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 チベット密教の体験者であり宗教学者である著者の本は、大学生だった頃の私にはとても興味深い本だった。古書店で見つけ、ふと懐かしく思い読んでみたのだけれど、その後、神道を学んできた私には、既に読む必要のない本になっているという感じだ。(この本は1993年に出版されたものである)


【ニーチェの「神は死んだ」】
 神と呼ばれていたものがみんないなくなっちゃって、物質と功利主義だけで成立する世界がこれから始まる、という意味ではなく、「キリスト教文明の中心部にそそり立ってきた大木とともにあった神はもう存在しない」と言ったのだと思います。そこでは、いままでグノーシス=異端とされてきたいろんな思想の可能性が、全部いちどに現実化してくるような事態が発生することになるでしょう。 (p.49)

 キリスト教会は、歴史的に数々の教学論争を繰り返し、異端であるか否かを定めてきた。「神の子キリスト」という基本命題から発し、様々な論理的解釈論争をして正統派教学を定めてきたのである。
 ニーチェは形而上学的世界の論理的虚構性を否定して、神の死を告げた。キリスト教会から異端とされたものとは、そもそもからして論争に耐えて生き残るに相応しくないものだったのである。グノーシスはエソテリック(密教)な世界を重視する宗派であったのだから、異端とされたのは当然だった。
 私にとって宗教とは、最初から(おそらく先天的に)教学によって判断されるべきものではなかった。大学時代、キリスト教の信者や創価学会の信者が、布教のためにあつかましくも教学的優越意識もろだしでやってきたが、私の中では霊学的な咀嚼こそが重要なものであると感じていたから、彼らの教学先行宗教にはとことんうんざりしていたのである。


【ニーチェ(1844~1900) と 出口王仁三郎(1836~1918)】
 前者は西洋の哲学者、後者は東洋の神道系宗教家、その違いはあるが同時代を生きた人物である。
 ニーチェが「神は死んだ」と言ったように、出口王仁三郎の出口は、日本の神霊界に秘められていたものが表に出てくる出口の時であることを告げていた。ニーチェはキリスト教の、出口王仁三郎は仏教の、世界に対する主体的役割の終焉を示していたのである。
 そもそも、双魚期といわれる2000年期は、精神と物質の統合されざる時代を意味し、その始まりはキリストとブッタによって象徴されていた。我々の生きてきた時代は、双魚期から宝瓶期へむかう過渡期の最終段階に位置していたのである。 
 過渡期であったが故に、多くの若者の興味は、仏教の中でも心の教えだけを語る顕教よりも、神秘主義的な密教に向っていたのであり、チベット密教体験者であった中沢新一さんの著作に興味を示したのである。


【時代は急速に仕組を変えている】
 しかし、時代はさらに急速に仕組を変えている。かつて、役の行者や行基や空海といった天才であってすら、何十年も山野に籠もって修行しなければ体得できなかったものが、現代では、社会人として生活しながらでも体験できる時代になっている。
 日本では、かつて聖徳太子によって秘めおかれた清明なる神の道が既に復活している。

 

 

<了>