エリザベス! エリザベス!
ヨーロッパなどに行くと使い込んで古びた植木鉢が妙な高値で売られていることがある。
日本の明るくおしゃれなガーデニングブームの尻馬に乗った、
ホームセンターや街中のガーデンショップのディスプレイを見慣れた目には
重々しいというか、価値を見極めがたいというか、
場合によっては「うわっ、きったねー」というようなシロモノばかりである。
もちろん、使い込んで風格が出てきたものこそ価値があるとする鑑賞態度は
よく知っているが、日本のマンションのベランダ園芸や狭い戸建の軒先園芸などでは
受け入れ難い重厚さがある。
欧米のお金持ちの家ではよく、はじめから廃墟や遺跡のように古びて
みせかけてっ作った庭があるが、日本ではあまりお目にかからない。
もちろん、苔庭だの侘び寂びの伝統はあるし、古式ゆかしく伝統的な
家作りだってあるが、新築住宅がボロ屋や廃屋を模して作るなどとい
うことはない。
これは放っておいても日本の素材・風土気候ではたちまち自然に侵食されて
傷んで朽ちてしまうので、日本の遺跡というのは本当に無残な廃屋で実用無価値
だったりするわけなので、当然日本人は新しくてきれいなものを尊重するのに対し、
湿度も低く石が主体の欧米では、より長い年月でモノを見る態度ができている
面もあるのだろう。
自然豊かで住みよい日本の風土はすばらしいが、
世代を超えた長いスパンでの視野をもてない、常に目先の名利だけ追う
近眼的な発想に終始する国民性を作ってしまったともいえるかもしれない。
してみると、環境問題なんて言っても、持続性だの次世代への永続性なんて
口先だけで誰も本気で考えていないのだろう。
新製品至上、使い捨て万能が今もって幅を利かす日本での
牛歩のごとき環境問題取り組みの実情を見るにつけ、そう実感せざるを得ない。
(写真はわが庭の素焼きプランター「エリザベス」!
本当にこういう名前で園芸店で売られていた。
何年も使ったわけでないのに、どこかのエリザベス同様、風格というか
老化がというか、コテコテしてきた)
雨降りの会話
ようやく残暑が去ったと思ったら、一転して肌寒いほどの秋の長雨の日々。
あれほど暑さに不平を言ったのに、一転して雨と低温に愚痴をこぼす人間とは
なんとも勝手なものだ。
あのね、あんたのような人間がいつも適温でぬくぬくしていたら、たちまちボケて
思いつくありとあらゆるモノに不平不満を言って当り散らすようになるのよ、きっと。
気候が思うようにならないくらいのほうが平和なのよ。
この国では疎まれがちな雨の日だが、私は雨の日の眺めも、雨の中を歩くのも好きだ。
身をすくめ傘にしがみつくようにして慎重に歩いていく人や
まとわりつく雨を気にして先を急ぐ人の足取りの眺めにはいとおしさすら感じる。
雨の日の散歩なんて、物好きねー。靴も服もびしょびしょに濡らして何が楽しいんだか。
おおいやだ。雨の日はね、ゆっくり家で静養して家の中を片付けなさいってことなんですよ。
雨の日は家にいるのが一番。
人を包むやわらかな雨のベールは、ゆるやかに他者や外界のノイズをさえぎり
人を内省的な気分へと誘うような気がする。日常の喧騒と忙しさに流される私であるけれど
忘れていた気がかりなことや目をそむけていた不安や悔恨の原因に自然に
冷静な目を向けるようになるのものも雨がきっかけになることが多いようだ。
雨なんか眺めてボーっとしているとね、あることないこと頭の中に湧き出してろくな事が
ないんだから。ぼけっとしてる間に動け、働け。
雨音に遮断された静謐な空間にひとりあるとき、過去からも現在からも忽然と
離れてあることを感じる。日夜私を責め立てる憂いも悩みもわずらいも、
私は高みから遠くの山々を眺めるようにただ静かに眺めることができる。
それでも、雨降りでもおなかはへるのよねー。ね、何かあったかいものでも食べにいかない?
