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 大学教授をしながら日本に長年住んだ後、故国イングランドに帰った著者が、置き土産のように書き遺していった日本文学に関する著作である。ちょっと辛口。1995年1月初版。

 

 

【海外で売れない日本文学】
 それにしても、大国日本の文学は、海外ではあまり読まれていない。(p.22)
 日本で30万部のベストセラーとなり、著者が翻訳し激賞していた丸谷才一の 『たった一人の反乱』 は、1年間で1600部の売り上げだったそうである。
 村上春樹の 『羊をめぐる冒険』 が英語に翻訳されて、何万部かの売り上げを記録している。
 三年ほど前のシンポジウムに出席したとき、ある出版社の人からそんな話を聞いて、私は 「嘘だ」 と直観した。 ・・・(中略)・・・ 。
 後でわかったことだが、出版関係者の言ったことは嘘ではなかった。ただし、英訳された 『羊をめぐる冒険』 を買った人の9割以上は日本人だった。つまり海外ではなく、日本の書店で売れたのである。村上春樹ファン、おそらく若い女性ファンが、英語の勉強のために勝ったに違いない。
 欧米で売れたのは2,3千部というところだろう。この数字は、小説としては悪くない。しかし、村上春樹という名前を海外で有名にするところまではいかない数字である。(p.24-25)
 ふ~~~ん、そんなもんなんだぁ。
 ついでに、川端康成のノーベル文学賞は政治的なできごとであったことが書かれているけれど、これはいろんな本に書かれていて衆知のことである。

 

 

【著者の日本文学観】
 過去や伝統といったものの占める領土をどんどんと縮小し、あるいは空白化してきた歴史が、日本文学の歴史だと、私は思っている。(p.73)
 近代以降、日本文学はカインと同じような道を辿っているように思えてならない。今の日本文学が、近代に比べて劣るものであることは、だれもが認めるだろう。西洋文学をめざせばエデンが見つかると信じ、自らの伝統を殺し、日本文学を不毛なものにしてしまったのである。
 古い伝統を殺しても、大地に実は結ばず、収穫は得られない。現代の作家たちは、いくら耕しても実を結ばないことを知って、耕すことをやめ、エデンの東で放浪している。そんな彼らの身には、アベルの血の叫びすら届かない。
  ・・・(中略)・・・ 日本文学は、世界のなかで孤独な放浪者として完全に孤立している。(p.47-48)

 

 

【著者が考える東洋文学のすばらしさ】
 東洋文学のすばらしさは、「深み」 のないところにあると私は考えている。俳句や漢詩がまさにそうだが、表現で深みを出そうとするのではなく、深みのある事象を繊細な感受性でとらえ、それをそのまま表現するところがすばらしい。後期の漱石をはじめ、近代文学の作家たちにはそれがない。だから面白くないのである。(p.86)
 文字数が多くならざるをえない小説で、俳句や和歌と同じような効果をもつ作品が可能なのだろうか? と危惧するけれど、著者は、小説に 「俳句の心境」 を求めているのである。
 志賀直哉の短編に 『焚火』 がある。芥川龍之介が 「純粋な小説」 として高く評価した作品である。
 芥川が讃えるだけあって、 『焚火』 はたしかに、うまく書けている。久米正雄が言うところの、俳人が詠む時の様な心境が描かれていると言われれば、そうかもしれないと思う。しかし、芥川が影響され、讃えるほどの作品かどうか。俳句の心境、すなわち、日本の伝統的な感受性が活きている作品かどうか。私には大いに疑問なのである。(p.161)
 この 『焚火』 という作品、実家の壁を飾っている日本文学全集の中に収録されていた。わずか6頁ほどの超短編だったので読んでみたけれど、芥川は一体全体この作品のどこに讃えるべき内容を見出したというのだろう。かいもく見当がつかない。
 自我の存在を強く意識しながらも、それを超越しようとするのが仏教の思想であり、それが俳句に限らず、 『方丈記』 や 『徒然草』 などの日本の古典文学には生きている。作家のつまらない自我が目立ったり、嫌味を感じたりしないのはそのためである。
 日本の古典文学は、形のうえでは、トルストイやドストエフスキーのようなスケールの大きさはない。だが、人々がそこから得られる精神世界は、とてつもなくスケールの大きなものだ。それが日本の古典文学の素晴らしさである。(p.164)
 このあと、志賀直哉の 『焚火』 には、日本の古典文学が持っているような 「心境」 が生きているとは言えない、と書かれている。つまり、近代文学も既に衰退していたと。

 

 

【告白する自我】
 なぜ 「告白」 が、日本の自然主義者たちにとって、ここまで大きな位置を占めるようになったのだろうか。
 それはとりもなおさず、「自己」 「自我」 という西洋の概念が、過去を捨てて近代化の道をつき進もうとしていた明治期の作家たちにとって、きわめて画期的で魅力的なものだったからだ。(p.150)
 中心となる自我を定めて、外へ向かわなければ帝国主義の時代の脅威から日本を守れなかった明治以後の時代。そんな時代背景から、日本の文学が影響を免れるわけはない。
 東洋の素晴らしさは、ともかく一旦は棚上げにされねばならなかったのであろうし、西洋から輸入された自我に則して、とにかく何かしら語り出さなければならなかったのである。
 もともと内向的で恥を重んじる奥ゆかしい日本人の精神が “私” を語ろうとすれば、それは、婉曲な告白か、決して全てをさらけ出さない仮面の告白となったのであろう。
 そんなやむを得ない時代の影響ゆえの紆余曲折などを経て、現在の日本の文学が何か光芒を掴んでいるかといえば、それらしき気配すら感じられないというのが、大方の意見なのだろう。
 著者に言わせれば、そうであって当然ということになる。

 

 

【日本人の精神を支えているもの】
 人間を支えているのは、個々の精神生活である。精神生活が充実していれば、社会がどのような状況になっても、物質面で貧しくなっても、豊かな精神ももちつづけることができる。日本人に、それができるのだろうか。
 今のままでは、むずかしいと思う。
 日本は経済重視政策によって物質面では輸出大国となった。だが、その分、あまりにも精神面をおろそかにしてきた。その結果、精神面では他に類を見ない輸入大国である。文学や音楽だけではない。民主主義、自由、人間愛、貢献、国際化、環境(問題)。日本には西洋の価値観が溢れている。
 輸入の価値観は、心を支えてはくれない。精神の安定は得られず、とげとげしいものとなるだろう。人々の精神は動揺しやすく、他人にやさしくなれず、人間関係もぎくしゃくしてくる。人々の精神生活は寒々としたものとなり、社会全体が殺伐としてくる可能性がある。 (p.190)
 では、どうすればいいのか。
 明治期に否定された価値観やことばが生きる古典文学こそ、日本がもどるべき伝統文学である。(p.184)
 そんなこといたって、乖離が大きくなるだけだろう。

 

<了>