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 ピーター・パンの謎解き本である。ギリシャ神話に原像を見いだし、人間の生き方の根本にかかわる領域にまで考察が及んでいる。ギリシャ神話を根本とする西欧の人文科学に興味がある人にとっては、愛蔵版となる一般書籍だろう。
 ポイントを書き出してしまうと、自分で読んでみたい人にとって、推理小説の様な謎解きの良さを損なってしまう。しかし、全編を読んでみれば、ピーター・パンの謎解きを嚆矢として、西欧発の文化芸術の基としての広範な教養が身につくだけでなく、科学技術が発達しすぎた世界に生きている我々現代人に、人生を再考する縁(よすが)を提供してくれているから、自分で購入してじっくり読む価値のある本である。1996年5月初版。

 

 

【ピーター・パンの 「裏のシナリオ」 】
 ピーター・パンの物語には、「表のシナリオ」 と 「裏のシナリオ」 があるのだ。
 たしかに、「表のシナリオ」、つまり物語の表層だけを読めば、愛と冒険、そして友情の “ファンタジー” である。しかし、「裏のシナリオ」 には、セックスとは何か、生とは何か、死とは何かという、普遍的かつ根源的テーマが隠されているのである。あえて言うなら、表は児童向けのシナリオ、そして裏は大人向けのシナリオなのである。(p.20-21)
 裏のシナリオに、セックス!? と思ってしまうのは、 ダン・カイリー著の 『ピーターパン・シンドローム』 によって、大人になれない少年的なイメージが固定化されているから、と説明されている。確かに、青年期に 『モラトリアム人間』 系列のこの著作に触れた人々は、ピーター・パンを読むことも見ることもなく、子供用の童話と決めつけて終わってしまっているのではないだろうか。私がそうである。
 しかし、 「裏のシナリオ」 に関する著者の謎解きは、余りにも明快である。

 

 

【ピーター・パンのルーツ】
 ピーター・パンは、人間などではない。彼の足先はヤギの蹄になっている。彼の足がスマートで細いのは、痩せているからではない。ヤギの脚だから、あのように細いのだ。彼の耳が尖っているのも、ヤギの耳だからだ。そして、かれのズボンの下に隠れているのは、生命力に満ち溢れた男性のシンボルである。
 つまり、ピーター・パンは上半身が人間で、下半身がヤギの半獣神なのだ。
 このヤギの半獣神は、古代ギリシャ・ペロポネソス半島の田園理想郷 “アルカディア” に棲み、羊の世話をしていたと言われる。この神は生命力、生殖力、男根の神として崇められていた。 ・・・(中略)・・・ 。
 この神の名を 「パン」 という。もうお分かりだろう。ピーター・パンとは、この好色な半獣神パンの直系の子孫なのである。(p.34-36)
 余りにもショッキングな記述に、「ウッソ~~~」 と思うけれど・・・・
 またディズニーのアニメも、こうした文化的背景をじつによく調べ、ピーター・パンにシュリンクスの葦笛をもたせ、ヤギの耳、細い脚、おかしな靴からは蹄、帽子を取ればヤギの角が出てくる事を連想できるように描いている。(p.44)
 否定しようがない。

 

 

【ネバー・ランドのルーツ】
 また、ピーター・パンの全身を覆う緑色は “自然” それも単なる自然ではなく、つねに生命力が芽吹き、緑の木々が茂る生命力の旺盛なアルカディアの森を暗示している。
 そうすると、ピーター・パンや妖精ティンカー・ベルが棲む夢の楽園ネバー・ランドは、この半獣神パンや妖精たちがいるアルカディアのイメージに繋がるわけである。(p.44)

 

 

【三神の彫刻】
 アテネ考古博物館にある 「デロスのアフロディーテ」 という彫刻には、パン、アフロディーテ、エロスの三神が彫られている。(上掲写真) 西洋文明を知る上で欠かせない彫刻である。
 古代ギリシャにおいて、半獣神パンは自然の生命力、男根のシンボルとして崇められていたわけだが、これに対してアフロディーテはのちにローマでヴィーナスとして親しまれるが、このラテン語のヴィーナスも、性交、性愛、性欲を意味している。現代においては、一般に 「ミロのヴィーナス」 やボッティチェルリの 「ヴィーナス誕生」 の洗練された美のほうが知られているから、とかくアフロディーテ(ヴィーナス)のもとの意味が忘れられがちである。
 そしてエロスは、性欲衝動を司る愛神である。エロスの弓矢を受けると、どんなに理性的、道徳的で上品な上半身でも、下半身の衝動を抑えることができなくなってしまう。(p.84-85)
 エロスのローマにおける呼称はキューピッド。
 彫刻といっても、古代ギリシャにおいては、単なる芸術品ではなかった。
 今日、彫刻などの芸術作品は美術館や博物館で 「見て、楽しむ」 ものと思われがちだが、そもそもギリシャにおいて神々の彫刻は、神殿に奉納して拝むものであった。日本人がお寺にお参りし、仏像を拝むのと同じ感覚である。(p.85)
 たんなる芸術品以上の文化的意味合いがあるのだということ。

