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 彼がペルージャで衝撃的なデビューを果たしたのは1998年頃だった。この書籍は2003年初版。

 

 

【ナカタモード】
 ペルージャ側の交渉担当をした弁護士のスティンカルディーニさん。
「ナカタはあの若さで、自分の個性がどうやったら活かせるかをすでに理解していた。ユベントス相手にゴールを決めた瞬間、ナカタモードに沸いた街は、無名の日本人ジョカトーレ(サッカー選手)をあらためて歓迎したのです」
 ・・・中略・・・。
「もし、50年後に、歴史に残る日本人ジョカトーレは誰かと訊かれたら、それは間違いなくナカタだ。私なら、そう答えるだろうね。たとえ、これからナカムラがどんなに活躍したとしてもだ。私をはじめ、ペルージャに住む人々にとっては、永遠にナカタイコール日本人なのだよ。彼はなんといっても、 “開拓者” なのだから」(p.34)
 そう、 “開拓者” の業績は永遠だろう。
 中田が活躍したからこそ、その後の日本人選手の評価も高まったのは間違いないことである。

 

 

【ナカティーノ】
「子どもたちの間でも中田は大人気で、ウチのチビはしばらく “ナカティーノ(小さなナカタ)” と呼ばれてたわ」 (p.42)
 ペルージャ在住で、イタリア人と結婚している日本人の奥様は、子どもの洗礼名まで “ヒデ” にしたとか。
 イタリア語の、ティーナ、ティーノについては、下記参照。
   《参照》   『愛しのティーナ』  松本葉  二玄社 
              【愛しのティーナ】
「中田がローマへ移籍するって決まった日は、まるで街中がお葬式みたいだった。夫も私も子どもたちも友人も、溜息まじりに 「ナカタは、ほんとうに行っちゃうの?」 と慰め合ったものよ。あのときの街には、がっかりムードが漂っていたわね」 (p.45)
 人口20万に満たない小さい街であったからこそ、強豪相手に得点を重ねた中田の活躍は、住民たちの誇りだったのだろう。

 

 

【イタリア人】
 イタリア語の通訳として日本とイタリアを行き来する生活を送っていた彼女の言葉は、いまも忘れられない。
 「彼らは何しろ自分勝手な国民ですから、でも、私がイタリアを好む理由は、じつはそこなんですよ」(p.23)
 基子さんというミラノ在住の日本人の見解。
 犬系か猫系かといえば、猫系ということなのだろう。イタリアに限らず欧米全般、いや世界全般について言えること。

 

 

【個人+コラボレーション】
 「イタリアは個人の価値が高い。ビジネスでもサッカーでも、個人+コラボレーションで成り立つ国。ですから、まず基本に来るのが個人の才能、能力、資質なのです」
 階級社会という揺るぎない基盤があるから、日本人がイメージする “和” というのは発想外なのである。
 こんな話がある。ミラノ在住のある女性ライターが、日本人の仕事仲間とイタリア人のビジネス感覚について話をしていた。仲間の一人が、 “イタリアではサッカーよろしく、企業でチームワークを組むとしても、せいぜい11人まで。なぜならそれが彼らの協調性に耐えうる人数だから” という説を主張し、全員笑いながらも納得したという。
 一見、風刺漫画のようなたとえだが、言い得て妙な気がする。(p.75)

 

 

【観察するイタリア人】
 もうひとつ、イタリア人と仕事をしていて思うのは、彼らが本当によく人間を観察していること。外見や肩書や学歴に惑わされることなく、その人の能力や人間性を見極める臭覚のようなものがとても鋭いのです。仕事のパートナーとして信頼のおける人間かどうか、また自分と肌の合う人間かどうかの判断が、とても迅速だし、ハズレがない。個人の能力を高く評価する社会だからこそ、自然とその能力が発達しているのではないかと、私なりに想像しています。(p.74)
 ローマへ移籍してあまり出場機会のなかった中田も、ベンチの中から相手選手のクセをよく観察していた。ローマの優勝をほぼ決定づけたような貴重な中田の得点は、トラップしたボールを体の後ろへ転がすクセのある相手選手が、そうした瞬間に背後からボールを奪い、そのまま自分で得点したものだった。

 

 

【文化の流れ】
 日本人は、もはやイタリア発のトレンドに迎合するばかりではなく、その中からほんとうに自分たちに似合うものを選び抜いている。その一方で、靴やバックをはじめとする日本のカジュアルモードが、ユーロッパに向かって発信されてゆく。このふたつの流れがはたしてこれからどんなトレンドを描いていくのか、私にはとても楽しみです。(p.111)
 繊細なる日本語を話す繊細な日本人の感性によって造られたもののよさを知った人々は、さらに日本の不思議さに注目するようになることだろう。そう、これから “世界は日本化する” のである。

 

 

【ナカタの知名度】
 イタリア人のアントニア・マンチネッリさんというファッションジャーナリストの見解。
 「ぼくが評価したいのは、彼が日本人として、この土地でサッカーという大衆文化にアピールしたこと。ファッション、音楽、アートといった特定の芸術文化ではない、民衆レベルに受け入れられた事実です。クロサワやキタノを知っているイタリア人はごく一部だが、彼らを知らない大多数のイタリア人が、ナカタのことなら分かる。つまり、イタリア人のほとんどすべての層において、日本人である彼が知られていることになるのです。これは今までにない、社会的価値観だと私は思いますね」 (p.93)
 中田がまだこれから活躍する場は、西欧を中心にいくらでもあるのだろう。それまで、世界中と日本中を自分の足で歩き回って文化を体感しつつ、日本の良さと繊細さを確信してゆくはずである。日本人としての揺るぎない確信を抱き、ふたたび有形無形の日本文化搬出の一員として活躍してくれることだろう。 
 
<了>

 

 

   《中田英寿・関連の読書記録》
      『文体とパスの精度』  村上龍・中田英寿  集英社
      『文武両道、日本になし』 マーティ・キナート 早川書房
          【中田英寿よ、先陣をきれ!】
          【言葉の勉強とはそういうものだ】
      『フェラーリと鉄瓶』 奥山清行 (PHP) 《前編》

          【イタリアで働くためには】