副題に 「翻訳文化大国の蹉跌」 とあるけれど、翻訳文化と言うのは功罪相半ばする面がある。功の部分は良いにしても、罪の部分つまり蹉跌となっている面は知っておいた方がいい。明治以降、当時の先進国の書物を翻訳して漢字に置き換えてきた日本はアジアの先進国となったけれど、意外にも他のアジア諸国は日本と同じような経路を辿っていないのである。
日本とタイの2カ国で行われる会議を、英語は使わずに日本語とタイ語でしようということになっていた。
タイをはじめ東南アジアの国々には、日本語ほど多くの翻訳語はないようなのです。近代以降移入された欧米の学問や技術は、外国語(英語)で語らざるをえないということなのでした。東南アジアの知識人のほとんどは英語やフランス語を理解し、喋ります。外国語なしには、新しい外国の知識や技術について語れないのです。(p.23)
一方、アジア諸国は、日本が翻訳語を生み出していた期間、旧態依然たる状態にあったか欧米の植民地になっていたのであり、外国の支配階級に関わった人々は、直接に外国語を習うことになった。故にアジア諸国の知識階級は、今日でも外国語から直接に欧米の概念を受け取っている。翻訳語を持たない故に、外国語を話せない民間人の知的水準は、日本に比べて決して高くないけれど、国家を指導する知識層の外国語能力は高い。
これが、相対的に見えてくる 「翻訳文化大国・日本の功罪」 である。
外国人と直接話す機会が多い著者は、「日本の英語教育は翻訳教育の延長になっている。語学教育でなければいけない」 と言っているのだけれど、単に語学音痴のマイナス面を指摘して言っているだけではない。翻訳で読んだ場合と原語で読んだ場合、殆どと言っていいほど違った印象を持つものであり、単語においてすら翻訳語に置き換えられてしまった場合のズレ(誤差)が、理解や意志疎通を阻害することがありうるのである。
特定の概念用語が組み合わせられた日本語の単語であっても、原語と対比すると以下のような状況である。
谷崎純一郎の 『文章読本』 の中から引用した後、著者はこう述べている。
《参照》 『「無邪気な脳」で仕事をする』 黒川伊保子・古森剛 (ファーストプレス) 《後編》
【 「母音系アナログの日本語」 と 「子音系デジタルの英語」 】
【日本語と脳】
大江健三郎の文学を、日本人がそれほど感心しないのは、世界を意識した言語体系に関係している。
《参照》 『同じ年に生まれて』 小澤征爾・大江健三郎 (中公文庫)
【大江文学】
大学生の頃、サリンジャーの 『ライ麦畑でつかまえて』 を原語で読みかけたことがある。しかし、最初の3ページほどを読んでから野崎孝さんの訳に照らしてみたら、とても同じ作品とは思えず、ショックのあまり止めてしまったことがあった。自分自身の悲惨な語学力もさることながら、小説の翻訳は、それはもう訳者自身の文学になっているという面は非常に大きい。訳者が誰であるかを問わない。これは確かなことである。
概念用語という一単語においてであれ、文章においてであれ、作品においてであれ、完全な翻訳などと言うものはあり得ない。言葉という文化の壁は、意外に大きいのである。
山折哲夫著 『空海の企て』(角川選書)からの引用。
「それが空海以後、結果として宮廷政治の改革をうながし、摂関政治への地ならをしていく。天皇権威と政治権力の二元体制の原型が、それを契機にかたちをなしてくる。 『象徴』 天皇制の誕生である」 (p.59)
密教は中国を経由して伝わった外来仏教の一宗派だから、空海による日本古来の神道との組み合わせは、 “和漢折衷” である。これは平安時代の出来事であるけれど、明治に至って学術・技術などを中心に様々な “和洋折衷” が行われたことはいうまでもない。
日本は、西洋のように教皇の権威と国王の権力が対立することはなかった。権威と権力は一者によって保持されねばならないとは考えないのである。
《参照》 日本文化講座 ⑤ 【 言霊・天皇 】
【政治と宗教、権力と権威を分離した安定的統治機構】
日本は、対立し矛盾したものを抱えたまま日本の中に組み込んでしまうという、他の諸国にはありえない不思議な文化特性を持っている。このような折衷様式を西田幾多郎は 『絶対矛盾的自己同一』 と言っている。この視点によって日本を見る西田哲学の確かさは、以下のリンク先の中にも示されている。
《参照》 『新ミレニアムの科学原理』 実藤遠 (東明社) 《後編》
【西田哲学の弁証法】
ルース・ベネディクトの 『菊と刀』 に記述されている、日本人の人間性における二面性も、 『絶対矛盾的自己同一』 という原理下にある日本人の特性といえるのだろう。
《参照》 『日本人の「覚悟」』 日下公人 (祥伝社)
【ものごとを割り切っているほうが低級なのだ】
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