《中編》 より

 

【アメリカのレイオフ】
 1990年代の前半から中盤にかけて、GMの業績が悪化し、ぼくは本社から「7名のレイオフをしろ」と命じられました。・・・中略・・・・。
 アメリカのレイオフには裁判がつきものです。この時には2件の訴訟が起き、そのうちの1つでは負けました。ドラック中毒のスタッフを首にしたのですが、血液検査で反応が出ず、僕と会社が折半で、彼が70歳になるまでの給料を払うことになったのです。(p.142-143)
 レイオフが頻繁に起こっているアメリカ社会とはいえ、正当な理由がない場合、ここまでシビアな判決になることもある。ちょっと意外。

 

 

【手書きという創造的解法】
 絵を描いているうちに、手が解決策を見つけてくれました。絵を描いていると、思ったところに線を描けないことがあります。予想より外にはみ出したり、中に入ったりというアクシデントを目が冷静に見ていて、「この線はおもしろい」「この線はおもしろくない」と判断していくんです。まるで手の先にもう一人の人間がいて、アイデアを導き出してくれるかのようです。そういう道具があると、自分が頭で考えていたよりもはるかに上のレベルに到達することができます。(p.150)
 絵を描くという行為は、手による出力と視覚による入力の同時進行作業だろう。ゆえに手を動かすという出力が、更なるよりよい出力を生む可能性を秘めている。
    《参照》   『脳を活かす仕事術』 茂木健一郎 (PHP) 《前編》
              【「脳を活かす仕事術」の神髄】

 

 

【国際化する社会における、日本人のデメリット】
 日本の労働者を考えると、とても教育レベルが高く、忠誠心があるのが特徴です。これまでの日本の躍進はブルーカラーと呼ばれる人たちによるものとも言えるでしょう。その反面、日本のホワイトカラーは先進国の中で一番レベルが低い存在です。
 なぜかと言えば、義務教育の中で「人を管理する能力」を育てていなかったからです。昔の日本は均質な思いやり文化で、以心伝心が通用しましたから、そういう能力が必要なかったとも言えます。ところが、いろいろな人間が混じって組織を形成するようになると、マネジメント能力がどうしても必要です。(p.156-157)
    《参照》   『バスラ風土記』 山田重夫 (朱鳥社)
              【現地人の使い方】

 日本人だけの会社なら従来通りで問題ないけれど、世界は一層、人とモノとお金が混ざり合ってゆくようになる。「日本的経営と諸外国の経営方法のどちらが正しいか」などという視点で考えているようではお話にならない。混ざり合った世界では、混ざり合わない世界のやり方は通用しないのである。
 アメリカでは昔から、専門学校というのは大学を出てから入るところでした。日本もこれからどんどんそうなっていくでしょう。(p.157)
 日本でも、単なる4年制大学より、技術系専門学校の卒業生の方が、はるかに就職率は高くなっている。

 

 

【自分がない日本人・日本企業】
 「自分」がない人は、自分がやるべき仕事を選べず、結果として「何でもやります」という姿勢になりがちです。自分という軸がないのをごまかして、「お客様のためなら何でもやります」と言っているのが日本企業です。
 ・・・中略・・・。
 自分がない人たちは、こだわりがありません。自分の好きなもの、自分の哲学に合うものを知っている人たちは、選択肢の中からこだわりを持ってそれを選び、こだわりを持ってそれを完成させようとします。「信じるもの」に従って仕事をしている人と、それがない人とでは、勝負は初めから見えています。
 日本人の、特に企業人に多い「自分のなさ」は、高級品のような趣味、嗜好がはっきり出る商品を作る時、大きな弱点になります。特に例は挙げませんが、日本人が高級車だと思って作っているクルマは、欧米人から見れば高級車でも何でもありません。少し上等な大衆車というレベルです。(p.161-162)
 この書き出しでは、日本人の資質がマイナス的に語られているけれど、チャンちゃんはあえてプラスに考えようと思う。
 日本の若者が、嗜好において脱日本化しているように、海外の若者も嗜好において脱自国化しているはずである。車のデザインに関しては、フェラーリは特別で、その他の海外メーカーの車も日本車もそれほどデザインに大きな差はなくなってきている。製造コストにからむ企業利益(部品やラインの共有化)故に世界の車市場は均一化の趨勢から逃れられないからこうなっているのだろうけれど、このような状態が数十年続けば、若い新たな世代の嗜好はそれに感化されて均一化してゆくはずである。であれば、むしろ「自分のない」日本人的な生き方や考え方は、自ずと世界の基調になってしまう可能性がないとは言えないだろう。
 自分益や企業益や国益という考え方は、実質的にもう意味を失いつつあるのである。新たな世代は、既に地球益という視点で生きている。
   《参照》   『「知の衰退」からいかに脱出するか?』 大前研一 (光文社) 《後編》
             【これからの時代の教養とは?】
   《参照》   『いつか、すべての子供たちに』 ウェンディ・コップ (英治出版) 《前編》
             【“ミー・ジェネレーション”による理想主義的な活動】

 

 

【切り捨ての文化が失われた日本】
 かつての日本文化は、「切り捨て」が美でした。作ろうとしているものからどんどん要素を削ぎ取っていき、「これを取ったらもう成立しないか」というギリギリのところまで削いだものを良しとする文化です。
 ところが、ここ30年くらいで作られたものは、「これも足して、あれも足して、まだ崩れないな」というように、積木を崩れるギリギリまで積み上げていくような商品だと思います。本来の日本文化とは反対の方向ですね。(p.168-169)
 ガラパゴス携帯を代表例として念頭に置きながら、こう書いていたのだろう。日本人が失った切り捨て文化を率先して取り込み実現したのは、アメリカ企業であるアップルの iPhone や iPad だろう。あれもこれもと複雑にしていった日本のメーカーは、人差し指一本でシンプルにできることを追及していったアップル製品に、ほぼ完敗状態となっている。
 多くの日常生活者が、複雑化した生活を一新するために『断捨離』を志向して実行していったように、日本企業も思い切った『断捨離』をすべきだった。
 この思考の延長として感じるのだけれど、エネルギー発生装置として原発ほど複雑な装置はない。究極のエネルギー装置(永久機関)であるフリーエネルギー発生装置は、驚くほどシンプルな構造をしている。エネルギー発生技術において『断捨離』を窮めれば、人類は新しいステージに入れるのである。日本人こそが、世界を救済するためにそれをすべきなのに、いまだに封印されている。
    《参照》   『これが無限の[光フリーエネルギー]発生の原理だ』 河合勝 (ヒカルランド) 《3/3》
              【フリーエネルギーは封印する】

 

 

<了>
 

  奥山清行・著の読書記録

     『フェラーリと鉄瓶』

     『伝統の逆襲』