《前編》 より

 

【草食vs肉食】
 仕事をするという面から日本の社会と白人社会を比べると、草食動物と肉食動物くらい違います。ぼくは仕事を初めて25年くらい経ちますから、その間ずっと肉食動物の中で生活してきたことになります。しかも最後のピニンファリーナでは、デザイン・ディレクターという管理職でしたから、草食動物が肉食動物たちの中で、あめとムチを使い分けながら仕事をしてきたようなものです。
 もちろん、ちょっと気を許すとすぐに猛獣に噛まれてしまいます。背中を向けるとすぐに飛びかかってくる連中ですから、よく噛まれます。イタリアに住むようになってもう10年以上経ちますが、毎朝仕事に出かける時には、車の中でロック音楽をかけるのがぼくの習慣です。勢いをつけて、肉食獣たちに負けないようにするためです。
 また、イタリア語というのは、口を大きく開けないと話ができませんから、クルマの中で鏡を見ながら口の準備運動もしています。ロック音楽で気分を高揚させ、口の運動でしゃべり負けないようにして、職場に向かうわけです。そうしないと、彼らの気迫に呑まれてしまうのです。(p.20)
 もちろんこれは冗談半分で書いているのではない。
 「沈黙は金」は日本人社会の中だけで言えることであって、諸外国では「沈黙は無能」と看做されるのである。喋って自分の力を示さなければ、周りは納得しないどころか露骨に見下すのである。どれほど日本で培った技術力があっても、それを明確に示しつつ言葉でも伝えるだけの語学力がなければ、いかんともしがたい処がある。
 イタリアでは、上司は部下を力で押さえなければなりません。いくら肩書が部長だから、お前は部下だと言っても、そんなのは何の保証もありません。たとえばぼくはデザイン・ディレクターでしたが、部下のデザイナーに対して「俺はお前より絵がうまいぞ」「お前よりもクルマのことをよく知っているんだぞ」と明確にデモンストレーションしていかないと。よそ見をしている時に足をすくわれてしまいます。(p.159)
 海外で働いてきた人々から、これと同じことを聞いたことがある。実際に実力を認めさせながらでないと本当に馬鹿にされるそうである。

   《参照》   『嫌な奴とつき合いなさい』 竹村健一 (青春出版社) 《前編》

            【“謙譲の美徳”は、無能と理解する外国人】

 

 

【日本的な給与体系】
 ところで、びっくりするかもしれませんが、勝ったデザイナーと負けたデザイナーの収入は一緒です。何とかして、勝った人に多く払えるようにしようとはしているのですが、もともとイタリアの会社員は給料が安いので、差をつけてもたいした違いは出てこないとあきらめているみたいです。(p.82-83)
 社員同士の間では差がないけれど、イタリアも諸外国同様、強固な階級社会だからオーナーと社員の間の格差は、甚だしく大きいのは言うまでもない。
 諸外国を含むイタリアと日本の間には、自己主張が強い弱いの差があるけれど、変えようのない強固な階級社会の中で、「せめて言いたいことは言わしてやらないと、ガス抜きができない」 という社会的安全弁の意味もあるだろう。

 

 

【意外に働くイタリア人】
 イタリア人は非常によく働きます。ぼくは日本以外、韓国、フランス、ドイツ、アメリカ、中国、トルコの人たちと仕事をしたことがありますが、全部を比較してもイタリア人が一番効率良く働くと言えます。正直なところ、日本人は比較になりません。
 日本の人たちは、自分では良く働くと思っているのかもしれませんが、定時の時間帯の効率が非常によくありません。そして5時から8時くらいまでの残業時間帯になると、効率がすごく良くなります。そんなことなら、朝からその効率で働けばいいのにとよく思いますが、やっぱり残業手当が出ないと困るのでしょう。(p.74-75)
 「日本人=勤勉」という思い込みは止めた方がいい。民間企業でもこんなものなのに、日本の就業者の25%を占める公的機関の実情は、椅子に座っているだけで実質仕事などしていない。
 かつて日本が高度成長を実現したことの理由に、「日本人の勤勉さ」を第1に挙げるのはまったくの見当違いである。少なくとも現在の日本の若者たちは、そうは思わないはずである。公務員でそう言っている輩がいるとすれば、“相当な恥知らず” であるか、バカのひとつ覚えをオームのように繰り返すだけの “本物の〇〇” であるとみて間違いない。
     《参照》   日本が経済成長したその理由は?
 

