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 この本は、読者に大学生を想定しているのだろう。まさに、大学生が読んでおくべき大切な点がいくつも書かれている。日本人として国際社会で活躍してきた人ならではのジレンマが書かれているけれど、海外でのビジネスを経験したことのある人々ならこのようなジレンマを同様に抱えているはずである。ゆえに比較文化論としても読める。2008年12月初版。

 

 

【わからないことは聞いてみる】
 「何がわからないか」を知ることによって、はじめて “人に質問する” ということができるようになります。
 たとえば、現在の世界経済について、説明を受けたとします。何となくわかったような気はしているけれど、実はよく呑み込めていない。そこでさらに言葉を分析してみると、ある一つの言葉の意味を理解していないようです。 ・・・(中略)・・・ 。
 だいたい “専門用語” というものは、曖昧なことをごまかして説明するために使われることが多いもの。だから、わからなければ、遠慮せずにどんどん質問するべきです。(p.22-23)
 チャンちゃんは大学1年の時、同じアパートに住む先輩たちにいろんな話をしてもらって耳学問をしていたのだけれど、話の途中なのに、「すみません、○○の意味が分からないんですけど・・」と平気で割って入ったものである。すると「お前は、何にも知らないんだな」と笑いながら、チャンちゃんのために時間を割いて説明してくれたものである。話の腰を折ったら悪いからと遠慮していると、話がぜんぜん分からずその時間は無意味な時間になってしまう。ぼんやりとした理解は無意味なのである。だから、分からないことはすぐに聞いてみるなり、すぐに調べるべきなのである。
 私は、わからない言葉に遭遇したとき、必ず電子辞書を使ってそれを調べます。(p.26)
 分からない言葉を放置していたら、いつまでも愚かなままである。
   《参照》   『「本気」になって自分をぶつけてみよう』  小柴昌俊  三笠書房
             【「わからない」と思える能力】

 

 

【同質と異質】
 アメリカやインドのような多民族社会になると、それぞれの文化的背景から価値観が異なってきます。そこにはもはや皆に通用する「常識」や「絶対的な真理」というものは存在しません。
 だからディベートのように、相手と価値観が違っても、どうにか論理で納得させようとするコミュニケーションや思考法が発達するのです。「言わないでもわかってもらえる」といった以心伝心は、日本のような同質性の高い特殊な環境でないと成立しません。
 もちろん、以心伝心の背景には、相手の心を汲みとって理解するような優しさはあります。だから私は「それがいけない」などと否定するつもりは毛頭ありません。
 しかし、学問やビジネスの世界でのイノベーションというのは、いままでなかった異質なものと遭遇し、それによって「常識」や「絶対的な真理」を覆すことなのです。(p.53)
 異質に関する態度の違いは、国際的な文化間だけでなく、日本国内でも職種間・地域間にもあるだろう。地方は依然として異質を排除する顕著な同質社会である。IT系職業に従事している人にとっては、曖昧を許容していたらシステムが成り立たないから、明確でピンポイントなコミュニケーションが当たり前になるけれど、彼らにとって、地方都市の人々の集会というものは、トロトロとした形式ばかりの空虚な時間に思えて仕方がないのである。明らかに国内異文化空間が存在しているのである。
 イノベーション・改革・改善が当たり前と認識しているビジネスマンにとって、地方都市の慣習は、それらを頭から拒む悪習以外の何物でもないけれど、地方都市の人々にとっては、それにガタガタ言う奴は単なるウルサイ奴なのである。Uターンや I ターンしたビジネスマンが善意と思って容喙しても、結局のところ頑迷固陋な地方人の習慣に辟易して匙を投げてしまうだろう。地方は日本文化の欠点だけを肥大させ、政治的腐敗にドップリと浸かりながら継続されているだけで、そこに寄生する人々にはモラル感覚が全くないのである。故に、地方は公務員の利権だけを守り、民はひたすら困窮させて平気という、無惨な未来社会確定路線を走るだけである。

 

 

【常識に疑問を持つ】
 私たちは、科学的な事実にしろ、一般的に「正しい」と受け止められていることにしろ、常に “検証する” という態度をもっていなくてはなりません。
 しかし検証する前に重要なのは、やはり何度も言うように「それを疑いの目でもって見られるか」」ということ。同質性が高く多数の意見が絶対的なものになりやすい日本で “常識となっていることに疑問をもつ” ということは難しいかもしれませんがどうしても必要なことです。(p.57)
 イノベーション意識が身についているビジネスマンなら「常識を疑う」という姿勢は普通なのだけれど、一般人は、常識どころかルールも「ただただ守るべきもの」であって、いかなる疑いもまるっきり差し挟まない。
 日本人は、総じて本当に愚かになっている。
   《参照》   『苫米地式「幸せ脳」のつくり方』 苫米地英人 (イースト・プレス)
             【社会やルールという枷】