人は煩いを離れて自己の立ち位置、来しかたを確認して、再びわずらいに満ちた世界に戻ろうとも
日々のなすべきことから目を背けてはならない。人は悩みわずらい、食べて寝て憂いと戦う
ことでしか日常は進まないのだから。
じゃ、早く行こうか。いつものレストランでいい?なら予約要らないか。
行くんだよね? あなたのわけのわからない話に合わせられるのなんか私だけだよ。
そんなことはないのだ!、と言おうと思ったが、空腹の前にはたいしたことではないのでそれはやめて、
私たちは食事に出かけることになったのだった。それにしても
寒いと言ってたくせに短いスカートをはいてくるのも矛盾しているし、いつものリストランテに
行くのだと思っていたら、なぜかチャンコ鍋の店にいたのも成り行きでよく分からない。
人生の断片としての日常というものは、こうして精妙な配剤が施されて凡人の解釈を許さないものだ。
まあ、それも悪くはない。 凡人の私としては。
秋の月、秋の虫、秋の酒
夕方窓をあけてパソコンに向かっていると、耳が割れるほどの虫の声に包まれます。あたり一面草木のあるいたるところから虫の声だけがが響いてくるのですが、騒々しいはずの大音声なのに、虫の音だけの響く秋の静寂と感じるのですから、人間の感性とは面白いものです。
日本人だけなのでしょうか。日本人でも騒音と感じる人もいるのでしょうか。しばし手を止めて、心身、虫の音に揺られるにまかすのは一時秋の宵の贅沢というものでしょう。 虫の音に耳を傾けて一杯やるのも悪くありません。
さらに秋の風情といえば、月見でしょうか。
今年の中秋の名月は10月の6日だそうで、まだだいぶ先のことですが、秋の月を愛でるに、なにも中秋の名月を待つまでもありません。ことに酒飲みは遅い月や、月の翳った暗い夜空ですら酒の肴になります。
そんな秋の月に関して、私が感心しない有名な歌に
月見れば千々にものこそ悲しけれわが身一人の秋にあらねど
というのがありますが、本当にこれは大江千里が詠んだのでしょうか、あまりに漫画チックなほどに安っぽく、いかにも風流ごっこの連中のウケを狙っただけのようなつまらない歌です。 たとえて言えば、低俗な恋愛小説でお決まりの重病や幽霊の登場のような。そんな安直さと仲間受け狙いのようなうわべだけ取り澄ました歌です。
やはりそんなことを思ったのは私だけではないらしく、江戸時代の狂歌にもこの歌を冷やかして
月見てもさらに悲しくなかりけり 世界の人の月と思へば
などという元歌の半端な感傷ごっこをスケール大きくぶっ飛ばす名歌(?)がありますが、これはすばらしい、拍手喝さいを送りたいところです。 月を見上げる私は一人でも、世の中いたるところで同じように月を眺めるたくさんの人がいる。 立場や悩みはそれぞれ違っていても一時同じ感慨を抱く人々の心のありようは共通しているのだ、と深読みしたくなります。
それでもやはり私などは、こと月見というイベントに関しては李白の詩の態度が好ましく思えます。
浩歌して名月を待たんとするに
すでに曲尽きて情を忘れたり
(飲めや歌えで月の出を待っていたのだけれど、
月が出る頃には騒ぎつくして名月などどうでもよくなってしまったよ)
さすが李白、酒仙にして人類史最強の大詩人、何をやっても様になります。
こんな風に、豪快に構えてみたいところです。(注:これは春の月を待っていた歌)
そこで私もひとつ、、、
月みれば千々に酒こそ飲みたけれ
わが身ひとりの酒でよけれど
(月見の酒も独り占め、意地汚くも酒が好き。)
悪役のデザインを求む
今回シュレッダーはさみなるものを購入。ギザギザの厚歯で、プリントの行単位幅2~3ミリくらいでカットされた紙は細切れのチップとなる。
これまでも手回し式のシュレッダーを使っていたのだが、普通の家庭で個人的に使うにはプリント面のごく一部をシュレッダーすればいい場合が多いので、こうしてはさみ同様に使えるのはとても手軽で、しかも引き込まれる心配もない。 もちろん全面シュレッダーの場合は従来機の登場となる。
