イメージ 1

 『やれば、できる』 という著作で、小柴先生のノーベル賞受賞に至るまでの研究生活の概要は分かったけれど、先生が海外で実績を積んできた経緯について、それほど詳細には書かれていなかった。この著書には、それが書かれている。

 

 

【アメリカ海軍を配下にしたプロジェクト・リーダー】
 小柴先生がロチェスター大学で学位を取得(1年8ヶ月は、今でも最短記録として大学に残っている)して日本に帰国した後に、シャイン教授に誘われて再び渡米し、原子核乾板を高空に掲げて宇宙線にさらすという物理実験プロジェクトに参加していた。ところがこのプロジェクトの要であるシャイン教授が、先生がシカゴに着いて3ヵ月後に亡くなってしまった。
 この分野の第一人者であるオッキャリーニ教授は、プロジェクトの後継者を指名するために、シャイン教授配下の研究者を次々に面接して、小柴先生を後継者に指名したのだと言う。この時、先生33歳。
 そうなると立場上、予算の調達もしなければならない。
 アメリカ海軍の本部へ行って、いろいろと事情を説明して、お金を出すように口説いた。わたしの談判が相当しつこかったのか、担当部長が怒りだしたこともある。
 ・・・(中略)・・・。
 しばらく後に、海軍作戦部長から 「あなたの粘りには本当に頭が下がります」 と手紙が届いた。戦争が終わってまだ10年だというのに、日本人がアメリカ海軍の本部に乗り込んできて 「金をよこせ」 というのだから、驚くのも無理はない。 (p.50)
 この時の先生の海軍における地位は、「代将」 というのだという。
 「代将」 とはすごい地位であった。なにしろ、パリの学会に出るには軍用機を飛ばしてくれる。もちろん飛行機代はタダである。空港では中尉クラスの軍人がわたしについて、かばん持ちをしてくれるのだ。
 わたしは、この少し前にアメリカが銃火を交えた相手国、敗戦国の人間であり、博士号を取って間もない若造だった。にもかかわらず、アメリカはわたしを分け隔てなく扱ってくれた。 (p.55-56)
 こういう記述を読むと、アメリカの凄さをつくづく感じてしまう。
 このときに巨大プロジェクトを切り盛りした経験が、後に、日本でカミオカンデをスタートさせ、実験を運営していく上で大いに役に立ったのだ。 (p.56)

 

 

【ヨーロッパで実績をあげる】
 ソ連のブルドゲ教授が主催するプロジェクトに参加するために、反対を押し切り折衝をして予算を獲得した矢先、今度も主催者であるブルドゲ教授が心臓発作で倒れてしまったのだという。
 ここであきらめてしまったら、「わたしは二度と信用されない」 と思い、ソ連に行ったその足で実験のパートナーを求めてヨーロッパの研究機関を訪ね歩き、ドイツで共同研究の取り決めをしたのだという。
 日本にはその頃、欧米と肩を並べるような加速器はない。だから欧米の研究に参加して実績を積むしか道はなかった。しかし、新素粒子探しに血眼になっている欧米勢は、実績のない連中をそう簡単には仲間に入れてくれない。そんなジレンマの中で、ドイツでの成果が日本の実績となり、日本の実験物理学が世界に知られる突破口となった。 (p.83)

 

 

【ノーベル物理学賞の朝永振一郎先生との縁】
 小柴先生が旧制高校にいたころ、天野校長先生に進路を尋ねられ、「物理に行く」 と答えたところ、天野先生の恩師の哲学者・朝永三十郎先生の息子さんである朝永振一郎先生を紹介され出会っていた。
 朝永先生はわたしより20歳ほど年上だ。
 先生が、ノーベル物理学賞を受賞されるのはもう少し先のことだが、すでに有名な先生だった。
 ・・・(中略)・・・
 朝永先生とわたしの関係は、まったく学問抜きで、人間的なものだった。
 ・・・(中略)・・・
 本来、わたしは選ばれて留学できるような成績ではない。
 でもどうしても行きたかったので、朝永先生に、
「こういう話があるのですが、先生、推薦状を書いてくれますか」
 とお願いした。
 先生は、ニヤッと笑って、
「では、君が書いてほしいと思うような推薦文を英語でつくってきなさい。そのほうが君の英語の勉強にもなるから」 
 わたしは大学の事務所へ行き、成績表をもらってきた。・・・(中略)・・・。取り分けわたしの成績表で目立つ 「可」 をどう訳すのか七転八倒して考えた。
 そしてようやく 「この男は、成績はよくないけれども、それほどバカな学生じゃない」 という意味の推薦文をつくり、先生のところに持っていった。
 そうしたら、先生はまたニヤッと笑って、サインをしてくれた。
 そのサインのおかげで、私は留学できたのだ。 (p.103-105)
 留学した先が、冒頭に記したロチェスター大学である。
 そして、アメリカ帰りの東大助教授ということで、ものすごくもてた小柴先生。
 結婚式の仲人は朝永先生。 披露宴では、ある東大の先生がスピーチで 「小柴君は東大をビリで出た」 と暴露したので、女房の親戚はがく然としたようだ。 (p.175)
 ノーベル物理学賞受賞者同士の縁、東大卒業ビリ(?)、世界が認める実験物理学者としての実績。
 このチグハグな事実(?)の中に、人の縁と環境とが織り成す人生の不思議がある。
 小柴先生の朝永先生に関する思いは、p.114-116 にかけて書かれている。書き出さないけれど、ここが一番重要なところなのかもしれない。

 

 

【「わからない」と思える能力】
 疑問を持ったら、自分ひとりのアタマでこねくり回しているより、「他人のアタマを借りる」 のもいい。専門家に意見を聞くことも必要だということだ。
 しかし、何でもかんでも辞書で引くように、専門家に尋ねればいいというものではない。・・・(中略)・・・。聞く前に自分なりに時間をかけて考えた上で 「わからない」 と思ったことを尋ねるのでないと、勉強にはならない。
 「わからない」 と思うこともあなたの能力だ。 (p.188)
 「わからないことは、スグ調べる」 「わからないことは、スグ調べる」 「わからないことは、スグ調べる」
 私は大学時代、東大卒の教授に、毎週この言葉を繰り返し繰り返し聞かされていた。毎時間10回以上は言っていたと思う。これを毎週、のべ2年間に渡って聞かされ続けていたことになる。大学生になってから、国語辞典ですら手垢ですっかり汚れるほどに、とてもよく辞書を引くようになったのは、そんな教授に出会って、この言葉にすっかり洗脳(?)されていたからなのだろう。
 「わからない」 と思えるようにならないと学問は始まらない。
 
<了>