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 現在の社会で生き残るために必要な生き方(学び方・教育法)について対談している。ビジネス書を著している多くの方々が押し並べて語っているのと同じ内容が、総合的・包括的にこの書籍の中で語られている。
 精神科医を本職とする和田さんの本はかつて読んだことがないけれど、榊原さんの考えによく呼応する内容を語っている。2004年7月初版。

 

 

【脱産業資本主義社会】
 アメリカの代表的企業の資産構成は、この20年間で大きく変わっています。20年前は70%が設備や工場などの有形資産だったのが、いまは逆に70%が無形資産になっている。
 無形資産というのは要するに技術でありブランド、データベースなどで、これはいまの話のままの状況です。(p.21)
 脱産業資本主義社会とは、資本を有する者から情報や技術などの知識を有する者へとアドバンテージが推移して行く社会をいう。社会に対する影響力の主体が、資本家から知識を持つ個人へと変化してきている。
 つまり、個人の知識ないし学習能力がダイレクトに生活に影響を及ぼす社会になってきているから、しっかりとした “本物の実力“ をつけるにはどうすればいいのか? が本書のテーマになっている。

 

 

【 『ケルン憲章 ――― 生涯学習の目的と希望』 】
 1999年6月にドイツのケルンで行われたサミットで出された宣言。
 「教育と生涯学習は、伝統的な工業化社会から顕在化しつつある知識社会への変容の中で柔軟性と変化に適応するために必要な 『流動性へのパスポート』 を個人に付与するもの」 (p.55)
 この中で語られている 「知識社会」 というのは、経営学の大家、P・F・ドラッカーが使った言葉として記述されているけれど、日本では30年ほど前に堺屋太一さんが 『知価革命』 という書籍の中で書いていたことである。

 

 

【 「知識社会」 が必要とする能力】
 いま求められている能力は、学歴という単なる肩書を指したものではなく、プラスアルファとして真の実力である。それを身につけるには、基礎的な知識を身につけ、さらに勉強を行う習慣を身につけて新しい知識をたえず取り入れる努力をしていなければならないのだ。 (p.64)
 ところが日本の学校教育は、 「ゆとり教育」 などといって、 “基礎的な知識“ どころか ”勉強を行う習慣を身につけさせる” ことすらないがしろにしてきた。
 つまり、日本の文部科学省は、世界の先進国が共通認識として宣言した 『ケルン憲章』 に逆行するかのような 「愚民」 を結果的に生産し続けてきたのである。
 知識もなく勉強する習慣のない人はこれからますます生きにくくなっていくことはまちがいない。(p.106)
 可哀そうに、「ゆとり教育」 で愚民として生産された多くの子供達は、「知識社会」 に直面して間もなくインセンティブ・ディバイド(意欲格差)の下辺側に墜落することだろう。
 著者のお二人は、公務員教師の資質に大いに疑問を抱いてもいる。実社会経験のない人々が教育に携わること自体に対する疑問のウエイトが大きいらしい。そもそも日本の教育を本気で大いに憂えているのは、経済界・産業界の人々である。「このままでは日本は国際競争に勝てなくなる」、という危機感を本気でもっているのである。ところが現場の公務員教師自体は “壊れたレコードのように毎年同じことを言っているだけの、勉強する習慣のない人々” が大方を占めていて、このような書籍を手にすることなどほとんどないのだろうから・・・・恐ろしく馬鹿げた構図である。

 

 

【日本の次世代リーダー養成塾】
 榊原さんが関与している、高校生対象の塾である。
 塾長はトヨタの奥田碩会長です。それから理事として経済同友会の代表幹事の北城恪太郎さんも入っている。なぜそういう人たちがリーダー養成塾のようなものに前向きかというと、「大学を出て会社に入ってくるいまの若い人たちはあまり使いものにならない」 というのを肌で感じているからです。(p.190)
 北城恪太郎さんは日本IBMの社長。

    《参照》   『日本IBM』 竹中誉  経済界

              【社員のマナー】

 

 

【専門家の大衆化】
 西部邁さんは皮肉って 「専門家の大衆化」 と言っていました。特定分野のことは詳しいけど広範な知識がないからものの判断は大衆と同じだという意味です。 (p.147)
 「知識社会」 が必要とするのはスペシャリストかジェネラリストか、という対比でいえば、目指すべきはジェネラリスティック・スペシャリスト(広範な知識を持った専門家)、ということになるのだろう。

 

 

【バイリンガル脳の言語中枢】
 医師の和田さんが興味深い臨床例を語っている。
 貿易の仕事で世界中を飛び回っていた人が脳卒中で失語症になったとき、なぜか英語の方はそうはならなかったんです。これは後天的に学ぶ言語の蓄えられる部分と先天的な言語の蓄えられる部分が言語中枢でもちがうということなのかもしれない。いずれにしても、ふたつの言葉を学ぶのは人間の脳の可能性を高めていると言えます。(p.75)
 この患者さんは日本人なのだろうけれど、これが日本語を話せる欧米人でも同じになるのだろうか? 欧米人の場合なら、両方消えてしまいそうに思えるのだけれど・・・。
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <前編>
            ■ 日本語と日本人の脳の特異性 ■

