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 利休鼠というのだろう、日本文化を意識した色彩の表紙である。2009年5月初版。

 

 

【エリート今昔】
 そもそも明治時代は、旧制中学は各県にひとつだけだった。だから旧制中学に入学した学生は、もうその時点でエリートの気概を持たなければいけなかった。(p.23)
 昔は 「日本のために頑張って難しい勉強をしてくれ。おまえは何でも頭にスッスッと入る人間だから、難しい勉強を専門にやって、日本を欧米に負けない国にしてくれ」 と期待された。
・・・(中略)・・・ 。
 しかし今のエリートは、地域の嫌われ者になってしまった。地域を踏み台にして東京や京都に出ていき、自分だけが偉くなる。勉強の成果を社会に還元しない個人主義者では嫌われるのも当然である。(p.24)
「国のために」 という表現は、国民を戦争に駆り立てた表現として使われていたようだから、戦後は特にそのような表現は忌避されていたのかもしれない。私の記憶では、小中高大学を通じて 「国のために」 という表現をしていた人など一人もいない。大学を卒業して地元に戻っている地方公務員だって自分の生活があるだけで、地方の発展など一切真剣に考えてなどいないだろう。総じて日本人から  ”日本人の「覚悟」” が消えているのである。
 
 
【俗信こそが最高である】
 源流としてのインド仏教と日本仏教はだいぶ違ったものになっていることについて、
 日本的俗信の混入による変化なのかもしれない。だから最高の教えなのか最低なのかはよく分からないが、私は日本人にとってはこれが最高だと思っている。
 日本人の常識の芯は、いわゆる教義やイデオロギーや論理的な心理を超えたところにあると思う。(p.78)
 近代科学の発展を支えた論理性や思想的イデオロギーや宗教的教義というのが海外から流入しても、日本人は、不適切なものは部分的に削除し、日本人自らの生活経験に照らして合うように変容させてきた。英国も、大陸で生じていた知性万能主義の弊害を知るに及んで、経験主義をもってのぞみバランスをとってきたことは日本に似ている。しかし日本は英国よりはるかに、取り込み方が柔軟であった。そこに日本の特性がある。
   《参照》   『日本史の法則』 渡部昇一 (詳伝社)
              【西欧における、知性万能主義 VS 経験主義 】

 日下さんが俗信といっているものは、言うならば、仏教が流入する以前の日本人の生き方の中にあったものであり、後に仏教に対比して神道と言われるようになった日本人の生活基盤をなすものだろう。日本人の俗信とは “柔よく剛を制する” ものであり、もっと極端な言い方で表現すれば、教義だとかイデオロギーだとか論理的だとかの限定を排する “タブーのなさ” なのだろう。俗信的神道というのは、そういうものなのだと思っている。
   《参照》   『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』 杉山知之 (祥伝社) 《前編》
             【日本マンガが海外で価値を持った理由:タブーのなさ】
   《参照》   『「脱亜超欧」へ向けて』 呉善花 (三交社)

 

 

【「みんな一緒である」】
 地方の神社でよく見かける行事だが、大きな箸を持った氏子が神前で丼飯を食べたりする。神様も一緒になって丼飯を食べているのである。こうした行事の由来や意味を、日本人はきちんと説明するとよい。
「神と人間を一緒にするなど、曖昧すぎる」 というのはヨーロッパの見方で、ヨーロッパ言語を使っていると自然にそう考えるようになる。インド言語でも中国言語でも、これらの言語は何事においても分析的で、事物事象を分析・分類したうえで論を立てている。しかし当然、分析しきれずに困ることがたくさんある。それが行き詰まったところで、そうした思想がいよいよ日本に伝わると、日本人は一刀両断の答えを出してしまう。
「みんな一緒である」 と。
 生死一如、神人合一、人間と動物も同じ、さらには自然の岩石であっても同じ。生命のあるなしにかかわらず、すべてに仏性があるとする思想を生みだすまでに日本は至った。
 議論のために分類していたものから、区別を取り去ってしまった。すると議論の必要性がなくなって居心地がよくなる。角が取れて丸くなる。その象徴が日の丸だと思う。(p.92)
 企業のロゴマークも、経営が順調になれば次第に角が取れ丸に近づいてくる。トヨタ、マツダ、インテルなどがその例であり、逆に傾くと、鶴が羽を広げて丸くなっていたJALのロゴは、角ばったゴシック体だけになった。
 余談になるが、鋭角的なマークになった日本航空は、経営再建を牽引する西松遥社長がCNNで紹介されたところ、アメリカで大絶賛された。
 それというのも西松社長の年収は960万円で、都バスを使い一般のサラリーマンと同じように出勤している。 ・・・(中略)・・・ 。その質素倹約ぶりが、経営不振にもかかわらず自家用ジェットで政府との交渉に訪れる、米自動車大手(ビッグスリー)のCEOたちと対比された。アメリカ国民は 「ビックスリーのCEOはニシマツを見習え」 と合唱したのである。
 さらに余談を付け加えると、ビッグスリーの一角であるGMのリチャード・ワゴナー前会長兼CEOの年収(2008)は、約5億3500万円だった。西松社長の55年分である。(p.95)
 ニッサンもソニーも外国人がトップになると、日本人的経営感覚の箍が、 “緩む” というより “切れる”。
   《参照》   『ぼくたちは、銀行を作った』 十時裕樹 (集英社インターナショナル)
             【ゴーン似の著者】 & 《追記》

