さまざまな技法を駆使して作られた映画。ストーリー以外の、そんな印象の方が強い。


【さまざま製作技法】
アニメを映像化したかのような技法。(表情の極端化とズームアップ技法)
ミュージカルを模した技法。(刑務所がらみの場面に良く合っていた)
CGを駆使した技法。(夢や希望や幸せを描く場面でのメルヘンタッチ)
特殊な世界(ヤクザやポルノの世界に連なるインパクト)
時代演出(松子は1950年頃の生まれと想定。団塊の世代に合わせたニュース、施設、流行歌の多用)
複合世代(語り部は、松子の甥なので、現代の東京の若者の感性で作られている)


【猫またぎ弁当映画】
 場面ごとに技法を異にして作られたこの映画を料理に例えるならば、仕切りで区切られた幕の内弁当である。しかし、悲しいことに全体の色彩が宜しくない。日本的なたおやかなグラデーションを配した和服的な色彩ではなく、単純な原色を組み合わせたチマチョゴリ的な色彩である。しかも、ヤクザやポルノの味付けなので、当然のことながら、味はお上品なものではない。繊細さとは程遠いお下品な味付けである。ここまで書いた処で、この映画を幕の内弁当以外の弁当に例えようとするなら、「猫跨ぎ弁当」である。
 この映画の製作技法を比喩的に辿っていったら、自でも、「えっ」、と思うような結論になってしまった。しかし、猫ですら跨いで通る程マズイと言っているのではない。サイケデリックな色彩と、エキセントリックな味付けの映画だ、と言っているだけである。

【松子の人生ストーリーから余韻は感じられるか?】
 教員をやめて、転落世界を生きた松子の人生の孤独を、過激かつ多彩な映像の中で描いてはいた。このストーリーを小説で書くと、おそらく暗くなってしまうと思うけれど、そうなっていないのは、様々な映像上の技法が駆使されているからであろう。しかし、技法が多彩すぎて、辛さも、優しさも、孤独も、夢も、全体的に心理的な深まりを薄めているように思う。
 しかも、死んだ松子の悲惨な現実を救済するために、魂となって田舎に帰り、「ただいま」と言いながらの極上の笑顔をエンディングにしているけれど、これでは観衆の心に委ねられる領域がない。観衆が松子の人生に触れた後、心のままに自分自身の人生に重ね合わせて感じようとする領域が全然ないではないか。映画が救済完結的なレクイエム映像までやってしまっているのだから。
 この映画には、余白がない。映像においても、音響においても、つまり、観衆が自らの心に響かせる余韻が作れないのだ。最後に残るのは、多彩な映像の残像と、多種な音響と繰り返された歌詞のフレーズ、そして余韻を持てない故のジレンマである。

 

<了>