女たちよ! 世の恥多きファッションよ!
こんな本を読んだ・・・
これまでに「恥ずかしかったこと」というのを、
主には女性が雑文として綴っているものだけれど、
まあ、おおよそたわいもない話である。
ズボンのすそに洗濯物のパンツが引っかかったまま歩いてていたとか、
コート脱いだらスカートはくの忘れていたのに気がついて
そのまま帰った、とか・・・
まあ、当人たちにとっては大変なことなのだろうけど、
男にしても女性のそんな場面に出くわそうものなら、
これまた困惑ものである。
それは、本人の恥に配慮しつつ、どのように注意しようか、という点で。
そんな困惑に、これまでに拙者が遭遇したケースとしては、、、
「大きな荷物を肩に担ぐときに一緒にスカートが
めくれあがったのであろう、尻丸出しで歩く女性」
「洗濯物のTシャツがスカートの腰に引っかかってぶらぶらさせながら
歩く女性」。。。
いずれも若い女性で、見かねてそっと極力さらりと注意してあげたのだが
当人たちは戸惑いながらも、素直に感謝していた。
こうしたケースを経て、自信を得たというほどものもではないけれど、
注意すべきはちゃんと注意してあげるのが本人のため、との
思いをいっそう強くいたしたのですな。
それが良くなかった。
そんなもう数年前のあるとき、
いたいた、駅のホームにひとりたたずむうら若き女性、
本人は思いっきりキメたつもりなのだろうが・・・
幸いにホームは人が少ない、注意してあげるのなら今だ。。。
親切な私たちはそっと近づいて、にっこり注意をしてあげた。
「あのう、もし、ズボン脱ぐの忘れてますよ」
そのときの女性の真っ赤になってにらみ返した顔が忘れられない。
スカートとロングパンツをあわせてはく、という珍妙なファッションが
はやり始めたのはそれからまもなくのことであった。。。
(そんなわけで、あんなものはファッションとは認めません!!!)
(なお、実はこの時は私は、「ん?」と思うところがあったので、
実際の注意はA君にさせて、私は離れて見ていたのだった。。。
・・・拙者、そういうヤツなんです^^)
月夜の招待
雪の地方で育った子供の頃、雪の積もった晩には、
闇に没する夏には見えない光景が広がっていて、
雪明りの白い闇に浮かぶ家や木、
遠くの山のふもとに至るまでの道は、距離も時間も関係なく、
雪の上をたどればどこまででも歩いていけそうな気にさせたものだ。
太平洋側のこのあたりの冬は、めったに雪も降らなければ
雪や冬の風物を擬人化したキャラクターの活躍する場面も少ない。
それゆえ、時折北国の冬の文化の深さと物語は憧れとなる。
実際に雪と格闘する生活がいかに厄介なものだとわかっていても。
冬の晩には寒いのは大の苦手の大人と成り下がった郷愁として、
月並みだけれど、宮沢賢治童話集。中でもお気に入りは『ゆきわたり』。
雪の表層が硬く凍って足をとられずに歩き回れるようになる月の晩、
幼い兄妹は子狐たちの幻灯会に招かれる。。。
宮沢賢治の童話はどれもたいてい美しいけれど、これは特に秀逸。
もっとも、かた雪の上をすいすい歩けるのは子供だけなので、
狐の招待を受けられない大人は、寒い晩には家で酒盛りをするのが
ならわしなのである(今私が決めたのだけれど)。
憑いてきた精霊
A君の父君は在野のアジア民俗文化研究家です。
主に食文化に関する道具類の研究と収集のため、毎年精力的に
各地へ出かけていきます。
理解の乏しい家族の、アジアかぶれ、ガラクタ集めとのそしりを背に
おもに皿だの壷だの、古今の食器や料理道具を買い入れていますが、
日本の生活文化の起源をアジアに探求することが氏のライフワークなのです。
先だってもイギリスへ出かけた折、世界中の古物珍品を扱う店で、
アジアで使用していたという古い細身のへら状の木片を入手してきたのですが、
これはアジアと日本の食文化の共通性を探る貴重な例証だと
大変自慢しておいででした。
なるほど「それ」は一見日本のシャモジの親戚みたいに
見えないこともありませんでした。。。
ただ、その後ついにその木片の正体が判明したのですけれど、
・・・「それ」は確かに食文化に関係してはいたのですが、
学名をウ = ンコベラフ = キトリダスという
入り口のほうでなくて、出口のほうで使用するモノだったのでした。
A君の父君は、「ううっ、ヘラに憑いてきた精霊が、私に使ってくれと言ったのだ・・・」と
言っているそうですが、
行動と実践を旨とするシロウト研究家のA君の父君が
「それ」を実際にどのように利用したのかどうかは、、、
私にはちょっと怖くて聞けませんでした。。。
南総里見八犬伝 場外伝
「殺せ殺せー! マゴコの代まで祟ってやるわー!」
わめき散らす悪代官の女房、玉梓(たまずさ)を前に里見の殿様は困ってしまいました。
玉梓を死罪にすればたぶん祟られて子々孫々まで厄介な禍根を背負い込むことになる。
放免してしまえば家臣に示しがつかず、領内の秩序維持に支障をきたす。
かといって禁固や流罪では量刑のバランスを欠く上に
玉ずさに恨みを抱いて自殺などされたら結局祟られ厄介なだけ。
さあどうする?!
