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 人格や霊格の陶冶に関する宗教家の手による書籍。

 

【得意なことと不得意なこと】
自分の不得意なことを不得意だと
つっぱなしてはいけません
得意でないことも得意になるように
やっぱり勉強して
自分を磨かなければいけないと思います。
この世に生まれてきた場合には
過去世の因縁の 自分の得意な面が出ているわけです
不得意なこと いやなことがあると
いやなことでもいやでなくなるよう
不得意なことも不得意でなくなるよう
守護霊 守護神が働いているわけです
それで完全にさせようと思う
右だけができて 左が出来なければだめなんです。
右も左も両方が出来て
完全円満な人間になっていかなけりゃならないから
自分の不得意でないことも
そういう立場に置かれたら 一生懸命
それを得意にするようやらなければだめだと思うのです。 (p.142-143)
 長所伸展法という考え方が、教育やビジネスの分野でよく語られている。
 この長所伸展法を宗教的な三世思想と組み合わせて考えれば、今世で一つの才能を延ばし、次の人生で別の才能を伸ばし、その繰返しで何回も生まれ変わって全ての才能を進歩させてゆけば良い、という考えなのだろう。
 しかし、長所伸展法とは、どうやら才能の側面から考えた手法のように思われる。
 それに対して、この書籍に書かれていることは、才能ばかりではなく多分に人格のことを含んでいるのではないだろうか。 “円満な人間” と表現されているからである。日本には古来から修養という考え方があった。才能より人格の陶冶に主眼をおいて人間を育成する思想があったはずである。
 才能と人格は正比例しない。天才的な音楽家などの素行に関して伝えられている書籍を読めば、その事はハッキリしている。才能や業績だけで評価する欧米的な価値基準と、人格・品格ひいては徳という概念まで含めて評価する日本的な価値基準の違いは、明確に分けて考えなければいけない。

 

 

【朝青龍の問題・子供の教育の問題】
 最近報道を賑わしている横綱・朝青龍の問題が最適な事例である。業績だけで評価してきたつけが、今になって問題になっている。
 子供の学級崩壊なども、才能の長所を伸ばすという視点だけで、人格の短所を矯正することを軽んじてきたツケが露骨に現れている。子供の素行は、才能によって質される問題ではなく、人格によって質されるべき問題である。集団となった場合の人格の陶冶は長所伸展法によってできるものではない。何をおいても、“忍耐” は子供の頃に学んで身につけていなければならない。
 横綱・千代の富士が好んで色紙に書いていた “忍” とは、刃物(=刀)を自らの心に向けることである。それが忍耐の本意であり武士道である。ところが、角界の範を示すべき横綱・朝青龍は、奥さんの前歯を折るような乱暴狼藉を働いていたというから、我が儘なバカ息子とどこも変わりはしない。どこにも “忍” などありはしない。
 教育においても、相撲においても、日本が日本独自の評価基準を徐々に失ってきた結果が現れているように思えてならない。

 

 才能があっても徳がなければ畢竟全ては失われる。
 徳があれば才能に秀でてなくても平安である。

 

 相撲は単なる成績を評価するだけの格闘技ではない。
 教育は単なる才能の伸展化を目指すものであってはならない。

 

 この国では、何ゆえにここまで徳育が軽んぜられているのか。
 
<了>
 

  五井昌久・著の読書記録

     『光明をつかむ』

     『質問ありませんか 2』

     『心貧しき者は幸いなり』

     『大決意』