレッツェル】

 

 

【イスラム教文化について】
 イスラム教文化についての解説には、井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波文庫)が参考になる。ビジュアルを多くほどこした解説ムックなどはかえってイスラム教をわかりにくくしている。また、イスラム教徒による著書やイスラム教にシンパシーを覚えている著者の本は学者のものであっても、内容はかなり偏向している。
 なお、コーランを読む前には聖書を読んでおいた方がいい。なぜならば、コーランは聖書を前提にした宗教書だからである。コーランから読むと混乱をきたす怖れがある。(p.109)
 聖書と言ってもテンコモリあるけれど、著者が「少なくとも・・」として書いているのは、
  〈旧約〉創世記、出エジプト記、レビ記、サムエル書、ヨブ記、ヨナ書。
  〈新約〉マタイ福音書、ヨハネ福音書、使徒行伝、ロマ書、ヨハネの黙示録。
 イスラム教に関しては、『コーラン』以外に、第2聖典というべき『ハディース』。どちらも文庫があるそうです。若者君たち、「ど~~~ぞ」。チャンちゃんはオジイちゃんだから、「ごち・・・」。
 この記述に直接関係ないけど、イスラム関連の著作をリンク。
    《参照》   『メッカ – 聖地の素顔 - 』 野町和嘉 (岩波新書)

 

 

【日本語ができなくては外国語も無理】
 もともと日本語力が80%程度の人が留学してまじめに外国語を習ったとしても、最高にうまくいった場合でもせいぜい60%程度しか習得できない。つまり、自分が日本語で表現できる事柄の半分以下しか満足に表現できるようにはならないということだ。(p.115)
 たいして意味のない会話をしたり、いかにも外国人らしい発音が少しの数の単語だけできるよりも、文章を読めるようになるほうがまずはずっと重要なことだ。
 外国語理解のベースは常に読む力だ。読めることは、仕事にはもちろん日常の多くの場面において実際に役立つ。(p.125)
 海外での滞在経験が長い人々は、著者と同じ見解を示している。ところが、海外体験などロクになく、本もロクに読まず、ちょっとした漢字も読めないような人々ほど、早期英語教育の重要性を「根拠もなく」語るのである。
     《参照》   『英語は勉強するほどダメになる』 栄陽子 (扶桑社新書) 《前編》
               【外国語は母語以上のレベルにはならない】
 一外国語の学習に専念していればもっとも速く習熟できるというものではない。同時に多くの本を読み、教養を深め、広めていってこそ、外国語が身につく速度が増すのである。なぜならば、外国語は外国文化だからである。(p.136)

 

 

【結論ではなく考え方を学ぶ:ユダヤ人が有能な訳】
 ユダヤ人は頭がよいとされる。なぜ、頭が良いのか。理由は明確だ。世界でもっとも古くから多くの考え方を学んできたのである。彼らは紀元前から聖書と『タルムード』を通じて、考え方を学んできたのである。
 『タルムード』とは、聖書の注釈と解釈の書物だ。・・・中略・・・。今では全巻を運ぶのに、トラックが必要なほどの量になっている。そんな膨大な量の書物に記されている各時代の注釈と解釈はどれも決定的なものではない。つまり、それぞれがそれぞれの時代と状況の考え方の見本としてそこに書かれているのである。
 ユダヤ人は・・・中略・・・15歳から『タルムード』を読んで自分なりに考える。それは宗教的には神の意思を知ろうとする努力の一環なのだけれど、一方では多くの異なった考え方を学ぶことになっているのである。そしてその結果として、ユダヤ人から多くの有能な人材を輩出している。(p.145)
 答えのある問題は受験勉強まで。人生には答えのない問題がほとんどである。だからこそ多様な考え方を学び、自分で考える力が大切。ある程度本を読むようになれば、おのずとこのような習慣は身につくものだけれど、学生時代を通じて、このような知的態度を諭してくれた先生って一人ですらいた記憶がない。日本の公務員の先生って、だから困る。
 大前研一さんは、「考えることを仕込んでくれたMITの教育に感謝している」というふうなことをご自身の著作内に書いていたけど、だからだろう、大前さんの著作はどれも論旨内容共に明晰である。
   《参照》   『「知の衰退」からいかに脱出するか?』 大前研一 (光文社) 《中編》
             【1読んだら5考えよ】 【読書集団の「集団知」】
   《参照》   『頭がよくなる思考術』 白取春彦 (Discover)
             【自分の頭を使え】

 

 

【非人間的な感性は嫌よ】
 財政破綻した夕張市は図書館を閉じるとしたが、そういう非人間的な感性だからこそ、くだらない遊園地をつくって市を駄目にしたのである。役所をバラック小屋にしてさえも、図書館と病院と学校は充実させるのが人間的というものであろう。(p.162-163)
 チャンちゃんの地元の現市長は、壊れた図書館の空調を2年間放置し、小学校の空調設備新設要請に対しては、「そんなことに使うくらいなら、外国人を連れてきて英語教育につかえ」と言い、役所を3つ新築・改築した。財政は当然のごとく赤字一方である。
 市の為になんら貢献する気も学ぶ気もない怠惰な大人の地方行政公務員のための環境が優先なのである。
 そういう市長だから、日本民族根絶やしのための「人工削減計画」である、子宮頸がん予防ワクチン接種などに対する国費補助を、全国に先駆けて議会採択するようなことまでして自慢している。完全に非人間。というより露骨に悪魔。その名を銘記しておこう。保坂武。
     《参照》   『宇宙人の伝言』 田村珠芳 (TO文庫) 《後編》
                【インフルエンザと予防接種】

 

 

【独学】
 多くの体験をしたからといって、人生の多くを、あるいは世界の多くを知っていると言うことはできない。体験はどれも個人的なものであり、その1回限りのことだからだ。体験は過ぎ去り、深化追及されない。
 しかし、知識は普遍的であり、人間が古代から積み重ねてきたものなのだ。それこそ、人類の宝庫である。この世に生き、そして人類の宝の輝きを享受するのが独学なのである。
 独学して自分を内側から輝かせること。これは人間の美しさのひとつである。そういう美しい人間になることは、たった今から誰にでもできることなのである。(p.165)
 そう、たった今から誰にでもできる。

 

 

<了>

 

  白取春彦著の読書記録

     『愛は愛をも超えて ニーチェの恋愛論』

     『勉学術』

     『頭がよくなる思考術』

     『ビジネスマンのための「聖書」入門』