凡人のための今を生きる知恵
たとえば、
「明け行く今日が最後の日、明日はないものと思って過ごせ」、
というようなことは、
古今と洋の東西を問わずよく言われることで、
緊張感を持って自覚的に生きよということなのだろうけれど
わかっていても凡人にはなかなか難しい。
でも一日の終わりに、あるいは一日の節目節目、折に触れ、
「今日が人間として品位ある一日だったか」と問いなおすようにしてみると
これなら意外とできる、というか身にこたえる。
人間としての品位あるか・・・と問いかけることで
思わず背筋が伸び、良く生きるということの意味と
行動を自分に問い直さずにはいられなくなる。
怖い問いかけである。
この場合の、人間として品位ある、とは会社の仕事ばかりして
自分への忠誠を怠らなかったかとか、
社会や、家族への義務を果たしたかとか、
まあ納得いくバランスの取れた良い生き方をしたか、
というようなことかな、たぶん。
つまり、グウタラの凡下の輩には
朝の初めに今日の空約束をするより
始終監視と鞭を怠らないほうが,、人間をサボらないためには
効果的ということなのだろう。
ガミガミ言われないと、勉強しないダメなオレ、
(それでもしなかったけど)
そのまんまってことか。。。
ビールの緑園
連休も最終日、やっと調子の出てきたところで明日からまた・・・
昼酒は体に悪いと知りつつも、雨も降っていることで、
これが飲む理由にならないわけがあるものか。。。
いちいち理由がウルサイと思いつつ、雨を眺めつつ昼からビール。
飲みだすまでにツベコベ言うのは仕方がないが、
飲みだしてから、世事の煩いを並べ立てるのは下の下なので
飲むときは飲むことだけに向き合って
塵界を忘れ、グラスの上に心を自由に遊ばせるだけでいい。
今日のビールはお気に入りのハートランドだったが、
深い苦味と沈没船の引き上げ品をイメージしたという緑のボトルは
遊び心に富み、酒飲みの心を伸びやかにし想像力の活動の余地を広げ、
自然に話も弾ませてくれる。(・・ような気がする)
でも確かに何がしか気のきいたビールは気分が違う。
このビールも単なる価格優先の大量生産工業規格品のビールとは一線を画す。
キリンなんていうメジャーメーカーが作って、ほとんど
宣伝もしないで長く作られているというのもまた面白い。
窓に当たる雨が強くなってきたが、
雨粒に歪んだ外の木立の緑が、水滴のついたビールビンの色と和して、
またいっそう気分がよくなった。
剣より強い、スローな筆記具
何年かぶりかで万年筆を購入。
たまたま立ち寄った丸の内の丸善で、衝動買い。
もっとも、その日ボールペンとシャーペンの筆触がなぜか神経に障って
学生時代にデスクペンで猛烈に書きまくっていたことを
思い出したせいでもある。
ところが書いてみて驚いた。
インクの乾きは遅く、縦書きの文を書くせいもあるが、
紙面を汚さないためにはちょっとペースに考慮が必要になる。
筆みたいに手を浮かせて描くわけでも
巻紙に書くわけでもないので、私の通常のペースとは
明らかに違う時間が要求されてくるのである。
(あれ、? 万年筆ってこんなだっけ??というところ)
もっとも、通常一番使う筆記具はパソコンだったりするわけなので
イメージを言葉に置き換えたのち、置き換えた言葉を
キーボードの配置に組み立て直して、かな漢ソフトだか
ワードプロセッサのしょぼくれ変換の尻拭いをしてやっと文になるという
「精神ノイズ」がほとんど生じないため
スローなペースとあいまって気分的にはだいぶ
余裕が生じたような気がした。
その万年筆。金ぴかは苦手なので、21金に
ロジウムめっきされたものを選んだのはいいけれど、
おねいさんが勧めてくれたペン先が、
なにやら「長刀(なぎなた)研ぎ」とある。
・・なぎなたかー、そりゃペンは剣より強いわけだわな。。
坂の上の酒の上の不埒の上の忘却
イラン人の友、F君と飲んだ。
あれ、お前、宗教上の理由で酒飲んじゃイカンのでないの?
