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 発行元がそれとは思えない名称であるけれど誤記ではない。その下に 「いのちのことば社」 とあるから、福音派(新約)のキリスト教に関する著作。
 著者がアメリカで実際に体験してきた宗教教育の有様が、著者本人の感じた言葉で語られているので、興味深い。そして、日本人にとっては比較文化として根本的な違いが学べて有意義。
 著者の肩書きには、イラストレーターらしきものと書かれているから、内部は漫画構成。

 

 

【文献依存の愚か】
 図書館にはふる~い神学書たくさんおいてあったので、今じゃ信じられないようなことが書かれている本(聖書の言葉を使って黒人差別を正当化している)も発見してしまった。
 でも一方で奴隷制度廃止を訴え、そのために活動した人々も多くはクリスチャンで、その根拠を聖書に置いていたという文献も多数発見。
 同じ聖書を読んでも、解釈と行動は正反対。そう思うと安易に 「聖書にこう書いてあったからそうした」 って、思い込んでしまうのは危険だなあ~と思う。 (p.24-25)
 人は因(潜在的な心の趨勢)に応じて、(因に連なる)果を選択するの。差別したい潜在意識を持っている人は、それに都合のいいように聖書を解釈する。差別したくない潜在意識の人についても、同様である。
 例えていうならば、催眠術師が被験者に、「私がパンと手を叩いたら、あなたは意味もなく頭を掻きだします」と催眠をかけておけば、被験者は実際に頭を掻きだし、「何故、頭を掻くのですか?」 と聴けば、必ず何らかの理由をつけて自分の行動を説明(正当化)するのである。キリスト教徒は聖書を、イスラム教徒はコーランを、仏教徒は仏典を良し悪しに関わらず理由の拠所にするのである。
 故に、聖書の中に何が正しいのかを見出そうとしても無駄である。聖書であれコーランであれ仏典であれ、それらのいずれにも唯一の真実など記述されているわけはない。
 では、何ももって神に殉じているかを判断するのかといえば、文献に依拠して正当性を主張することではなく、ただただ、“そのひとの生き方” である。
 組織力を誇る宗教団体ほど、組織集団を結束させるために宗教経典に依拠した教学の優越性を信者に刷り込む。自らに拠所を見出せない、おつむ(ないし心)の弱い信者ほど、組織が用意した教学の刷り込みがこの上なく有効に機能する。さながら、「豚に餌」の様相を呈している。霊格など殆どない単なる権力亡者にすぎない宗教団体トップを崇めている宗教団体の信者の無能ぶりは、気の毒ではあるけれど、自己責任3割である。

 

 腹黒いトッブの宗教組織に属しながらも、自らを高める拠所を独自に宗教経典の中に見出している人々も大勢いるであろう。しかし、そのような人生の拠所となる文献は、なにも宗教経典の中だけにあるのではない。近年、宗教以外のさまざまなジャンルで、全ての人々が気付き向上できるような報知が、数多なされている。

 

 

【神さまを愛す】
 心を尽くし
 思いを尽くし
 脳みそを尽くし
 力を尽くして
 神さまを愛す。
 この文章が、あとがきの一番最後に書かれている。
 「脳みそを尽くし」 の部分には、(ななみ的解釈)とあるけれど、聖書的アメリカ文化ではこうなるのが当然であるように、私には思える。むしろ日本人に足りない点でもあるから・・・。
 この5行の認識は素晴らしいと思う。
 
 
【プレッツェル】
 教会では、イースターの前のレント(受難節)の始まりの日に小さなお菓子を配りました。そのお菓子は、ひらがなの 「ぬ」 の形をしたポリポリ食べるプレッツェル。そのプレッツェルと一緒に配られたカードには、「プレッツェルの言い伝え」 が書かれていた。
 「昔々、レントの期間、遠い国で人々は特別なパンを焼きました。それはお祈りすることを覚えるためのパン。それは、ハートの前で腕が交差するように形作りました。」 (p.41)
 プレッツェルのという名前(単語)の由来は書かれていないけれど、おそらくプレはプレイ(祈る)から来ているのだろう。この本の著者の、重大な視点の欠如を指摘するならば、英単語の語源に関する考察が殆どないところだろうか。
 大和言葉のセンスを欠いて日本語の本質的な理解はありえないように、聖書の文言に連なる意味合いを欠いて英語の本質的な理解はないだろう。聖書に関する用語とその派生語を事前に調べておくだけでも、英語文化圏の理解は速やかに進むはずである。
 
<了>