雪中花
ある晩のこと、
思いがけない女性から何年ぶりかのメールが届いた。
メールには
彼女の住む町では桜が咲くと同時に雪が降ったので、
雪見酒と花見酒を同時に楽しんでいるというようなことが
あっけらかんと書かれていた。
忙しさに自分を追い立てるような毎日をすごしていた私だけれど、
不意のメールに一時緊張が緩んで
どこか遠くの光景が目に浮かんだのだが、それは
薄く雪に覆われたピンクの花が浮かぶ闇。
その晩の酒は雪見花見酒の代わりに
細かい氷を入れたグラスにウォッカを満たして
塩漬けされた桜の花を浮かべてみた。
しばらく眺めて冷たいグラスに口を付けると
華やいだ桜の香りが広がると同時に
アルコールと塩辛い小さな刺激が唇を刺したのだが
私は季節がいつの間にかまた春になっていたことを知り、
今は友達となった彼女との長い距離を思った。
酔わない晩もあれば、酔えない晩もまた、ある。
ブランド品を買うのは若い者と貧乏人だけだ、と彼は言った
某大手スーパーのスポーツ用品の売り場を眺めていたところ、ワゴンにあった、シャワーサンダルが、有名スポーツ用品ブランドのワンポイントが入ったものが特価3,000円、何もない無地のものが650円で並んでいた。
手にとって見たところ、材質や機能的なところに差があるようには思えなかったから、値段の差はそのままブランド料なのであろう。
モノは単なるシャワーサンダルで、早い話が、昔で言う便所スリッパのようなモノである。機能と品質に差がなければ、非ブランド品で十分であると思うが、ブランド品も売れているのだろう。
高いといっても3,000円程度だから金持ち向けと言うわけでもないだろうが本当の金持ちが、便所スリッパがナントカブランドだからといって喜ぶとは思えない。ではいったい誰が買うのか?
便所スリッパをみていたら、以前「低開発国」(これは差別用語)と言われる国に行った時に、町中に有名な高級スポーツブランドの看板がそびえていたのを思いだした。
ごく限られた大金持ちはいるのだろうけれど、国全体が、国民の大多数が「貧困」あるいはそれに近い状態の中でも、人々は非実用的なブランド品に羨望を持つ。食うものも食わず手に入れたブランド品は、所有欲の何がしかを満足させるだろうが、直接に個人的な生活の向上はもたらさない。
また、人と人の、モノとモノの格差のある中でこそ、ブランドはブランドとして意味をもつ。
だから、ブランド品は、貧乏人の新たな欲望を作り出すと同時に、
金持ちにはさらなる富の集中をもたらすだけである。
何に価値を見出すかは個人の勝手ではあるが、ブランドの盲目的な信奉は社会格差の積極的な肯定でもある。
竹中ヘーゾーなんか涙を流して喜びそうな話かな。
春雨の日曜日
雨の日曜日というのはいいものだ。
晴れて気候もよいのに外出しなければならないという強迫観念から
逃げられるということもある。
でもなにより、世間的社会的わずらわしさから一時解放され、
雨のベールで外の騒々しさから緩やかに隔離されて
長閑に自分と向き合う時間ができるからである。
予定に終われ、また予定に自分を追い立てることを行動の基本に
している人も(私がそうだった)、
たまには何もしない、何もないところに自分の何があるのか
社会的価値や動機に寄りかからない、素の自分と向き合うのにはいい機会だ。
今日は傘をさしてベランダのベンチに座って、ぼーっと空や木の色を眺め
小鳥たちのおしゃべりに耳を傾けてみた。(・・ついでに酒が欲しい)
雨のベランダで時間を過ごす気になるのだから、暖かくなったものだ。
雨なんだから、庇のあるところまでベンチを移動すればいいようなものだが、
古木で作ったとかいう、うちのベンチは(東南アジアで衝動買いしてきた)、
エコぽくてやさしそうな顔をして、その実、暴力的なほどもの凄く重いので
