《前編》 より

 

 

【韓国人の自然観】
呉  韓国人の自然観は、具体的・実際的な自然のあり方から離れた、きわめて人工的で理念的なものなんです。たとえば日本人は、美術的な作品では左右非対称な歪みやズレを好み、素材のもつ特性を生かした美を好む傾向が強いですね。それは自然の具体的なあり方に美を感じているからといえます。それに対して韓国では、理念的なすきまのない整然たる統一的な形が好まれ、素材のもつ特性を排除した人工的に完成された美が好まれます。たとえば、どこまでも完璧に磨き抜かれたようなツルツルの肌を持つ李朝白磁、これはこの世のものとは思えない、自然のどこを探してもありえない、そういう美として好まれます。韓国で整形美容が異常なほど盛んなのも、一つにはそのためです。
竹田  なるほど、そうですか。(p.106-107)
 かつて日本人たちは、朝鮮の陶工の作品を称賛し日本へ連れてきたりしているけれど、そういった陶磁器を愛でる日本人の美意識は、韓国人の美意識に重なっていない。韓国では王族が所有するような白磁の美が希求されつつも、そこに達し得ぬ庶民が使っていた陶磁器に、日本人は美を見出していたのである。
 日本人は韓国人がさして価値を認めていなかった陶磁器文化を破壊したのではなく、日本に技術を移して守りつつ発展させてきたというのが史実だろう。
   《参照》   『韓国人のまっかなホント』 金両基 (マクミラン・ランゲージハウス)
             【 「アイゴ」 と叫び慟哭する韓国人】

 

 

【日本は心理的には女性優位な社会である】
呉 多くの日本人に、韓国のように男が主体で女が補助だという感覚がないんですね。仕事などでは、男が主体で女が補助になっていることがかなりあるとしても、共同体社会全体のあり方はそうではありません。それどころか、心理的には圧倒的に女性優位なんですよ、日本では。
 戦後民主主義が進んでそうなったとは思えません。なぜかというと、女性優位の心理が日常習慣、社会習慣にしっかり染み込んでいるからです。わたしなりの体験からいいますと、欧米社会は女性を尊重するとは言っても、精神的には明らかに男性優位の男権社会ですよ。欧米の女性は、心理的に男性(父)になることによってしか、社会的な自立感覚を得るのが難しいんです。欧米では、母性よりは父性が圧倒的に優位なキリスト教父権社会の伝統がいまなお優勢ですね。
 欧米人も韓国人も父親コンプレックスを抱えるのが普通ですが、日本人は逆に母親コンプレックスを抱え込んでいると思えるんです。やはり日本は父なる国というよりは母なる国だと感じます。(p.138-139)
   《参照》   『なぜ勉強するのか?』 鈴木光司 (ソフトバンク新書)
              【もともと母性的な日本社会】
 日本人女性の心理的優位は、財布を握っていることによるのだろう。
   《参照》   『お金の正体』 日下公人 (KKベストセラーズ)
             【働く動機】
             【欧米人には驚天動地の大革命】
 呉善花さんが書いているように、これほど女性優位の国でありながら、男尊女卑という封建的な悪弊を語ってきた積年の中核的勢力というのは、戦後日本に居残った在日韓国人女性達及びその子孫達なのではないだろうか。
 戦争の時代は、力がものを言う男たちの縦の力関係が整然と機能しなければ軍体機能を維持できなかったから、封建的なマイナス面が出ざるを得なかった。それはやむを得ない時代状況だったのである。戦後はそんな状況に乗じて日本文化の基盤を破壊するために民主主義が語られたから、封建的な男尊女卑という考え方が自動的に浮き彫りにされたのだろう。しかし、明治維新から世界大戦の時代以前の日本の文献を散見するところでは、日本において女性が虐げられていたという解釈は決して正しいものではないように思えてしかたがないのである。
   《参照》   『女のいない世の中なんて』 薮田貫 (フォーラム・A)
            【「人生双六」にみる江戸時代の女性】
            【旅日記からの発見】
 呉善花さんの上記の発言は、日本文化の底流を正しく語っている筈である。文化の底流は時代が変わったからといってそうそう簡単に流れを変えるものではないだろうから、心理的に女性優位社会に生きていながら、「産む」性を放棄して仕事で何ものかを「生む」ことを優先した日本人女性達は、結果的に大層な喪失感を抱いているだろうし、仕事に置いて何ものかを「生む」機会のなくなった日本人男性たちも同様に感じているはずである。
 とはいえ、融合・融和・和を基調とするアクエリアン・エイジの潮流に乗って、海外と較べれば昔からはるかに尊重されていた日本人女性達が、今後はさらに世界の最前線に躍り出て、日本文化を世界に浸透させてゆく役割を担いもするはずである。

