《前編》 より

 

 

【他人をも信用できる日本】
 血縁しか信用できない中国・韓国、他人をも信用できる日本、この違いが、日本が律令制度を導入しながらも宦官や纏足のようなものは導入しなかった理由だろう。
 握手のようなスキンシップを多用する欧米の文化に、「親しみが持てていい」と感じる日本人は、あまり愛情に恵まれてこなかった日本人なのだろう。
   《参照》   『大和古流の「躾」と「為来」』 友常貴仁 (三五館) 《前編》
             【日本人の挨拶】

 

 

【職業に貴賎なく、末端の仕事を尊ぶ日本人】
 経営者であるオヤジさんやエンジニアが現場で汗水たらしながら働く光景は、日本以外ではなかなか見られない。(p.135)
   《参照》   『若きビジネスマンはインドを目指す』 芝崎芳生 (プレジデント社) 《後編》
             【インド人の大卒のエンジニア】
 欧米のように働くことが神からの懲罰ではなくて、日本は神様も働く国である。働くことがそのまま生きることであり、働くことで自己実現しているという日本人の労働観を裏付けている。
 カー用品販売の会社、株式会社イエローハットの相談役、鍵山秀三郎氏は、まさにトイレ掃除をして立派な経営者だといわれている。全国の中小企業の経営者たちは鍵山氏を尊敬し、やはりその社長たちもトイレ掃除をしている。 ・・・(中略)・・・ 。やはりこういう国は日本だけだろうし、そこに日本繁栄の秘密もあるのだろう。(p.135-136)
   《参照》   日本の産業技術力について《後編》
             ●◎● 金融技術に劣っている日本? その訳は? 日本の精神文化!? ●◎●
   《参照》   『清掃が変える会社が活きる』 山本健治 (日本実業出版社)
             【掃除を極めれば 『道』 に通ず】

 

 

【「日本は男尊女卑の国である」という大誤解】
 日本は無宗教の国だという理解がまったくの誤解であるのと同様、日本が男尊女卑の国だという理解も大きな誤解である。真っ赤な嘘といってよく、日本ほど伝統的に女性の地位が高い国はない。
 そのあたりのことは神話を見ればよく分かる。・・・(中略)・・・。渡部昇一氏はこの『古事記』に示された日本の男女のあり方を「相補性原理」と呼んでいる(渡部昇一 『古事記と日本人』 祥伝社 2004年)。男女がお互いに相補って一つのことが成し遂げられるということである。(p.143-144)
 チャンちゃんも、えらく傲慢な女性に何度か遭遇したことがあったから、このことについては何度も書いてきた。下記リンクに紐付くリンクを全部辿ってください。
   《参照》   『新説2012年 地球人類進化論』 中丸薫・白峰 (明窓出版) 《前編》
             【中東の女性たち】

 欧米文化の根源に定置さている「男尊女卑」について、霊学的記述を受け入れられる方は下記リンクを。
   《参照》   『宇宙パラレルワールドの超しくみ』 サアラ (ヒカルランド) 《前編》
             【地球における女性性の問題】
 イギリスで女性が小説を書き始めるのは、それ(紫式部の『源氏物語』)から数世紀後のことである。本格的な小説家として価値が認められるジェーン・オースティンの登場は約8百年遅い。紫式部だけではなく、清少納言や和泉式部などを見ても、女性がこれだけ活躍の場を与えられている国は他にない。(p.145)
 

 

【日本文明を破壊するジェンダー・フリー】
 日本の伝統的な男女観を誤って理解したフェミニズム、とりわけ男女には生物学的にも性差はないなどと科学的根拠のないことを言い募る「ジェンダー・フリー」の主張によって、男女の「相補性」原理の上に確立した日本文明は変質の危機にある。(p.155)
 二元性(陰陽)の世界にある限り、男女という陰陽の二元が、相補的な関係になければ成り立たないのは当然である。男女に性差がないから平等であるというのは、まさに非科学的な暴論と言うよりデタラメ論である。
 「相補性」原理が理解できなければ、終極の完成形たる一元性には決して至れないのである。それはアセンションといわれる人類進化からの脱落を意味するのである。
   《参照》   『ガイアの法則[Ⅱ]』 千賀一生 (ヒカルランド) 《後編》
             【宇宙的陰陽性を成就する真の『あけわたし』】

   《参照》   日本文化に関する疑問と回答
             【日本人女性の生き方に関する疑問】
             【外来語の問題】 (← こっちは下記【日本語の包容力】のため)

 

 

【日本語の包容力】
 先に川勝平太氏の「日本は東西文明の生きた博物館である」という指摘を紹介したが、そうなるにあたってはこのような日本語の力によるところが大きい。日本語という包容力のある言葉によって何でも受け入れることができたのである。(p.160)
 西洋のアルファベットは26文字の組み合わせしかないが、これは一目で何を書いているのかの判別が難しい。鈴木孝夫氏はローマ字のような音声言語だけで成立している言語を「ラジオ型言語」と呼び、日本語は世界でも他に例のない視覚映像を併用する「テレビ型言語」であると呼んでいる(『日本語と外国語』 岩波新書、1990年)。
 実際、日本語の場合、漢字を表意文字として使う。漢字は一目見れば大体識別できる。それと「てにをは」を含めた平仮名が交じり。外来語の片仮名が混じる。その3種類を併用してほとんどのものが日本語で表現できる。日本語でほぼ不自由しない。考えてみれば、これはすごいことなのである。(p.161)
 そう、とんでもなく、すごいことなのである。
 言葉(国語)=文化だから、漢字・平仮名・片仮名の3種類を併用して、あらゆる諸外国の文化を吸収可能にした日本語こそが、日本文化の重層性・特殊性を可能にした因子である。
   《参照》   『日本人はなぜ国際人になれないのか』 榊原英資 (東洋経済新報社) 《前編》
             【矛盾するものを両立させる日本】

 このような包容力のある言語体系を自在に使いこなしている日本人の日本語文化が、並のものであるわけがないのである。
 ところで、表意文字である漢字を除外し、言霊としての日本語の音だけを取り出してみても、50音(5×10)のテーブル(表)に秩序だって納まる日本語の音韻構造は、自ずと高度な階層性・整合性をもっていることを示しているのである。このことがもつ科学性(または謎めいた神秘性)は、下記著作内にいろいろ示されていた。
   《参照》   『言霊はこうして実現する』 大野靖志 〈七沢賢治〉 (文芸社)

 

 

【敬語は、「和」と「愛」の精神の表れ】
 日本ほど敬語が発達している国はない。身分や階級が違うから上の身分や階級に敬語を使うというのではなく、お互いに対する敬意、距離のとり方ということを考えて敬語を使うのである。敬語も「和」の精神の表れの一つであろう。(p.193-194)
 下記のリンクによれば、「尊敬」の前にあったのは「敬愛」であり、さらには「親愛」であったことになる。「愛」は自ずからなる「和」を醸し出す大元だろう。また、「愛は尊敬がなくては生じない」とも書かれている。そうであるなら、敬語の母体は愛だと言い得るだろう。
   《参照》   『日本人の忘れもの』 中西進 ウェッジ 《前編》
             【日本語の敬語】

 敬語は立体的な言語空間を形成するがゆえに、重層的で豊饒な文化を生む母体ともなる。つまり、日本文化の重層性・豊饒性は、敬語の母体である愛によって生み出されているとも言えるだろう。
 日本語の50音は「あ・い(愛)」という母音で始まっている。
 日本語の原点に返ってみれば、「敬語は封建的な上下関係を押しつけるもの」という解釈は出鱈目であることがよく分かるだろう。
 
 
<了>