さらに、このギザギザ歯のデザインにはちょっとだけインパクトがあるので、危険なものという注意もひきそうだ。
最近事故のニュースをたびたび目にするシュレッダーも、きれいで室内のデザインにマッチする洗練されたおとなしいデザインだったとしても危険は意識の上で隠蔽されただけで、危険に対する注意の必要がなくなったワケではない。
事故は、使用する「大人の配慮不足」によるところが大きいのだろうが、メーカーに考慮する点があるとしたら、きれいで洗練された口当たりのいいだけのデザインを選択して危険の存在をあいまいにした点だろうか。
注意喚起のステッカーなど貼っても人はすぐに慣れてしまうし、機械そのものに大人も子供も注意と緊張を催すようなデザインの選択肢があってもいい。
使い勝手と安全を求めるのは当然だが、危険への注意力も想像力もない大人は、危険を隠蔽してまで空間にマッチしたふやけたデザインなどをもとめてはいけないのだ。
***
もちろん事故は気の毒だし、繰り返される報道を見るにつけ胸が痛む。このことは会社でもさんざん話題になったが、うちのオフィスにも業務用のでかい強力なシュレッダーが何台もあって、先日、キラワレ者のN次長が首から下げたネクタイを書類もろともシュレッダーに引き込まれるという快事事故があった。
N次長はネクタイの先っぽを少々かき裂かれただけで済んだのだが、それを聞いたみんなは、あんなに昨今の事故への同情を口にしていたのに、一転、「ちっ、もっと引き込まれれば良かったのに、残念」と口を揃えるのだった。
なるほど、肝心ないいところで止まってしまって、、、
これは業務用シュレッダーにも欠陥があったということだな(??)。
悩める秋
実は今週、ついに予約をしてしまった。
いつものレストランの予約ではない。親知らずの抜歯の予約である。
奥歯の歯ぐきが腫れたので、行きつけの歯科に行ったところ
親知らず周辺の歯ぐきは炎症を起こしやすいので、抜くしかないという。
「これは炎症が治まったら、早いうちに抜いたほうがいいでしょうね。
今のうちに抜かないと、年取るほどに大変になりますからね」
「抜く? え、抜くしかないんですか?」
「将来的なことを考えたら抜くのが一番いいと思います」
「うう、私は80歳になっても32本の歯全部を残すのが夢だったのですが」
「歯ブラシも満足にケアできない親知らずなんか、虫歯と炎症の原因に
なるだけですよ。これじゃ入れ歯も引っ掛けられないし」
「実は祖母が亡くなる間際に、親知らずはめったなことで抜いてはならんと・・」
「ははは、おばあさんはまだご健在でしょう。抜いたほうがいいですよ」
「ええと、あの、親知らずって抜くのも抜いた後も結構大変なんですよねえ?」
「下の歯の場合根も張っているので確かに体に負担も大きいのですが、
個人差が大きいので一概には言えませんね」
「それでは親知らず抜歯のデータと体験談を収集して、私の場合を予想して
親族会議を開いて、しかるべき方針を検討してから・・・」
「今ならうちでも何とかできますが、こうして炎症を繰り返しているうちに
歯が傷んで、口腔外科で大きく切開して骨を削って取り出すことになりますよ」
「・・・・・。」
こうして歯科医の提案をいさぎよく受け入れた私は小学生の時以来の
抜歯をすることになった。
やっぱりやめておこうか、あるいは先延ばしにしようか・・・・・llllll(-_-;)llllll
これからは毎日きちんと歯を磨きます!、ってのでは、、やっぱりだめだろうなあ...。
執行予定日はまだ半月後だが。
美しい日本の大日本下品党
すでにこのブログで何度も言っていることだが
私は大日本下品党の党員である。
このページをご覧になっている方の中にはなぜ私がと不思議に思う
人もいるかもしれないが(誰も思わないって)、これは私の抱える持病のためでもある。
はじめは頻繁なめまいがするのを貧血症かと思っていたのだが、
専門機関で検査を受けたところ、貧血症ではなく貧下品症であることが判明したのだ。