A君「実は玉梓という女はマゾで、いたぶったら絶頂のうちに心臓麻痺で
死んだので、祟りはなかった、というのではどうだろう。」
拙者「こら、勝手な設定を置くんじゃない、玉梓の処遇をどうするか
というところがポイントなんだから。」
A君「領民が納得し、祟りも起こらず、ついでにハッピーエンドの選択は
あるかってことだな。んじゃ、どうするよ?」
で、拙者の案。
悩める君主に家臣の一人うつけ者の伽普天若衛門(きゃぷてんじゃくえもん)が進言しました。
「殿、恐れながらここは間をとって、『半殺し』といたしましょう」
こうして玉梓は、二度と復讐や祟りなど考えられないほど
こっぴどい目にあわされたうえ、
心配性の伽普天若衛門の命令で念入りにロボトミー手術まで施されましたので
領民も納得し、祟りもおきず、犬人間も現れず、
里見の国は末代まで平和だったということです。
なお、後に曲亭滝沢馬糞という売れない物書きがヒット作に恵まれず
ひっそりと廃業したのはあまり知られておりません。
(完)
ん~ハッピーエンドだかなんだかわからんなー
まあ何事も無く幸せな人の方が多いみたいだから、これでよし。
正月TVの南総里見八犬伝、漫画チックな演出に耐えられず、
会社で呆談の果て。。。
太平洋側の冬
冬晴れの続く乾いた1月の空気はしだいにざらついて、
時々雨が恋しくなることがある。
しかし、待ち焦がれるほどの冬の雨なのに、
不思議とその記憶は希薄であまり印象に残っていない。
基本的に日本人は晴れ待ち民族で、雪ならともかく、
やっかいな氷雨の印象のある冬の雨では
良い印象をもたれないためなのだろう。
低温乾燥が続けば風邪やインフルエンザが流行しやすくなる
というのは良く知られたとおりで、
湿り気の必要な太平洋側の冬にこそ望まれるべきものである雨だが、
たいして歓迎されないのは公平でないような気もする。
北風、木枯らし、雪、雲、あられ、
それぞれ童話や物語に擬人化されてはしばしば登場するキャラクターだが、
冬の雨をなぞらえた例を私は知らない。
雪も降らなければ雪のキャラクターの活躍する場面もないので、
冬の文化の深さと物語の重厚さにおいて
北国に見劣りすることは隠しようもない。
水たまりに映る洗いあがったような空を眺めていると
ひりひりするような冷たい風がまた吹き抜けていった。
雪も氷もないこのあたりの冬は、ひたすら穏やかな晴れと北風、
時折いたって控えめな雨雲が過ぎていく、今は春待つ季節である。
白雪姫の恩返し
むかしむかしのお話に意味を求めてなどいけないのでしょうが、
おとぎ話は肩の凝らない酒の席の話題にもよくのぼります。
たとえば、薄情な白雪姫の恩知らずぶりも有名ですよね。
七人の小人が命がけで悪い魔女から守ってくれたのに
ふらりと現れた「自称王子」にくっついて、
お礼も言わずに、さようなら~、とさっさと行ってしまうんですものね。
小人たちにしても、いかにお人よしとは言っても、大事な姫を
「自称王子」なんかにあっさり引き渡してしまっていいのか?
この王子っていう男なんて、家来も連れず、小唄なんか口ずさみながら
平日の日中から、一人で森をふらふらしているようなやつですよ。
どう見ても 「勘当された放蕩息子」 か 「遊び人の金さん」以上には見えません。
そんな自称王子なんてのにホイホイついていくなんて
まるで皇室詐欺に引っかかる無知な欲張り姫の転落の図(?)みたいで
おせっかいをしたくなりますね。
ちょっと、ちょっと、王子さんとやら、あんたいったいどこの王子なんだい?
王子様がお供も連れずになんでこんなところふらふらしてるの?
村娘ナンパに来たプータローじゃないの?
ちょと身分証明見せてみな。
え?何?持ってない?
王子は生まれながらにして王子であり、ただあることによって
王子たりえるものであるって?
