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 車の雑誌「NAVI」の編集者として働いていた著者が、イタリアに住みはじめた1990年頃のことが書かれている。突飛というべきかユニークというべきか、つまりイタリア人らしいイタリア人の友人たちの様子がたくさん描かれている。

 

 

【イタリア】
 この時に思ったのは、バカなんだか利口なんだかわからない国だ、という一点につきる。詰まっているのか、バガバガなのか、考えているんだか、何も考えていないんだか、まったく不明な国、これがイタリアに対して持った印象だった。 (p.16)
 会社の取材で始めてイタリアに行ったときの印象だという。
 この記述、なんか分かる気がする。

 

 

【トスカーナ地方独特の糸杉】
 ミケランジェロ広場の近くで、トスカーナ地方独特の糸杉を眺めながらお茶を飲んだ。 (p.46)
 ダイアン・レインがいきなりスッピンのドアップで登場してビビッた映画・トスカニー( 『トスカーナの休日』 )の中でも、ところどころ大きな糸杉が映し出されていた。ゴッホの絵に出てくる、ちょっとキモイあの樹木である。

 

 

【イタリア人】
 著者とドイツ人の友人で、一致をみたイタリア人に関する観察内容。
「建物の間なんかを歩いていると、突然、上のほうから声がすることがある。あれにはいつもギョっとする」
「それって特に夏が多くない」
「それも会社が終わる時間だろう」
「伸びをしていると、何となく声が出ちゃう人がいるんじゃないの。ただ、ポイントはその声が異様に大きいっていう点だと思う」
「ぼくは逆だと思う。イタリア人は1日に喋る分量が決まっていて、それを達成できないと一度に吐き出す。そうしないと、健康が害される。伸びをしているように見えるが、伸びはあくまでもカモフラージュなんじゃないか」
「百歩譲って喋る量が決まっているとしても、それを達成できない人なんか、イタリア人にいるわけない」
 いずれにしても、この話題については、結構ふたりで真面目に悩んだものだった。 (p.76)

 

 

【日本について、もっとも聞かれたこと】
 今までにもっとも聞かれたのは、どうして日本車はしょっちゅう変わるのか(モデルチェンジするのか)で、これが頻度ナンバー1、続いて、個性に乏しいように感じるのはどうしてなんだろう、これがナンバー2。
「そんなこと聞かれたって困るわよね。アタシだってわかんないんだから」
「誰もキミに日本の考えなんか聞いちゃいないのさ。キミの考えが知りたいんだ。まあ、ニホンは注目される。・・・(中略)・・・。世界中に、ニホン人が作った製品が転がってんだ。製品が転がってても、顔は見えない。沈黙を守ってるからな」
「沈黙ねえ」
「イタリア人ってさあ、沈黙にたえられないんだな、きっと。人と一緒にいて、沈黙していると息苦しくなって、死にそうになるっていう体質なんじゃないの」  (p.84-86)
 石造りで数百年変わらない街並みのイタリアと、木造で数十年しか維持できない日本。人の住む住宅環境の例は、そのまま人間の思想的な背景になるのだろう。数百年変わらなければ世代を超えて同じものを尊ぶであろうけれど、数十年という自分の人生の範囲内で変わるのが前提の日本人であればこそ、その限られた範囲内を “更にきらびやかなものにしたい” と思うのではないだろうか。
 イタリア人は “恒常” を尊び、日本人は “向上” を尊ぶ。
 イタリア人が、神なる “恒常” の世界を現世に映し出そうと「デッサン」に励むなら、日本人は、世界を無常と見定めるからこそ、ただただ “向上” することを目的として 「デッサン道」 に励むのだろう。イタリア人の 「デッサン」 は 「タブロー」 を目指すだろうけれど、日本人の 「デッサン道」 は 「終わりなき道」 である。
 イタリア車は 「タブロー」 感覚で、日本車は 「デッサン道」 感覚で生産されている。だからモデルチェンジが頻繁なのだと考えることもできる。

 

 