私が傘を持って移動することにしたのだ。
(近所からは変なやつと見られるかもしれないが)
時間に追われず、予定に使われず、スケジュールに切り回されず、
自分こそはすべての時間の主であるという気分こそは
ヒマの効用だ(たとえ束の間にせよ)。
春、蕪村さんと歩く
春は夕時
のどかなのになまめかしく、期待にも似たざわめきと高揚感をたたえて
なかなか暮れきらない夕暮れは、それだけでただなぜかうれしいものだ。
だから長い日を欲張りすぎてしまうのだが、
ついには暮れてしまうことがまた惜しくて
わざと回り道をして帰る日没前後こそ、春のハイライトかもしれない。
帰る道々花咲く木の枝を見上げると
去年も、おととしも、その前も
同じ顔をして木の花を眺める自分の姿が見えた。
いったいこんな何度目の春だったことか。
そんな春を重ねて眺める昔の、いつのまにか遠くなったこと・・・。
遅き日の積もりて遠きむかしかな BUSON
・・蕪村さんとは、今度は雨の日に一緒に散歩に行く約束をしてわかれたのであった。
水木しげる的ライフの実践
いやはや、またも引き続き『本日の水木サン』である。
それにしてもなんとも印象に残る水木さんの言葉の数々、と言いたいところ、
実際はたいしたことを話しいるわけでないのも多いのだが、
漫画や妖怪研究の偉い人の面と、人生の達人ながら偉ぶらない人の面が絶妙の
具合で出てくるので、話に重みと親近感がある。
実際この世の中は、例外的な成功者の訓話や説教が大好きで
「たゆまぬ努力」「自己犠牲」「好きなことを見つけよう」調の下世話な
行動マニュアルや人生指南本が溢れかえっているのは、ご存知の通り。
ところが水木さんは、ただ好きなことをやり通しただけだ、という姿勢があるだけである。
しないではいられないことをし続ける
(5月16日より)
わたしたちの近代産業社会とは、経済的上昇のためには個人の趣向や感性など蹂躙し、
みんなを十把ひとからげにして同じ方向に走らせることで成り立っているわけなので、
個人が好きなことをやって、好きなことを仕事にして世の中に受け入れられて
生活していくと言うのは大変なことだ。誰にでもできることではない。
そうはわかっていても、やはり憧れてしまう水木氏の行動の数々。
それって凡人には、宝くじ生活を夢見るようなこと?
いや、そうではあるまい、
水木氏のメッセージは一つは「自分の好きなことをやり通す」だけれど、
「自分の幸福のためにシンプルに行動する」ことでもある。
(マイレージカードについて)
ああいうものをつくると、人生が複雑になりゃしませんかねえ。
(3月2日より)
私たちの欲求を刺激してやまない、世の中に溢れるモノやサービス。
その一つ一つが本当に自分のために必要なのかなくてもいいものなのか
立ち止まって考えてみるだけでも、プチ「水木さん的ライフ」実践の第一歩
であるような気がしてきた。
水木さんの父上のこと
以前、水木さんの少年時代の伝記的テレビドラマ「のんのんばあと俺」にも
岸部一徳が演じる水木さんの父上が登場し、その時分にも大層興味を引かれ、
また憧れもしたことも思い出した。
その父上、ドラマでは、
うだつの上がらない銀行勤めも、強盗騒動で当直勤務を放り出してクビになってしまい
その後田舎町(鳥取/境)の文化振興と称して活動写真小屋をやったり
損保会社に勤めたり、昨日の記事で引用した水木氏の父親評にあるように
なにやらよくわからない人である。
でも銀行員などというおよそ面白くない職業で、偉くなったところで
責任ばかりが増えて大変なばかり、カイシャ的・世俗的栄達と個人的幸福は
イコールではないから、非出世志向は良くわかるし、
カイシャのため強盗に体を張るほどの義理もなければ、巡りあわせで
クビになるのもまた仕方がない。あとはどうにかなる、好きなことをやってみよう。。。
