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 京都、清水焼窯元の手による著作である。チャンちゃんは、「日本美」 というものに心惹かれてもいい年頃?になったのかもしれない。あるいは、ただ単に、『嫌われ松子の一生』 という、どぎつい原色の下品な映画を見た反動で、この本を読んでみたくなったのかもしれない。


【日本美】
 著者はネパールを旅行したとき、その超現実的な自然美に、いたく心を打たれたという。そして、それと共通する世界が、時に上品な体裁により隠された日本美術の奥底に存在するということを直感したという。
 大いなる自然という環境に我々が内包され、自然を敬愛する、という態度で臨むことにより、日本美はその驚くべき姿をあらわしたのです (p.9)


【陶器と磁器】
 分類上、磁器は陶器の一部と考えられるが、陶器と磁器の違いは、白色が釉薬(ゆうやく=うわぐすり)によるものなのか、素地のままであるのかによる。前者が陶器で、後者が磁器。薄手で真っ白な清水焼や有田焼が磁器の代表例。


【中国の陶器】
 中国では、翡翠などの玉(ぎょく)でできた器物の代用品として作成されたのが陶器でした。故に玉のもつ健康的な美しさを求めて作られた白磁や青磁が、中国の代表的な陶器となりました。日本人が美しいと感じる自然美を内包する美しさではありませんが、西洋人の美意識には合いやすく、西洋人が愛好する陶器(チャイナ)になったようです。


【朝鮮の陶器】
 朝鮮の陶器は、中世まで日本に多大な影響をもたらしていたのですが、おおきな違いは、「土の質」 を愛でるという感覚の有無にあります。朝鮮は中国の陶器を手本としてきたからでしょう。
 朝鮮で雑器として作られた陶器なのですが、日本で高く評価されているものがあります。「井戸茶碗」 や 「粉引」 や「刷毛目」 などだそうです。中国よりの朝鮮と日本とでは、明らかに美意識に違いがあります。


【西洋と東洋の技法比べ】
 大学生の一般教養で学ぶべき事のような内容が、この本にも一通り記述されています。
 絵画の技法における大きな違いは、空間を活かすか否かです。西洋の油絵ではキャンバス地をそのまま残すようなことはありません。キャンパス地が白色であっても、白という彩色を施すのが西洋の油絵です。素地をそのまま活かして空間を描く美学は東洋の、特に日本で用いられた技法です。老荘思想が背景として記述されているのはいうまでもありません。
 食器でも、カップに取っ手を付けたり、ナイフ、ホーク、スプーンなど機能別に食器を作る西洋に対し、東洋は汎用性を持たせる中で、食器に取っ手は不要であり、箸のみで十分でした。
 日本(東洋)芸術における余白は、鑑賞者個々の想像力が自在に機能しうる汎用性領域として必要不可欠ですらあったのです。


【白と赤】
 白に関して、日本人が陶芸美術品で愛好する白は、白くない白です。西洋の目指した完璧な白は日本人にとっては不自然な白なのです。著者はユトリロの絵画に描かれている、色の重ねられた白くない白に共感を寄せています。
 赤に関して、この書籍には書いてありませんが、日本と西洋の違いがあると思います。日本人にとっての赤は、本来、茜という表現が一番相応しいものだったのではないでしょうか。茜は自然の太陽がオレンジ~赤~紫へと遷移してゆく一過程に現れる色です。一方、緑の中を走り抜けてゆく真っ赤なポルシェの赤は、自然にはない極度に印象的な赤です。西洋絵画の手法を用いて、下に黒を塗り、その上に赤を塗るとあのポルシェの赤が生まれるのだそうです。
 人為の機能的複合によって生み出される西洋の赤、自然の遷移的融合によって発生する日本の赤、そんな違いでしょうか。陶器の作成に関しても、釉薬をかけて焼成した結果の出来ばえは、融合の妙です。釉薬の不具合による「かいらぎ」でさえも、融合の妙の結果ではないでしょうか。


【日本美の解釈】
 タイトルにある 「歪みを愛でる」 日本人の美意識について、古田織部を基軸として考察がなされています。またその考察の延長として茶道における村田珠光の「侘び茶」のことも記述されています。
 190頁以降の記述は、本書の中心部分なので、私はここに安易にまとめを書きません。この付近には、ボロキレ状のジーンズをはく若者ですら擁護するような面白い記述や、修復に関する東西比較などの記述や、日本美にそぐわない仏教思想上の解釈など、興味深い記述がたくさんあります。

 

<了>