【カトリック色の濃いイタリアの感嘆詞】
「マドンナ!」 聖母マリアを意味する。
「オッ、ミオ、ディオ!」 英語のオーマイ・ゴッドにあたる。
「シニョーリ」 神様を意味する。いずれもカトリック色が濃いのはいかにもイタリアらしい。 (p.107)

 

 

【眺める人】
 イタリアでは、街を歩いていると、必ず通りにひとりかふたりは、 “何かをジッと眺めている人” というのがいる。その、“何かをジッと眺めている人”の後ろには “何かをジッと眺めている人を眺めている人” が出現して、さらにその後ろには、・・・(中略)・・・。笑える話を提供する友人を眺めていると、いつもこの“眺める人”を思い出してしまう。イタリア人っていうのは、世界一観察力と想像力のある国民なんじゃないか。 (p.134)
 イタリアでは、芸術や科学の基礎教育として 「観察する」 ということが非常に重要であると指導されているのではないだろうか。日本でこんなことをしていたら、警察に通報されかねない。

    《参照》   『 NAKATA MODE 』 高橋英子・宇都宮基子  小学館

                【観察するイタリア人】

 

 

【 “日本語の上手な親切なイタリア人” 】
 「あ奴はまるでイタリア人以上にイタリアのことをよくわかっているし、イタリア人みたいにイタリア語を喋るけど、ニホンのこともよく知っているんだろ。もちろん、日本語だって喋るんだよねえ」
 こう尋ねられて、思わず苦笑した。そういえば、内田さんのお兄さんは弟の内田盾男のことを “日本語の上手な親切なイタリア人” と呼んでいる。 (p.193)
 トリノ在住の内田盾男さんは、世界の自動車デザイン界で名を残したジョバンニ・ミケロッティが来日した際、この巨匠の目にとまり、イタリアに呼ばれた人なのだという。東京オリンピックの頃だというから、イタリア在住40年以上なのだろう。

 

 

【短所矯正法と長所伸展法】
 そのタテオさんから著者が聞いた日本とイタリアの車の作り方の違い。
 少しでも短所を減らそうと莫大なエネルギーを使う日本の作り方に対して、この国では、得意なところやいい面をガッと伸ばして下手なところや短所には目をつぶる」 (p.195)
 いわゆる短所矯正法と長所伸展法の違いで、近年では日本でも、教育やビジネスの場面で後者の方法をしばしば耳にしている。しかし、後者の方法を実践してゆくと、社会全体が顕著な格差社会になってゆくのも事実である。長所伸展法は、長所を伸展できなかった個人を見捨て、合法的に切り捨てられるからである。
 長所伸展法は、そもそも磐石な貴族社会構造・階級社会構造をもつ諸国家で生み出され、重用されてきた手法である。
 自動車に限らず日本製品の高品質は、ほぼ平等で安定した社会構造の中で実践されてきた短所矯正法によって生み出されてきたのであって、長所伸展法によったのではない。
           【得意なことと不得意なこと】
 
 
【愛しのティーナ】
 著者の愛車である、フィアットのチンクエチェント。その愛称をティーナと命名した。
 チンクエチェントというのは500cc程度の、超小型車なのだという。
 イタリア語には縮小名詞があって、リーブロ(本)の小さなものはリブレットとなり、小さな本やパンフレットをさす。・・・(中略)・・・。名詞の語尾に、イーノ(女性形はイーナ)、エッロ(同エッラ)、エット(同エッタ)を付けるのだ。これに倣って、チンクエチェントをチンクエチェンティーナと言うようになったが、これではいかんせん長いので、語尾だけを取ってティーナにした。これがティーナの由来である。 (p.203)
 ティーナを日本語でいうなら 「おチビちゃん」 とか 「こじゃみちゃん」 みたいなところだろう。
 それにしても、イタリアではチンクエチェント、人気がないのだという。
 「チンクエチェントって、走ってると、邪魔だよね」 って友人たちは言うそうである。
 小さすぎる車って、たしかにそう思われがちである。可愛いけど、可愛そう。
 
 
<了>