 

【町のブランド】
 イタリアのブランドをよく見ると、ロゴマークの下に必ず町の名前が書いてあります。これは自分たちの町を誇りに思っている証拠です。イタリアで一番大きな自動車メーカーはフィアットですが、FIATの最後の「T」は、フィアットのある町、トリノの頭文字です。
 日本で、町の名前がブランドになっているのは、「鯖江のメガネ」くらいだろうか。今日のようなインターネット時代は、地方独自のブランド化が可能である。
 著者は山形出身だけれど、山形で始めたカロッツェリア研究会では、タイトルにある鉄瓶などをプロデュースしているらしい。優れた技術とデザイン性があって、それを世界に展開してゆく営業力があれば地方の繁栄は不可能ではない。東北地方には「樺細工」のような工芸品もあって、既に世界展開しているらしい。
 なお、ウィキペディアには、社名のフィアットとはFabbrica Italiana Automobili Torino の略で、「トリノのイタリア自動車製造所」の意味。ニューヨーク証券取引所のコードはトリノをとったFIA、と書かれている。
 フィアットが出てきたから、ついでに同社のチンクエチェントを題材にしたイタリア文化著作をリンク。
     《参照》   『愛しのティーナ』  松本葉  二玄社
 

 

【人材の育成法】
 イタリアでは、たいして才能もない人に絶大な権限を与えたために、その人たちが仕事を通して育っていくということがよくあります。若い頃に書いていた図面を見ても、全然たいしたことなさそうな人が、大きな権限を得て勝手にやっているうちに才能が伸びていくわけです。肩書が人を作るとか、地位が人を作るということなのでしょう。・・・中略・・・。個人の潜在的な才能が引き出され素晴らしい製品が生れるのですから、このやり方は日本でも真似すべきでしょう。(p.88-89)
 著者自身は、子どもの頃から「予告」通りに「県知事賞」をとってしまうようなデザインの才能がある人だったらしいけれど、そのような人が、「権限を持たせて、肩書や地位で育てることも有効」と書いている。
 これは、心理学的にも脳科学的にも根拠のあることである。故に、デザインに限らす、すべてにおいて言えることである。
    《参照》   『脳を味方につける生き方』 苫米地英人 (三笠書房) 《前編》
              【地位が人を作る=人生はお芝居である】

 

 

【フェラーリの規模】
 フェラーリくらいの規模の会社では、トヨタみたいに学校を作るわけにはいきませんから、戦力になる人間を外から連れてくるしかない。だからぼくみたいな人間が、フェラーリのデザインを担当することができるのです。(p.127)
 これを読んで「フェラーリの規模ってどれくらいなのだろう?」 と思って比較してみた。
 この本によると、今でもフェラーリの年間生産台数は1万台以下らしい。日本全体(各社合計)の生産台数は丁度1千万台程だから、平均すれば200万台くらいだろう。生産台数で言えば、フェラーリは日本メーカー平均の200分の1になる。えらく小さい。でも、フェラーリ・ブランドは揺るぎないから、量の問題ではないのである。この数で会社を維持できる。凄い! なんせ著者がデザインしたエンツォ・フェラーリは、1台7500万円である。
 フェラーリは量産ではないから、ドアを付けるにも5ミリ程度の誤差はあるのが普通で、それは継手部分の溶接の厚みで調整してピッタリ仕上げるらしい。画一化した作業しかできない日本の溶接技術者では対処できないから、修理もわざわざイタリアに送るのだという。手作業だからこその付加価値維持法である。

 

 

【フェラーリの赤】
 フェラーリの赤は、決してワインやポモドーロ(トマト)の赤ではなく、今まで亡くなったテストドライバーやF1レーサー、そして若くして亡くなったエンツォ・フェラーリの息子ディーノ、そういう人たちの血の色なのです。
 ぼくはここに人とモノとの「敬意を持った関係」を感じざるを得ません。(p.135)
 「血の色」なんて言われると、日本人的には若干ビビってしまうけれど、まあ、意味するところは良く分かる。
 芸術としての「赤」と言った場合、西洋の場合はどうしても「キリストの血」やそれを象徴する「ワインの色」にゆきついてしまうらしい。西洋の美術館に行けば宗教画や肖像画が多いけれど、そのほとんどに重苦しい赤を感じてしまうから、日本人とすればはなはだ気持ちよくないのである。
    《参照》   『歪みを愛でる』 川尻潤 ポーラ文化研究所
              【白と赤】

 

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