この本で主に語られている「聖書」とは「旧約聖書」、つまりユダヤ教のこと。2007年9月初版。
【啓示宗教と自然宗教】
【売春婦】
自然宗教の柱というか関心事はもっぱら、天候、豊饒、生殖、繁殖である。日本の神道の神は「天照大神(アマテラスオオミカミ)」と書くが、その字の意味をみれば明らかなように農耕を左右する天候をつかさどる神である。
生産に結びついているこういった自然宗教とは対照的に、啓示宗教の神は人間の倫理を重んじるという特徴がある。
倫理だの善悪だの、現代人は当たり前のように考えているが、古代においては支配者の為すことが善であり、被支配者が見習うべきことだった。たとえば言葉で、天皇や貴族の言い方が、みやびとされていたのと同じである。(p.26)
古代ユダヤ民族は神によって「十戒」という倫理が与えられたのだけれど、例えば「姦淫することなかれ」という第七戒は、自然宗教ではありえないものだった。
生産に結びついているこういった自然宗教とは対照的に、啓示宗教の神は人間の倫理を重んじるという特徴がある。
倫理だの善悪だの、現代人は当たり前のように考えているが、古代においては支配者の為すことが善であり、被支配者が見習うべきことだった。たとえば言葉で、天皇や貴族の言い方が、みやびとされていたのと同じである。(p.26)
古代人は性的行動においてかなり乱脈だった。男同士の同性愛や強姦が多かったし、女性に対する強姦、獣姦の多くみられた。バアル神殿に仕える娼婦がいたし、食堂兼宿屋に娼婦はつきものだった。
なぜバアル神殿に使える娼婦がいたかというと、豊饒豊作を大目的とする農耕神バアル信仰では性交を奨励していたからだった。収穫祭のときなどに神殿娼婦と性交するのは農事的義務でもあったのだ。(p.36-37)
《参照》 『梅干と日本刀』 樋口清之 祥伝社なぜバアル神殿に使える娼婦がいたかというと、豊饒豊作を大目的とする農耕神バアル信仰では性交を奨励していたからだった。収穫祭のときなどに神殿娼婦と性交するのは農事的義務でもあったのだ。(p.36-37)
【売春婦】
【御前・白拍子・太夫】
【十戒】
学校では、ユダヤ教(旧約聖書)の神は「裁きの神」と習ったものである。したがって十戒は「~ねばならない」の厳命と言う感じで理解してしまっている。
これら十の戒めは、現代の日本語に訳すと、どれも「~してはならない」という命令形になってしまっている。けれども、本来の文章は命令形ではなく、もう少し柔らかいニュアンスがある。
したがって、英訳ではSHALL、ドイツ語訳ではSOLLENという助動詞を使って訳されている。これら助動詞は、発言者の意向を表現するときに使われる。
つまり、「おまえはこういう悪いことはしないよね」というニュアンスである。そこには父性的で親密ないたわり、また同時に、ひょっとしたらこういう悪いことをするかもしれないという危惧も含まれているわけだ。(p.37-38)
高校の世界史で習ったユダヤ教のイメージを持っていると、この記述に「ええ~~」って思うことだろう。したがって、英訳ではSHALL、ドイツ語訳ではSOLLENという助動詞を使って訳されている。これら助動詞は、発言者の意向を表現するときに使われる。
つまり、「おまえはこういう悪いことはしないよね」というニュアンスである。そこには父性的で親密ないたわり、また同時に、ひょっとしたらこういう悪いことをするかもしれないという危惧も含まれているわけだ。(p.37-38)
学校では、ユダヤ教(旧約聖書)の神は「裁きの神」と習ったものである。したがって十戒は「~ねばならない」の厳命と言う感じで理解してしまっている。
【ユダヤ人の現世観と来世観】
どうしても哲学者という系譜にある人々は、知性で霊界を語ろうとする作法の轍に陥ってしまう傾向があるらしい。
死後の世界の様相は、宗教によらずとも、今日では、ヘミシンクという装置を使えば、左右の脳に異なる周波数の振動を与えることで探訪することができるようになっているけれど、この装置を用いた人々の体験談は、高度なシャーマンさんたちが語っている霊界の状況とほぼ同じである。
《参照》 『死後体験Ⅱ』 坂本政道 (ハート出版)
【死後世界】
この世での行為はこの世で罰を受けるというのがユダヤ人の世界観だった。だから、彼らは貧困層や病人を神の罰を受けたものとして罪人と呼んでいたのである。(p.151)
旧約聖書は来世についてほとんど何も語っていない。しかし、神は霊であると断言している。
また、旧約聖書はこの世以外のことについて語ることがほとんどないのだが、神の働きを補助する天使が頻繁に出てくるという特徴がある。(p.55)
著者は、日本人が持つ、地獄、天国、浮遊霊、自縛霊といったさまざまな様相を呈する来世観を、「本当のこととは何かと問うたり突きつめていかない一種の怠慢と享楽主義の姿勢の現れであろう」(p.55) と書いているけれど、それは違う。霊界とはイメージがそのまま表れる世界だから、生きている時に思い込んだり習ったりしたイメージがあれば、人々はそのような世界(霊界)に本当に住んでいるのである。旧約聖書は来世についてほとんど何も語っていない。しかし、神は霊であると断言している。