と聞くのだが、F君は
いや、ここは日本だし、俺も間違ってるかもしれないからな。
といって意に介さない。
ほーほー、宗教に深く帰依しながら、独尊にならず、
俺も間違っているかもしれないという
謙虚さを持つのはたいしたもんだ。
宗教一般に意固地と独尊の副作用がなかったら、
宗教による人類の幸福収支も赤字にならなかったろうに、
とはよく彼と話す。
だからなのだろう、こんな日本の精霊信仰的感性は正しいと思うよ、と
お世辞半分に付け加えていた。
かくいうF君だが、
現代日本人の働きぶり、暮らしぶりは違和感があるようで
曰く「日本人は、いつもここでないどこか、今でないいつかのためだけに
今を犠牲にして我慢して働いているようだ。」とものたまう。
なんとも鋭い指摘である
自分の確かな時間なんて今しかないのに、
サービス残業やら、付き合いの飲み会やら、
日本人は「今を放り出すことで、会社への忠誠を表現する」かのようだ。
私としても反論に困る。
今日は店の名前がルバイヤートだったせいもあって
アラブの詩の話題にもなったが、
こんなのが印象に残った。
過ぎ去った日に悩みわずらうな
まだ来ぬ日に思いめぐらせるな
今この瞬間から喜びを奪え
(酩酊のため出典・詳細放念、失敬)
エーデルワイスは永遠に
世間ではゴールデンウィーク真っ只中。。。
混雑をものともせず出かけていく皆さんには敬意を表したいが、
そう云えば拙者もその昔、わざわざゴールデンウィークに
ヨーロッパに出かけたことを思い出した。
現地では主に列車で移動したのだけれど、
車窓から見る山のところどころに白い花が目に付いたので
乗り合わせた白人の土人らしき男女に
花の名を聞いてみたが、特に植物には興味がないらしく
さあ、わからない、という答えが返ってきた。
私たちにしても、自分の住んでいるところでも存外身の回りの
木や花の名前を知らない、ということは良くある。
ところが、たまたま同乗した日本人の婆さんが(アカの他人である)、
「どうしても知りたい、私が知りたいと言っているのに、なんだ、
あんた何とかならんのか」と無理なことを言ってゴネル。
なんとまあ傲岸なと思ったが、
そこは適当にエーデルワイスということにしておいた。
「エーデルワイスという花らしいですよ」
「エーデルワイス?」
「そうです、エーデルワイスです。花を煎じて利尿剤にします」
「りにょー剤?」
「そうです、干したやつはニョーデルワイスというらしいですよ」
「尿出るわいス?、へーえ。」
あのご婦人、日本へ帰ってヨーロッパ仕込の知識を披露しただろうか。
旅先ではいろいろなことが起こるものだ。
まあ、旅のゴミと恥はかき捨てず、ちゃんと持ち帰るべきだろう。
(本当の(?)エーデルワイス)
チョコレート・スリラー
近頃あちこちで目にする高カカオチョコ。
方々でよく話題に上るのは興味を持って食ってみる人が
多いからなのだろう。
当然拙者も食ったが、これがなんとも奇怪な味。。(ちょっと怒)
ウソかホントか楠田枝里子がこれでダイエットに成功したとか云う
ウワサも流れていて、店頭にPOPが添えられていたりするのだが、
こんなのでも人気に一役買っているのだろうか。
別にダイエットや美容目的の人が楠田ナントカになりたい、なんて
憧れるとは思えないのだけれど。
楠田枝里子が食った!、怪奇のチョコレート!
なるほどこりゃ怖いもの見たさというか、B級ホラーの
宣伝キャラだったのかと勝手に納得。
拙者の場合、口にするとなぜかカメムシやジョロウグモの
甲殻についた粉を食ったらきっとこんな味なのだろうという
イメージが沸いてきた。
もちろん拙者はイナゴの甘露煮以外は、
虫なぞ食ったことはないので
チョコと野性の虫(いや、その辺にいるから野良虫か)が
どうして結びついたのか、この味のイメージ連想はいったい何なのか
不思議だった。
だがあるとき手に取った『冒険手帳』(復刻版)/知恵の森文庫 でなぞが解けた。
この本は拙者が幼少のみぎりの愛読書だったのだが、去年復刊されて
再度入手したのだが、そこに救荒食として食べられる生き物の一覧があり、
しっかり「クモは脚をちぎって食べるとチョコの味」とあった。
クモの他にも芋虫だのコウモリだのが並んでいたのだが、
そんな昔の記憶が不気味なチョコの味とともに蘇ったのだろう。
せっかく世に出た高カカオチョコだが、
一般的におしゃれでおいしいとは言いがたいのだから
いっそクモ女のチョコとか、ゾンビのチョコとか
ガングロヤマンバ系のノリ(地味なブスより派手なブスというのだっけ)で
売り出したらいいのではないだろうか。
私が買うかどうかは微妙だが。
年寄どもよ!
