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 清掃をどう捉えるのか、様々な理解の仕方がある。
 「欠点是正という視点」 で考えるのか、「肯定的な視点」 で評価するのか、あるいは、「 『道』 という視点」 で捉えるのか。

 

 

【掃除を極めれば 『道』 に通ず】
 株式会社ローヤル(イエローハット)の鍵山秀三郎社長や松下幸之助氏の域にまで達すれば、清掃は単なる清掃ではなく、もはや 『道』 ではないか ------、と私は常々思っている。   (p.215)
 これに類する私見は、『志のみ持参』 上甲晃 (致知出版) に書いている。
 何であれ 『道』 にしてしまう日本文化で言うところの 『道』 というのは、“最低点と最高点をつなぐ方法” と簡単に考えると分りやすいかもしれない。
 人間の祖先は神であったとする 『古事記』 の物語を素直に受け入れることができる人ならば、“最底辺で民衆を救う 「お地蔵様」 は、「国祖・国常立大神」 の化身である” という話だけで全てを了解することができるだろう。
 「国祖・国常立大神???」 という人はおそらく 「清掃は教育ではない」 という校長のような人々なのだろう。教養がなさすぎるのである。
 あるいは、「そんな荒唐無稽な話は信じられない」 という人は、ディズニーランドの清掃方式で臨めばいい。

 

 

【「清掃は教育ではない」という校長との大論争】
 著者がPTAの会長をしていた時、定例役員会で一人の役員が言ったことから始まった。
 「近頃、学校のトイレのあたりが臭くて仕方がない。ひょっとしたらトイレ清掃をしてないのではないか」
・ ・・(中略)・・・、みんなでトイレ見学をした。
 案の定、学校のトイレはなるほど臭かった。事情を聞いてみようと言うことで、校長室に行ってみた。
 「臭いですか。それなら、私が薬をまいてきます。いつも消臭剤をまいているんですけどね。校長はアパートの管理人と同じですから、おっしゃられたら何でもやらせていただきますヨ」   (p.192)
 先の読書記録、『「壊れ窓理論」の経営学』 に書いたように、豊島区巣鴨図書館のトイレの悪臭について涌井館長という方と電話で話したら、ここに書かれている校長と同じように、「自分で清掃する」 とは決して言わずに、「消臭剤を置く」 と言っていた。
 この会話の後、図書館に行ってみると、消臭元という市販品が3本、フェルト部分を最大限に引き出された状態で置かれていたから、トイレに入った瞬間は芳香を感じるけれど、暫くしてその芳香に馴れてしまうと悪臭が鼻を突き、決して清掃されていないことが分る状態である。(悪臭が消えないのは、便器だけ清掃しても、床面を清掃しないからである)
 豊島区長宛の意見メールがインターネット上に開設されていたから、巣鴨図書館トイレに関する状況を書いて、要・返信メールとしておいたけれど、なしのつぶてである。豊島区はトップからして上っ面だけの偽善者なのだろう。完全に「壊れ窓」 化していると結論づけざるを得ない。やはり、公務員はどこまでも公務員である。
 

【東京ディズニーランドの清掃】
 およそサービス業のなかで、東京ディズニーランドほど清掃を重視しているところはない。・・・(中略)・・・清掃を徹底することで、清々しくて、明るくて、夢と心地よさを感じる基礎を固めた東京ディズニーランドは、大人も子どもも楽しめるテーマパークとして定着したのだ。 (p.116)
 清掃に限らないことだが、東京ディズニーランドが成功した知られざる大きな要因として、日頃は日陰の仕事とされているものに光りをあて、輝かせたことが挙げられる。影に追いやられていた仕事に正当な評価をあたえ、輝くものにしたおかげで、ほかのものがもっと輝くようになったのである。 (p.130)
 600人のキャストーディアル(清掃担当スタッフ)が、300人ずつ交代で、自分のエリアを15分毎に必ず回っている。キャストーディアルという名称は「清掃」という意を一切もっていない。「(迷子の)保護」という意味である。経営する上で清掃要員を、あえてそのように名付けることで、スタッフの意識を変えている。
 ディズニーランドは夢の空間を演出するエンターテイメントなのだから清掃は当然、と考えるのでは意味がない。地球上に平和な世界が実現してゆく将来のモデルケースの一つがディズニーランドとして示されていると考えるべきだろう。
 人はすべからく夢とロマンに満ちた清らかなものを希求するもの。この欲求に即して行動しようとするならば、人は平和と繁栄を兼ね備えた未来へと向かう潮流の中にある。
 
<了>