また、旧約聖書はこの世以外のことについて語ることがほとんどないのだが、神の働きを補助する天使が頻繁に出てくるという特徴がある。(p.55)
どうしても哲学者という系譜にある人々は、知性で霊界を語ろうとする作法の轍に陥ってしまう傾向があるらしい。
死後の世界の様相は、宗教によらずとも、今日では、ヘミシンクという装置を使えば、左右の脳に異なる周波数の振動を与えることで探訪することができるようになっているけれど、この装置を用いた人々の体験談は、高度なシャーマンさんたちが語っている霊界の状況とほぼ同じである。
《参照》 『死後体験Ⅱ』 坂本政道 (ハート出版)
【死後世界】
【供物祭祀の内実】
偶像神も聖書の神も供物を必要とする見かけの点では同じだが、内実はまったく異なるわけだ。
つまり、供物も儀式も形式ではないということだ。それは心の表現であり、心と表現が一致している場合のみ有効とされるのである。これは、神に食べ物を与えたり、神をなだめたりする目的を持つ偶像神への供物とまったく異なるのはいうまでもない。(p.63-64)
“心の表現であり、心と表現が一致している”とあるけれど、このような有り方を神道は、「顕幽一致」と言って尊んでいる。「顕幽一致」を一文字の概念で言い表わすなら“誠”(言って成す)になるんだろう。菅原道真が詠んだとされる「心だに 誠に道に 叶いなば 祈らずとても 神は守らん」という歌は、このことを言っている。つまり、供物も儀式も形式ではないということだ。それは心の表現であり、心と表現が一致している場合のみ有効とされるのである。これは、神に食べ物を与えたり、神をなだめたりする目的を持つ偶像神への供物とまったく異なるのはいうまでもない。(p.63-64)
【ユダヤ人の優秀さと、偶像崇拝宗教との違い】
神社の本殿に御神体として「鏡」が置かれていたりする場合があるけれど、これは祭神(日神=太陽神)を寓意しつつも、自分の姿を写すためのものであり、「自霊拝」のためでもある。
では、ユダヤ人の優秀さ、あるいは彼らだけが持つ才能や努力とはいったい何なのだろうか。それは、あからさまに語られることはほとんどないが、やはり神の力というしかないであろう。
神の力が注がれてこそ、妊娠や出産はもちろん、人間はようやく何事かをなしとげることができるというのは聖書の基本的な智慧であるし、ユダヤ人にとっては古代から当然のこととされていて、彼らの歴史が証明していることでもある。(p.69)
「神の力」を注がれているが故にユダヤ人は優秀なのだ、ということになる。
神の力が注がれてこそ、妊娠や出産はもちろん、人間はようやく何事かをなしとげることができるというのは聖書の基本的な智慧であるし、ユダヤ人にとっては古代から当然のこととされていて、彼らの歴史が証明していることでもある。(p.69)
ちなみにドイツ語では、才能をベガーブンクという。これは「与えられるもの」という意味だ。神から与えられるもの、それが才能である、という意味をあきらかに示した言葉になっているわけだ。
このようなことの理解にも、神から導かれてきた宗教を知っている者と、偶像神を礼拝する宗教しか知らない者との差がはっきりと出てくる。
偶像神を礼拝する宗教しか知らない者にとって、宗教はあくまで自分の外に存在する特別なものである。一方、ユダヤ人にとって、彼らの神は内に存在するのである。
だからユダヤ人が信じているのは、たんなる一宗教ではない。彼らは何かを信じているのではない。神がそこに存在するのを肌で知っているだけなのである。それは、自分には父がいるという感覚とほとんど似たものである。(p.70)
仏教は仏像を作るから内在する神を忘れて偶像崇拝宗教になってしまうけれど、神道は違う。このようなことの理解にも、神から導かれてきた宗教を知っている者と、偶像神を礼拝する宗教しか知らない者との差がはっきりと出てくる。
偶像神を礼拝する宗教しか知らない者にとって、宗教はあくまで自分の外に存在する特別なものである。一方、ユダヤ人にとって、彼らの神は内に存在するのである。
だからユダヤ人が信じているのは、たんなる一宗教ではない。彼らは何かを信じているのではない。神がそこに存在するのを肌で知っているだけなのである。それは、自分には父がいるという感覚とほとんど似たものである。(p.70)
神社の本殿に御神体として「鏡」が置かれていたりする場合があるけれど、これは祭神(日神=太陽神)を寓意しつつも、自分の姿を写すためのものであり、「自霊拝」のためでもある。
《参照》 『土曜神業録 1』 深見東州 たちばな出版
【身体が神体 → 自霊拝】
【身体が神体 → 自霊拝】
【真正ユダヤ教徒の世界観】