残念なことに老境に至るのにまだ程遠い私であるが、
最近、老人向けの商品・サービス広告の多いのが気になる。
もちろん、そろそろ定年リタイアを迎える団塊の世代を
ターゲットにした売込み攻勢なのだというのはわかる。
気になるのは憧れの老境が商品経済の食い物にされて
老いぼれの荒れ野原となるのではないかという懸念があるからだ。
そもそも老境というものは社会的な束縛から緩やかに解き放たれて
自由な個人として悠々たる境地に遊ぶことができるのではないかと
いう点で憧れだったのである。
まさに東洋的な文人の境地がそれである。
しかし、市場経済というのは人間の存在に関するありとあらゆるものを
食い物にして、目先の満足や豊かさとともに同じだけの新たな
貧困を生み出さずにはおられないものだ。
近代において人は貧困を埋めるべく経済を発展させたが、
経済の発展は豊かさだけをもたらしたわけではない。
公害や社会問題、新たな満たされない欲望という苦を創出し続けてきたことは
いうまでもない。
そしてこの存在環境の貧困さがまた新たな経済発展のネタになるという奇妙な世界
に私たちは生きている。
私たちはいつまでたっても足るを知ることなく、
次々に新たな欲求に駆り立てられて
永遠に手に入ることのない満足を追いかけて、
経済に尻をたたかれるだけなのだろう。
つまり現代の人は何かを手に入れることで、
次々と豊かさを手に入れているという幻想と引き換えに
次々と新たな貧困を生み出し続けているのである。
こんな市場経済が老境を食い物にしたら、
老人の満足はたくさんお金を使って
ものを買ったり、旅行したり、教室やエステに通ったりすることだけで
手に入るかのような幻想が社会を支配してしまったら、、、
それこそとどまることを知らない欲求に駆られた、
足るを知らない、強欲な年寄世界が出現するのであろう。
言うまでもなく、分別の足らない欲深な年寄は、欲求の強い若者以上に醜い。
こんなのが社会にウヨウヨいる世の中は想像したくない。
そのとき英知と分別をたたえ欲求や社会の動静から真に自由な年寄が、
変人扱いされたりしない事を願いたい。
私が年寄りになるまでどうか老境観を荒らさないでおいてほしいものだ。
(私がアンチエイジングと金集めと浪費に駆られる欲深な年寄にならないという
保証はないのだけれど。)
ゴールデンウィーク初日温泉行
昨日雨降りの休日、温泉に行った。
最近東京とその近郊には、雨後の竹の子のごとく温泉施設ができる。
火山もないのになんで?と思うところだが
聞けば「化石海水温泉」というのだそうで、
何百万年も前に地中に閉じ込められた海水が地中深くで暖められたのを
ボーリング技術が向上したおかげで掘り出すことが可能になったためらしい。
千何百メートルも下から無理やり掘り出すのは温泉とは言わん!という
意見もあるようだが、
私も日本人なので温泉が好きであり細かいことは言わない。
近くで天然温泉が楽しめるようになったのはやはり心がうずく。
で、しっかり開業と同時に会員となって時折出かけていくのだ。
昨日は雨だったせいもあり温泉にはタクシーで出かけていった。
(温泉とビールはセットであり、かつ、ビールはとにかく量を
こなさないと面白くないので、自分で車を出すことはない。)
雨の温泉(露天風呂)はまた風情のあるもので
心身ともくつろげるとともに
地殻変動で閉じ込められた太古の海水に浸るというのも
ロマンのある話ではある。
なにせ太古の海水だから、、
瞑想Ⅱ
瞑想は儀式や教室やマニュアル本の中にあるわけではない。
瞑想とは私の中の小さな子供のようなものだ。
哲学者の三木清が、瞑想は上から降りてくると言ったように、
それはいつでもどこでも何をしているときでもまとわりついてくる。
でも、ついなおざりに子供をあしらってしまうように
今は忙しいから向こうに行ってなさいとか、また後でねと、
瞑想もまた、いい加減に扱われてしまう。
こんな、まとわりつく瞑想を無価値な邪魔なものとして
あしらうことに終始している私たちは、
時には意図的に瞑想のためにまとまった時間をとってやる必要な場合もある。
時に小さな子供にまとまった時間をとってあげることが必要なように。
大人は子供の相手をすることを、わざわざ時間を割いて子供に
「してあげること」だと考えるものも多いだろうが、
ところが実際子供の相手をするということは、
大人が子供に与えられることのほうが多いものだ。
子供の純粋な喜びや驚きに遭遇し、またそのことに大人が驚き、喜ぶことになる。
瞑想による利益とはそういうものだ。
瞑想は社会的生産性や経済効率のためには無価値 なものだろうが、
瞑想による利益とはそういうものだ。
日本人なら漆器でビール!?
爺さん婆さんが営む漆器店。
その日、別に何を買うあてがあるわけでなく、
ふらりと立ち寄った店の奥、
見かけたビアカップを手にとると
木の精霊が耳元に寄ってきて言うわけですよ、
どうか連れ出してくださいって。
もちろん買いましたとも、二つセットで。
(だから衝動買いじゃないんですよ)
店主の爺さん、まじめな顔で言ってました。
「さすがお目が高い。これは値打ちものですよ」
(誰にでも言うんだろうけどよ)
さっそくビールを注いで使ってみたところ、
木工の精度の高さに加え、
漆器だけあって確かな質感と肌へのあたりは
他のどの材質のビアカップとも異なり、
たちまちお気に入りとなりました。
某先生の言を借りると、
まるで「硬くなった乙女の柔肌みたいな心地よさ」、でしょうか???。
(ついでに云うと、隣のビールはインペリアル・スタウト/恵ビール)