 

 

【翻訳書に恵まれ過ぎている日本】
 言語学では常識だけれど、異質な二つの言葉の間に1対1対応はありません。それぞれが違う文化を背景に持っているからで、そういう違う構造のものを同じと見ているからどうしても視野がせまくなってしまう。(p.76)
 お二人とも東大出の方なので、原書にあたって学ぶとこなど、あまりに基本的なことと心得ているのだろう。原書を読んだ場合と翻訳書を読んだ場合、大層異なった印象を受けることは大いにありうる。視野が狭くなるだけではなく、甚だしい場合には翻訳書に依拠する限り、日本人の多くが他国文化に関して延々と誤解を続けてしまっていることもあるのである。
   《参照》   『人生力が運を呼ぶ』 木田元・渡部昇一 (致知出版社)
            【デカルトの言う「理性」とは?】
            【翻訳の壁】

 

 

【「詰め込み教育」 肯定の論拠】
和田 : なぜ小さい頃は詰め込み教育がいいかというと、人間の記憶のシステムがそうなっているからです。子どもの頃は意味記憶という単純になにかを記憶する力が充実しているから、言語習得も含めて新しい知識を取り込むのに最適です。そのメリットを生かさない手はない。 (p.176)
和田 : だから小さい頃から多読の習慣をつけた方がいい。ところが、「ゆとり教育」 で逆に読む量を減らしているのだから話になりません。 (p.177)
榊原 : 知識を詰め込んだら創造力のある人間ができないなどというのは嘘っぱちです。古今東西の天才を見ればわかるように、天才というのは概して博学です。博学だからこそ新しい発想が出て来る。思いつきと創造力をごっちゃにしてはいけない。
和田 : 元首相の田中角栄さんだって尋常小学校にしか行っていないけど、独学で一級建築士の資格をとっている。つまり勉強しているわけです。どんな形であれ勉強していないと、やはりあそこまで賢くはなりません。(p.178)
 「詰め込み教育」 否定論者は、博学な知識がない人々であったことを証明している。声の大きい博学な知識のない一般人の見識に従っていると、日本の教育は崩壊してゆく。

 

 

【 「失敗」 大歓迎 】
 試行錯誤ができない人の中には、「やでばできる」 という状況を自己正当化の逃げ道として用意しているケースも多い。こういう人は自己愛が強くて傷つきやすく、それゆえに 「自分は創造力がない」 というのを絶対に認めたくないという無意識の本音によって行動していると考えられる。(p.164)

 なので、「やってみよう」 とすらしない。

 企業人は失敗を恐れない。というより、 「成功するまで失敗は続くもの」 と当たり前に考えている。大企業は20から30ほどの異なった分野の技術開発に常時資金を供給し、その中で1つが日の目を見れば、それで企業は維持できると合理的に採算を考えているからである。
 個人もこのような考え方を身に着けていればいいのに、失敗を恐れ、これができない人々が少なくない。そんなことでは、人生自体の意味がなくなってしまう。

 

 

【自己責任の名において両極から学ぶ】
 私は半年に一度ニューヨークに行きます。そのときにまず、モルガン・スタンレーのスティーブ・ローチという一番悲観的だといわれている人に会います。それからチェイスのリップスキーという超楽観論者にも会って、その間にいるいろんな人とも全部話をする。そのようにしないと、市場全体の動きが見えてこないのです。(p.138)
 思考がワンパターンになって、オール・オア・ナッシングになってしまうと失敗も許せなくなるでしょう。それでは何かに挑戦して、失敗を糧にそれを成し遂げていくということができなくなってしまうのは当たり前です。(p.139)
 両極及びその中間領域の様々な情報に接しておけば、仮に失敗したとしても軌道修正はしやすい。敵か味方かのようなバイアスをもって情報を取捨選択してしまいがちな日本人は失敗して茫然自失するだけである。
 そもそも正統教育学を履修してきた公務員教師は、自分で考えることなど放棄して時代の変化など殆ど関係ない内容を著わしているような教育学者の権威的著作から学んでいるだけらしい。それでは、学んでいる時点で既に現代という時代に乗り遅れである。
 先にも書いたように、日本の教育を大いに憂えているのはビジネス分野の人々である。教育学の権威が表す著作より、ビジネス書の中に記述されている教育を見る視点の方が、明らかに本質をついていて、具体的指摘にも満ちているはずである。
 同じ分野の両極の考え方から学ぶことも大切だけれど、異分野の考え方を積極的に取り入れて判断することも大切である。社外重役制度とか異業種コラボなど、ビジネスの分野ではこういったことも常識的なことである。
 だからこそ、榊原さんは教員資格制度の撤廃と社会人経験者の教員採用を推奨している。チャンちゃんも榊原さんに全く同感。
 
 
<了>