 

 

【仕事のできる集団】
 “好き嫌い” で人を集めると、たいてい相手は「仕事のできない人」ばかりだったり、あるいはゴマスリをする人ばかりの集団になってしまいます。 ・・・(中略)・・・ 。好きな人を集めたって、仕事のできる集団はつくれません。むしろ仕事のできる人には、イヤな奴と思われている人間が少なくないからです。 ・・・(中略)・・・ 心情的には、すり寄ってくる人をとにかく用いたくなりますが、抵抗する人間を用いたほうが実際は組織がうまくいくことが多いのです。(p.73)
 著者が大蔵省の金融局長をやっていた時は、堂々と異論を言う人と楽しく仕事をしていたと書かれている。
 ビジネス的な視点が常に保たれている人なら、異論・反論は当たり前に活用すべきものなのだけれど、そんな視点のない一般人は、相対的意見ですらも反論であり個人批判と取るのである。そんなキャパのちっちゃな人々は、畢竟するに自己防衛として「好き嫌い」の基準で周りを固めるのである。それでもってビジネス書なんて全然読まないんだろうから、組織が良くなるわけがないのである。
   《参照》   『途上国から見た日本』 小森毅 (文芸社) 《前編》
             【異質な人たちとの協働作業】

 IT系の現場なんて、異質を越えた奇人・変人の割合が高いはずである。彼らを排除してしまったら、企業は絶対に発展できない。このご時世にあって、“平凡でまじめが第一“ を社是としたまま存続できている企業は、おそらく特殊な環境下にあるのだろう。日本的な美徳観がそのまま活かせる環境は、残念ながら徐々に減っている。環境が変わっているのに自己変革しなくてよいと思っているなら、末路はおそらく滅びである。
 自分と意見がほぼ一致する人と議論しても仕方がない。選ぶべきは、違う意見をもっていて、しかもレベルの高い人になるわけです。これはしばしば、「イヤな奴」とか「あの人は苦手だなあ」と感じている対象になるでしょう。
 けれども、やはりそういう相手こそ貴重なのです。(p.170)

 だからこそ、本当は上の人間ほど、 “自分と合わない人” を大切にすべきなのです。画一的な組織や、 “気の合う人ばかり” の人間関係をつくってしまっては組織は次第に腐っていってしまうでしょう。(p.171)

 

 

【「考える力」は、異質な世界の人との出会いから】
 私自身の「考える力」には、そういう異質な世界の人との出会いが非常に大きな影響をもたらしているのです。
 自分と別の世界の人々と知り合い、異質な考え方に接すればするほど、脳も刺激されて「考える力」のバリエーションが増えていく、もっともっと多くの人がそういう発想をもてば、日本全体の幅が広がっていくことになるのでしょう。(p.178)
 ほんと、そうなれば日本はもっとずっと素晴らしい国になれるだろうに・・・・と思う。
   《参照》   『「個」を見つめるダイアローグ』  村上龍・伊藤穣一  ダイヤモンド社
             【世界を他人事にしない】

 チャンちゃんも職場やそれ以外で外国人に接する機会が多かったから、「考える力」が自然に高まったのだろう。それは確実である。間違いない。
   《参照》   『「反日」に狂う中国 「友好」とおもねる日本』 金文学 祥伝社 《後編》
               【ブタ鳥】

 このブログは、日本人がブタ鳥になってほしくないから、書き残すようになったのである。
 平均的な日本人ならおそらく、最初は異質なものに防御姿勢をとり、次に「バカバカしい」と否定的な断罪口調の表現をしつつ、それでもさらに異質なものに何度か接していると、今度は自分の考え方が自ずと変化するようになるのである。「バカバカしいのではなく、世界は、それぞれに違うのだ」という当たり前のことに気づけるようになるのである。そして、その先は、異文化発想の根幹に視点が向かい比較文化が面白いと思うようになり、最後に、翻って同質社会を抜け出ることができない日本人の頑迷固陋ぶりに、少々苛立つようになるのである。

 

 

【異質の延長としての異分野】
 『食がわかれば世界経済がわかる』 は食道楽がこうじて本まで書いてしまったということですが、これがいろいろなところで役に立っています。 ・・・(中略)・・・ こうして考えてみると、異分野といってもどこかでつながっているケースが少なくありません。(p.94)
 視野の広い人は、こういうことが分かっているから、偏狭であることはない。逆もまた真である。俗に言う島国根性、それにメリットはない。

 

 

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