 

 

【西洋文明の下敷き】
 古代ギリシャやローマでは、もともと「ヴィーナス(アフロディーテ)はパンを征服する Venus conquers pan. という諺が知られていた。 ・・・(中略)・・・ 。
 その言葉が途中で 「愛はすべてを征服する」 に変わってしまったのは、Pan という単語に、「すべてall」、「全宇宙 universe」 という意味があり、またヴィーナスは 「愛 love」 という意味を持っていたからである。
 西洋文明にはこうした下敷きがあるために、溢れる自然の生命力の美しさを表現するときに、芸術家たちはとくに好んでこの三神をテーマにしたのである。(p.87)
 西洋文化を理解する上で、最も基本的なとことして知っていなければならないこと。

 

 

【生と死を司るディオニソス】
 「古代ギリシャ人は 『生』 をゾーエとビオスから考えていた。 『無限の生』 を意味するゾーエは 『有限の生』(個体としての自分の命) を意味するビオスのひとつが真珠のように通して並べられる糸(次世代への継承)であり、この糸はビオスと違って、ひたすら無限に連続するものだ(種の保存)」
 ギリシャ神話において、このゾーエとビオスを支配する神の名をディオニソス(バッカス)という。 ・・・(中略)・・・ 。パンはこのディオニソスに仕える神なのである。(p.86)
 ピーター・パンのストーリー中でも、時計をのみ込んだワニによってフックが呑み込まれるという構成の中に、人間にとって最大の関心事である 「不死」 というテーマが託されている。
 不死伝説というのは、究極的には、永遠の不死世界への参入、ないし、この世における肉体的な不死を希求した精神の産物なのであろうけれど、実質的には、肉体的な不死は、言うならば豊饒と多産による世代間の物質(肉体)次元における連鎖という処に代替され帰着していたらしい。
   《参照》   『ディングルの入江』 藤原新也 集英社
             【ティール・ナ・ノーグ】

 故に、古代世界における性にまつわる現実的な認識は、美しいきもの正しきものと同じ地平で考えられていたのである。中世以降、都市化(脳の周辺部にある新皮質脳の肥大化の投影)が進むにつれて、性(脳の中心部にある古皮質脳が管轄する)は、キリスト教倫理のもとに抑圧され、汚らわしきものとされるようになってきた。
 しかし、キリスト教―仏教が伝播する前の紀元前の世界各地では、古代ギリシャと同様な認識が普通だったのである。タブーなき神道の国・日本は、仏教思想に覆われながらも、人生の営みにおける根本的真実を “結び” においている。

 

 

【アカデミアのエロス像】
 ギリシャ文化を代表する哲学者プラトンが創設したアカデミア(学園。アカデミー=大学=の語源となった)の庭にはエロス像があった。
 プラトンといえば、人間の知性を重んじる主知主義を説いたソクラテスの弟子である。そのプラトンがセックスの神エロスを学舎に建てたということは、いったい何を意味するのか。 ・・・(中略)・・・ 古代ギリシャ人の中のインテリたちは、「恋愛・性愛」 と 「知性への愛」 をまったく同列に扱っていたのである。
 これを実証するものとして、プラトンの著書 『饗宴』 が挙げられる。 『饗宴』 は “エロス” を中心に行ったシンポジウムをプラトンがまとめたものである。(p.89)
 プラトンをはじめとするギリシャのインテリたちは、 「美や知恵に対する渇望」 と 「不死」 を結びつけるものとして、エロスの要素を重視していたということになる。

 

 

【理想の男性の原像】
 パンの下半身はヤギであり、人間をはるかに超える強い生命力を持っている。
 だが、一方で上半身は人間で、哲学、詩学、音楽の心を持っている。そのため、本物の獣のように、野獣性をむき出しにすることがない。つまり半獣神パンは危なっかしいところはあるけれども、知性と性的本能をバランスさせているのだ。
 つまり、半獣神パンは古代ギリシャ人の理想の男性の原像なのである。(p.99)

 

 

【ピーター・パンに関するまとめ】
 ピーター・パンのストーリーは、 ・・・(中略)・・・ 100年の時を経ても人気が衰えないのは、まさにこの作品がエロスという 「永遠のテーマ」 を扱っているからなのだ。(p.110)