《前編》 より

 

 

【戦後児童文学の罪と、「ドラクエ」 ヒットの鍵】
 児童文学研究は私の専門ではないが、どうも戦後の日本の児童文学の傾向を見ると、死、あるいは死をかけた戦いといった、ある意味での残虐性が排除されているように思う。 ・・・(中略)・・・ 。
 しかし、死や戦い、それにともなう残虐性にベールをかけた当たり障りのないストーリーだけでは、子どもたちに内在する基本的欲求を満たすことはできない。それが顕著に出た例にファミコンのソフトがある。(p.114-115)

 もし、たんに母親たちが危惧するような暴力的欲求を満たすだけのものであったなら、ドラゴンクエストはこんなヒット商品にはならなかっただろう。ピーター・パンと同じように、「生と死」 という人間の普遍的テーマを扱っているところに、ヒットの鍵があると思われる。(p.116)

 

 

【ファンタジー能力の衰退】
 ディオニソス-パン系列の神々が追放されたあとのギリシャ悲劇はどうなったか。
 たとえば、悲劇を上演するにしても、架空の吊り桟敷の中間世界(神々の世界と人間の世界を繋ぐ世界)としての舞台ではなく、現実の人間社会の舞台を作り、幻の中に想い観る観想(ファンタジー能力)を軽視し、夢幻ではなく現実の人間に演じさせてしまった。そうなると、ディオニソス芸術の陶酔作用が消え、神話力は失われてしまう。(p.180)
 現実から切り離し、ファンタジー能力を賦活させるために、演劇においては様々な工夫が凝らされている。能における面、歌舞伎における厚化粧、そして宝塚演劇や歌舞伎において配役を異性が扮するなどである。ピーター・パンも初代のロンドン上演以来、女性が演じ続けているらしい。
 ディオニソス(バッカス)は酒神として表記されている場合もあるけれど、それは陶酔作用に関わっているからなのは言うまでもない。人には、現実を離れた陶酔が必要なのであり、それは近年大流行のコンピュータ技術を多用した映画だったり観劇だったりTDLだったり、あるいは直接にセックスだったりする。これらをすべて禁じてしまったら、人々は強烈なストレスに見舞われ、下半身のポテンシャルが高い鋭敏な人ほど根源的な悩みに取りつかれることだろう。ニーチェみたいに。

 

 

【半獣神の復活】
 中世キリスト教会は、下半身の自由な生殖力、生命力を淫らなものとして徹底的に排除した、まず、ディオニソスを地獄の悪魔とみなし、パンやサテュロス、ケンタウロス、ミノタウロスなどの半獣神たちを地獄の悪魔として封じ込めた。
 そして、賛美歌を歌い、美しくはあるが性愛を感じさせないマリアを崇拝するようになる。(p.183)
 このような風潮の中でルネッサンス運動がおこったのであるけれど、半獣神たちの復活に成功したのではなかった。
 『悲劇の誕生』 の中で 「大いなるパンは死んだ」 と述べたニーチェは、 ・・・(中略)・・・ 逆手にとって、キリストの 「神は死せり」 という有名な言葉を残す。それによって、ニーチェは、パンを蘇らせようとしたのである。(p.188-189)
   《参照》   『宗教入門』 中沢新一 マドラ出版
             【ニーチェの「神は死んだ」】
             【ニーチェ(1844~1900) と 出口王仁三郎(1836~1918)】

 

 

【「牧神の午後」】
 「牧神の午後」 とは、ギリシャ神話を題材にしてニジンスキーが演じた作品名。牧神とはパンのこと。
 「私はすばらしい仕事をし、神の存在を感じた。私はこのバレーを愛し、観客にもまた愛してもらった」( 『ニジンスキーの手記』 )
 わずか12分間の作品である。ここでは古典的バレーの作法は否定される。そこにあるのはあの原初、原始のエロス、原素神、半獣神の溢れ出るヤギの精液のみである。まさに象徴的、幻想的な下半身解放のシーンである。
 ニジンスキーのディオニソス的狂喜が、科学技術主義の近代化の枠組の中に封じ込められている 「肉体に宿る半獣神パン」 「人間の自然、自然性」 を、陶酔と恍惚の中で解放したのである。このニジンスキーの世界から、身体を開放するモダンダンスが始まったと言ってもよい。(p.211)
 芸術家は何を表現したがっているのだろうか? と思いつつ、学生時代 『ニジンスキーの手記』 を読んで印象に残っているのは、 「愛を表現したいのだ」 という記述があったことである。その記述に( )付けないしルビでエロスと書かれていたならまだしも、「牧神の午後」 を映像で見ていたわけではないから、私の解釈はたいそう皮相なものだったことになる。
 ニジンスキーが意図していた愛からすれば、私が理解していたのは、デリケートで弱々しく心理的、理性的なものだった。完全に × である。
 

【画家ミレーの理想郷】
 ミレーの作品は農業を表現していても、みすぼらしさをまったく感じさせない。どの作品も神々しい。じつはミレーは半獣神パンの棲む田園理想郷アルカディアでの農事を理想としていたのである。ヴェルギリウスの 『牧歌』 も 『農耕詩』 もミレーの愛読書であったし、作品に 「半獣神パンの家族」 があることからも、それを察することができる。(p.226)
 子供たちにとっては退屈極まりないミレーの絵に、「ピーター・パンと関連があるんですよ! これこれこういう関係です!」 なんて説明してくれる学芸員さんがいたら大したもんである。

 

 

【「第九」に託されているもの】
 ところで、ベートーヴェンは青年のとき、シラーのディオニソスやアルカディアの詩に強い関心を抱き、30年近い月日をかけて 「第九」 を作曲したのだという。
 一度ぜひ、読者のみなさんにシラーの作詞と、ティツィアーノの 「ディオニソスとアリアドネ」 の絵とベートーヴェンの 「第九」 を一緒にして、このファンタジーの世界に遊んでいただきたいと思う。すると 「運命」 も 「田園」 も、ベートーヴェンの世界すべてがディオニソスに対する畏怖、畏敬の表現に思えてくる。そしてベートーヴェンの 「不滅の恋」 の嵐を体感したような気分になってくる。(p.229)
 著者のお勧めなので書き出しておいた。
 日本では、年末になると何故か 「第九」 が頻繁に歌われるようになる。神道的風土の日本人には、ディオニソス的な波動の籠った 「第九」 が馴染みやすいのかもしれない。そして、怒涛の近未来を無意識のうちに理解しているのかもしれない。

 

 

 

<了>