理屈以前に王子としての存在をを信じるしかないだと?
王子を信じる者だけに我が王国への道が開けるって? ええ?
何言ってんだコノヤロ、ここは民主国なんだよ、
王国なんてお前の頭の中にしかないんだ、
おい、野郎ども!、スマキにして吊るしちまえ!
なんだい、あの野郎、王室詐欺だけじゃなくて、霊感詐欺もやるとはね、
いやはや、とんでもない王子だったようですが、まあ詐欺師は始末できました。
ところで姫は?姫はどうしましょう?
恩返しの予定はあるのかな?
あっという間のお正月
今年も残すところあとわずか十一ヶ月と二十数日・・
三が日も今日で終わり、明日からは会社。。。
ふん、一年なんてあっという間。
せめて自分らしく自由に過ごすため、今のうちにこの一年を展望したいところ。
赤ん坊はあっという間に生意気な口をきく子供になり
子供はたちまちむさいオヤジとなり
オヤジもまたついには中年となってしまって、やれやれと思ったら
気が付くと身ひとつ言うことをきかないお迎え待ちの爺となるのは、すぐである。
今少し我慢すればきっと自由に何か楽しいことが・・・、なんて思わないこと。
『ねこごよみ』 高久あけみ / 福音館書店
わたしの大好きな絵本作家「たかくあけみ」さんの快作。
擬人化された猫の暮らしぶりが、
なんとも四季折々の実感を伴ってよく表現されているのですね、これが。
猫のように生きる、というのもまた大変そうではありますが。
寝正月用の枕
正月だからって、飲んで食ってゴロゴロしてばかりいちゃあ、いけませんよ。
特にブログやってPCにかじりついてばかりいるのも、いけませんね。
拙者は素敵な寝正月、ですけど。
この枕、「昼寝用の枕」という、コンパクトなものですが
コンパクトゆえに、思いついたときにちょいと出して
横になっても、起きて脇に寄せても邪魔にもならず、
その辺に転がっていてもだらしなく見えない、ある種優れもの。
張子の犬と団子木のめでたい模様もお気に入り。
(ある時家族の冷たい視線を脇目に衝動買い。
拙者の買い物は常に衝動買いゆえ・・・
それにしても、現代の猛烈な消費文化推奨社会では
計画的に入手したいものなんてほとんどないと思うのだけれど)
幸運のいぬ年
明けましておめでとうございます。
写真は戌年にちなんで。
たまたま見かけた雲、天かける犬というか、
元気にダッシュする犬のようです。
さらに、いぬ年ということで
今年はスヌーピーでブログスタートできることの幸せ。
(スヌーピーのアイスクリームワゴンのチョロQ)
他の誰でもない、自分自身の手でハンドルを握って、
この一年という道を進みたいものです。
また、目指す幸福という山の、その裾野はとても広いものですから、
登り口も、辿る道も、道連れも、先達も、人それぞれに違っていても
至る高みは結局は人類みな同じです。
どのような立場にあろうとも今年は過去の不遇の衣を脱ぎ捨て、
運命との諍いを捨て、みんなが希望の日を浴びる年となりますように。
(おお、まるで正月用記事みたいだ。これじゃ予約記事アップばればれだ。
captain-jack本体はたぶん家で飲んでますから、ご用の方は
パソコンに口を近づけて、おーい!と呼んでみてください^^)
年末のわだかまり
年末大晦日から元旦はただ一日、
日がめぐることにおいては他の日となんら変わることはないはずなのに、
年が改まるというだけで世の中の眺めも空気までもがらりと
変わったような気分になるのは不思議ですね。
忙しさに汲々としていた年末から元旦への変貌をたとえて
長いことわずらわしかった便秘がついに開通したときの爽快感と同じ
と言った女性がいましたが、
日本一便通のいい男である私にもその感じはわかる気がします。
これは決して的外れなたとえではないからです。
そもそも言葉尻、ビンの尻・・・というように物事の終端を尻というように、
年末というのは一年の尻というわけです。
また、尻をおケツというようにケツは穴(けつ)、穴のあるところであり
当然年末には穴があって、その穴を潜り抜けて出してしまったところに
新しい境地としての新年があるというわけなんですね。
それゆえ暗い重い過去をひり捨てて、身軽になった体で迎える世界だから
それは新年はめでたく、気分も一新するというもの。
ところが、当の女性には、年末から元日まで年越しのベンピだってあるが、
どうしたらいいかと言われたのですが、
二年越しの○○ですか・・・いやービンテージものも大事にしてください・・・
どうあがいても堆積した「過去」からは逃れようもないのもまた人間というもの。
しどろもどろになって逃げた拙者でありました。
(来年こそは大日本下品党は離党したい)