 欧米の経営観からいって 「みんな一緒である」 などという概念などあり得ないのである。日本に欧米的な経営観を持ちこむことほど日本を狂わせるものはない。そもそも欧米の経営者に 「国のため」 と考えるエリート意識など最初からないのである。
   《参照》   『サハラの果てに』 小滝透 (時事通信社) 《後編》
             【定着社会の富と遊牧社会の富】

 

 

【日本発のアニメ】
 韓国でも中国でも、ピクチュアは真似できるが、現代的なキャラクターは自分たちでは創造できないと言っている。つまり、日本社会がすでに実現している複雑さ、自由さ、活発さ、明るさ、情愛の深さなどは、一朝一夕に真似できないと言っているのである。
 日本人には当たり前のことが魅力になっている。これは 「文明の時代」 から 「文化の時代」 へ世界が移行しつつあるとも言える。文明の時代の秩序は契約と法治だが、文化の時代の秩序は、譲り合いっとか、徳による感化とか、美を尊ぶ品性とかによって実現するもので、それらが日本の芯に顕在である限り日本からの発信は続くのである。
 こうして友だちづくり、仲間づくりを身に付けた日本人は、共同体の中で認め合い、協力したり切磋琢磨し、世界に対して真善美を教えている。(p.98)
 最近、深夜のテレビで放映しているアニメを見ることがある。柳生十兵衛云々と剣豪の名を語りながら、とんでもなくエロティックな半裸の少女達が格闘しつつ、最後は日本人の優しさや侍の心を語っているのである。
 アニメ制作者の皆さんは、タブーなき構成によって日本人の心を語る。こんなことは普通にまともな日本人のオジさん達には思いもつかない。「このようにして、世界は日本化されるのだなぁ・・・」 と、やや当惑しつつ、称賛しているのである。

 

 

【ものごとを割り切っているほうが低級なのだ】
 歴史の浅い国の人間から、日本人は曖昧だと批判されるが、それは見当違いである。日本人は長い歴史と豊かな体験から、さまざまな考え方ができるのである。「日本人としては意図的に曖昧にしているわけではない。あなたがたのようにものごとを割り切っているほうが低級なのだ」 と言い返せばよい。(p.117)
   《参照》   『顔相と日本人』 坂元宇一郎 (サイマル出版) 《前編》
             【両極を併せ持つ日本人】

 

 

【ロシアを敗北させた日本の省エネ生活】
 “日本は「新しい戦争」に勝つ” と題された章の中に記述されているものである。
 かつて私は、モスクワ大学経済学部を講義で訪れた際、経済学部長をはじめ教授達と懇談したことがある。 ・・・(中略)・・・ 。その時にロシア側が異口同音に言っていたのは 「われわれが負けた相手はレーガンではない。日本の省エネ技術と省エネ生活に負けたのだ」 ということであった。(p.221)
 オイルショックの頃(1970年代前半)、世界一の石油生産量を誇っていたのは中東の国々ではなくソビエトだった。ところが当時成長著しかった日本が省エネ技術を確立し 「エネルギー使用量は増えないが成長する国」 に生まれ変わってしまったので、世界の石油需要予測が崩れロシアを崩壊させる大きな要因になったというのである。
 少ない元手を有効利用して慎ましく効率よく生きるのが日本人本来のエコ生活観だった。あるからといってジャブジャブ使うのは成り金的な野放図な愚かさのなせる業である。そのような日常生活者は、本来的に日本人の精神性を有しているとは言えない。
 日常生活の冷暖房において今日の日本人は成り金的消費傾向になっている。省エネに努力しているのは企業だけで、日常生活者の感覚はずれたままになっているのではないだろうか。そのうち地球はドラスティックな環境変化に見舞われることになる。日本人としての芯を有さぬ愚かな日常生活者は、生き残るために愚かさに輪をかけて略奪でも人殺しでも平気でおっぱじめることだろう。