 

 

【渡来技術ではない】
呉  1999年に富山県の桜町遺跡から、約四千年前の巨大な高床式建物の柱と見られる木材が多数発見されましたが、そこに見られる木材を組み立てるのに使われた工法は、それまでは法隆寺に見られるのが最古とされていたものだということです。この発見でこうした工法技術は渡来技術ではなく、日本起源のもので縄文時代からあることがわかってきました。(p.157)
 白山・飛騨・高山一帯は、『竹内文書』 に記述されている皇祖皇大神宮の舞台でもあるから、長きにわたって腐敗せずに残っているなら、いくらでも出てくるはずである。
   《参照》   『言霊で解くミロクの大原理』 福島教義 たま出版
             【皇祖皇大神宮という存在】

 

 

【「かかあ天下」のもとでの「亭主関白」】
呉  こうした日本的な夫婦の関係は、女は自然(神)の側に属していて、男は社会の側に属しているという感じです。さらにいえば、女は自然(神)に感応して「あちら側」からの観点を示し、男はそれを「地上の言葉」に「翻訳」して社会の実際に役立たせるという、そういう古い時代からの巫女と男性神主のような関係にとてもよく似ていると思います。(p.166)
呉  オカミさん文化は、女だからこその文化なんです。やはり母性尊重とか女神への憧れとかに由来する女の力、女の霊力への尊崇とか尊重とかいうものがあるんでしょうね。(p.170)
 日本文化と日本神霊界の深みを知悉し踏襲しているシャーマンさんも、そう言っている。
   《参照》   『人類が生まれた秘密をあかす』 深見東州 たちばな出版
             【お姫様】

 

 

【一元と多元】
欧米、中国、韓国に共通しているのは、一元的な発想が強くて多元性に乏しいということです。しかも、強固な一本の軸にとらわれていますから応用がなかなかきかない。応用技術がかなり貧困です。それに対して日本人の発想はきわめて多元的です。軸がいくつもあるんですね。だから、さまざまな試みを多面的にやってのけることができる。 ・・・(中略)・・・ 。日本が応用技術に優れているのは、一つにはとても実際的な現場主義があるからだと思いますが、一つの軸にとらわれることなくいろいろと柔軟な発想をすることができるからだと思います。(p.177-178)
 多元性の乏しさ。これこそ、一神教的文化の呪縛である。
    《参照》   『海馬 脳はつかれない』 糸井重里・池谷裕二 朝日出版社
           【多様性こそ力である。  多様性 VS 一元性  韓国に附ける薬は? 】

 

 

【日本人には自己がない】
呉  ベネディクトがいっていることは、「恥の文化」についていう限りでは、結局のところ、日本人は主体性がない、自己がない、まるで風見鶏みたいだといった俗説とそんなに変わりはないんです。日本的な自己というものが、彼女にはやはり見えていないんだと思います。日本的な自己は、ベネディクトがいうような共同体社会の外圧に従ってそのつど決定される自己ではないですよ。日本人は環境の変化に応じて自己を限定するんです。そうやってそのつど自己をつくっていくんです。燃え盛る火に応じてはそれと向き合うにふさわしい自己となり、静かな清流に応じてはそれと向き合うにふさわしい自己となる。それが日本人だと思います。(p.201-202)
 無矛盾を強要する思考傾向のある西洋人に対しては、あえて日本文化と日本人の特性を「絶対矛盾的自己同一」という定義で提示してしまえば、分かりやすいかもしれないけれど、呉善花さんが書いているこの記述の方が、多くの日本人にとっては分かりやすいし納得しやすいだろう。要は対外的に個人を主張して屹立させるのではなく、それぞれが外的事象を内面的に吸収し臨むというのが日本人のやり方なのだろう。
   《参照》   『日本人の「覚悟」』 日下公人 (祥伝社)
             【ものごとを割り切っているほうが低級なのだ】
   《参照》   『日本人はなぜ国際人になれないのか』 榊原英資 (東洋経済新報社) 《前編》
             【日本の特性 : 『絶対矛盾的自己同一』 】
             【矛盾するものを両立させる日本】