「生きがい・・・? 自分探し・・・? 日本人は何をわけわかんないこと言ってるんですか。私たちユダヤ人は、日々、神と共に世界を創造し続けているんですよ」と言われたら、ひとたまりもない。
《参照》 『神との対話 ②』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
【創造とは、選択の連続】
現代にも残っている真正のユダヤ教徒は、自分たちは世界の完成のために神を助けているということを自覚している、つまり、ノア以来まだ延々と続いている創造に参加している自覚を持っているのである、彼らが聖書に記されているこまごまとした律法をまもる生活に努めているのはそのためなのだ。
偶像神をいだく宗教をもつ人間たちは、自分の外に人生の意味とか生きがいを探さなければならないほど今の生がむなしさに覆われそうになっているのだが、生きている神を信じるユダヤ人はこの一日一日をどう生きるかということ自体が神とともに世界の創造に参加する喜びになっているのである。(p.78)
真正ユダヤ教徒にとっては、自己啓発書なんてまったくナンセンスな書籍なんだろう。偶像神をいだく宗教をもつ人間たちは、自分の外に人生の意味とか生きがいを探さなければならないほど今の生がむなしさに覆われそうになっているのだが、生きている神を信じるユダヤ人はこの一日一日をどう生きるかということ自体が神とともに世界の創造に参加する喜びになっているのである。(p.78)
「生きがい・・・? 自分探し・・・? 日本人は何をわけわかんないこと言ってるんですか。私たちユダヤ人は、日々、神と共に世界を創造し続けているんですよ」と言われたら、ひとたまりもない。
《参照》 『神との対話 ②』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
【創造とは、選択の連続】
【ホセア書とヨナ書】
ホセア書に関して
ホセア書とヨナ書は同じテーマを含んでいる。それは、あやまった神を信じている者への愛、他国の人々への愛である。つまり、神はイスラエルだけの神ではなく、すべての人間の神であるというメッセージを含んだ書なのである。(p.118)
これって受験の世界史で習ったことが頭に残っている人々にとっては意外な記述である。「イエスによって初めて普遍的な愛が語られたことで、キリスト教は、偏狭なユダヤ教から脱して、世界宗教へと発展した」と学んだのである。受験の世界史って、結構大雑把というか、ちゃんとした真実を教えていないことになる。ホセア書に関して
ゴメルはバアル神殿に使える娼婦だという。神の命令によってホセアは彼女と結婚したのである。
この私的な事柄がなぜ預言になるかというと、神を裏切ってバアル神を礼拝する当時のイスラエルの民とだぶって表現されているからである。・・・(中略)・・・。
ゴメルはホセアと結婚し子供まで生んだのだが、また夫を離れて売春したか、他の男のもとへ行ったのである。それでもなおホセアは妻を愛し、なんとか連れ戻そうとするのである。この構図が、そむき続けるイルラエルの民に対する神の愛と、自分のもとへ連れ戻したいという切なる願いと重なっているのである。・・・(中略)・・・。
そして、ホセア書第6章には、なかなか理解されないでいる信仰の核心がはっきりとした言葉で記されているのである。
「私が望むのは、いけにえではなく、愛なのだから」 (p.119-121)
ヨナ書に関して、
この私的な事柄がなぜ預言になるかというと、神を裏切ってバアル神を礼拝する当時のイスラエルの民とだぶって表現されているからである。・・・(中略)・・・。
ゴメルはホセアと結婚し子供まで生んだのだが、また夫を離れて売春したか、他の男のもとへ行ったのである。それでもなおホセアは妻を愛し、なんとか連れ戻そうとするのである。この構図が、そむき続けるイルラエルの民に対する神の愛と、自分のもとへ連れ戻したいという切なる願いと重なっているのである。・・・(中略)・・・。
そして、ホセア書第6章には、なかなか理解されないでいる信仰の核心がはっきりとした言葉で記されているのである。
「私が望むのは、いけにえではなく、愛なのだから」 (p.119-121)
ヨナ書のメッセージは明らかで、神はイスラエルの敵となっている国の人々さえ案じているということである。神は人間すべての神であり、それは神の公平さを表わしているのである。
災いを下すのをやめたのは、ニネベの人々が偶像崇拝を捨てたからではない、彼らが行いを悔いあらためたからである。ここには、民族や宗教を問わずに、どの人間も、どの動物さえもいつくしんでくれる神の心が表わされているわけである。(p.126)
ついでに、ヨナ書は『ピノキオの冒険』の原型だという。災いを下すのをやめたのは、ニネベの人々が偶像崇拝を捨てたからではない、彼らが行いを悔いあらためたからである。ここには、民族や宗教を問わずに、どの人間も、どの動物さえもいつくしんでくれる神の心が表わされているわけである。(p.126)
<了>