そんな風に見えてしまうのがこの父上のすごいところでもある。
父上がまだ小学生の次男坊である水木茂氏(通称ゲゲ)に言う。
「おまえは好きなことをやれ。金なんか飢え死にしない程度にあったらいい。」
なにより自身の内的な価値を優先して生き、世間や会社の評価といった外的価値に
重きを置かない方とお見受けした。
これで食えるんだったらそんな素敵なことはないなあ。
人生の達人としての水木さん
ところで、昨日はカバーの話をして中身の話はしていなかったが、
その中身の読んだ本。
『本日の水木サン』 水木しげる / 草思社
一日一話の366日、水木しげる語録である。
ゲゲゲの鬼太郎はじめ、妖怪漫画で高名な水木さんの発言集であり、
サブタイトルの文句に「思わず心が緩む名言366日」とあった。
でも私の印象を簡単に述べるなら
「水木さんは人生において好きなことをやり通した。
しかも断固として好きなことをやった。それゆえに幸福であり
人生の達人でもある。」
というところだろうか。
水木さんが幸福だと言われるのは、
長生きして、勲章もらって、エラくなったからなのか? 違います。
好きな道で60年以上も奮闘して、ついに食いきったからです。
ノーベル賞をもらうより、そのことのほうが幸せと言えましょう。
4月10日(初出「水木サンの幸福論」より)
人生の達人である水木さんの語録を凡人が下手に参考にできるものではないが、
時代や世界が違っても変わらない幸福の真理というようなものを素朴に
シンプルに実行しているのだな、ということは大変感じた。
でもなによりもまた、私は水木さんの父上に憧れてしまったのも確かである。
親父は昔から働いている姿をあまり見たことがない。
のんびりと談笑したり、静養と称する休息を好んでいた。
それでも不思議なことに、どこからともなくお金が入っていた父の生活こそ、
僕にとって七不思議のひとつだった。
4月6日(初出「ねぼけ人生」より)
確かに必要以上に持つことも、活動することも、自身の幸福とはイコールではない。
「問題なのはキミが何をするかではなく、キミが何者であるかということだ。」
(これはマイスター・エックハルトの発言、だったかな)
本の皮を剥ぐ
書店で本を買えば、たいていの場合その書店独自のカバーを
つけてくれることが多い。これを「書皮」とも言うそうで、
多様なデザインゆえコレクターもいれば
資源の無駄であると非難するものもいるようだが、
私のように持ち歩き電車の中で本を読み
扱いの荒い者には本の保護のためは都合が良い。
ただ、最近利用も多いBKワンとかアマゾソとかのインターネット書店では
カバーをサービスしてくれないので、この場合は自分で調達することになる。
たいていは傷みの少ない他のカバーを繰り回しリサイクルするか
専用のビニールカバーや適当なカラー模造紙を使うことが私の場合多い。
ところが今回、ある朝どうしたことかリサイクルの備蓄も模造紙の備蓄も尽き
適当なカバーが見当たらなかった。
そこでその朝届いた新聞の束から広告紙を引き出して、カバーにしたのだが、
なんだ、これがなかなかいい具合。
カラフルなデザインもさることながら、大きな広告を必要なサイズに折り返し
紙が二重になったため、手触りというのか本をくるむ安定感と言うのか、
手にした感触が抜群に良いのである。
(美しいオリジナル本カバー)
家族は恥ずかしいのでやめてくれというが、
カバーの出来栄えに酔った私に聞く耳はない。
たぶん青年の部Bの私程度の年齢にして、
電車の中でこんな本を広げる者はそうはいないのではないか。
感覚的には成年の部Dくらいの年配の方がやりそうな気もする。
省資源で持続的成長可能なエコライフ志向の昨今のこと、
意外と流行るかもしれないではないか。 (無理)