元来上品にして高潔な私は、自分で生体内の下品値をコントロールすることができず、
血中下品値が減少するとめまいや卒倒することもあるのだが、
場合によっては上品きわまって昇天してしまう危険だってある。
下品とは生体維持に必要欠くべからざる第二のホルモンとも言われているのである。
このため、やむなく大日本下品党のお世話になり、下品の補給と自立的
下品の生成をコントロールするべくひび努力しているのである。
そしてこれはあまり知られていないことだが、世の中には貧下品症の
患者はとても多い。一説には潜在的にはほとんどの日本人が貧下品症ともいわれる。
だから、なのだ。ハレンチ行為で捕まった大学教授。
不適切な発言を繰り返す厚顔無恥な政治家。
不倫にも堂々と居直るバカ芸能人。
実は彼らは重度の貧下品症で私も専門病院で何度も会った。
さらに軽度な患者はとても多く、道端に痰を吐いたり、タバコやゴミを投げ捨てたり
人前で下品な雑誌を広げたりするのはみんな血中下品値のコントロールに
不安を持っているからなのだが、この程度の例は枚挙にいとまがない。
どうしてこんな事態に至ってしまったのか。
簡単に言えば上品で清潔で健康一辺倒の生活、これに尽きる。
テレビや新聞・広告をみれば分かるように現代はきれいで快適で健康的で美しい
ものにあふれていて、そうでなければ意味がないように錯覚させられ、
みんなそう信じて疑問に思わない。
今の世の中は表面的には人間は上品と下品が渾然とした存在であるということを認めない。
きれいで快適で健康的で美しい商品のかげには、どろどろとして不快で
不衛生で不当な立場を押し付けられた影の部分があることを認めようとしない。
きれいなマンションには構造的な業界の闇があって、
度外れた安価な商品の向こうにはゴミの山で暮らす人がいて、
おいしいハンバーグのかげには使い捨てられる森林や農地があることは
表立ってはすべて無視すべきことなのだ。
うわべのきれいでフェアで上品で快適で健康的な生活を追求した結果、
免疫バランスの平衡を失って、私たちはあちこちで下品を補給しなければならなくなったのだ。
そういうわけで、大日本下品党はこれからも活動を続けなければならない。
上品ぶった社会が続く限り大日本下品党は存在するし、近く総裁選だってあるのだ。
日本を救うのは大日本下品党です、
大日本下品党をよろしくお願いします。
室内用飛行機
子供のころ、ラジコンの飛行機などというものは、
憧れの的であったけれど、高価である上、屋外での扱いも難しく、
安全面の配慮や、車のラジコンなどよりずっと知識も技術も必要で
とても子供の手に負えるものではなかったのだが・・・
最近手に入れたのがこれ
電池とモーターで飛ぶ飛行機を赤外線で操舵をコントロールするのだがよくぞここまで小さく軽くしたものだと感心する。
高級感はないが、プルプルと旋回して飛び回る様子を見ているのは楽しい。
複雑な操作は無理だが、プルプルと室内を旋回するのを眺めて
いるのは面白く、無心に遊んでしまう。
いったい大人になった今おもちゃの飛行機で遊ぶことに、なんの意味があるのか
よくわからないが、
飛ぶこと飛ばすことに惹かれるものがあるのか、
単におもちゃに惹かれるのか、
多分両方なのだろう。
・・・ かつて竜と人は同じものだった。
あるとき彼らは二つに分かれ、一方は財と富を手にする代わりに
永遠のくびきにつながれる人間となり、これを拒んだ一派は、
何も持たずつながれず、永遠に天駆ける自由を得た。
(ゲド戦記)
そのとおり、たくさん持っていたら飛べやしない。
分かってはいるのだけれど。
夏の妖精に告ぐ!
昨日、澄み渡った空を背景に秋の野と空気に相向かわんと、張り切って出かけたのはいいのですが、蒸し暑い空気は重くまとわりつき、汗は粘りを生じて皮膚呼吸を妨げるというような有様でした!
溽暑甚だし、っていうか、暑い、蒸し暑っい!!!
このブログでもあんなに去る夏を惜しんで、夏の名残をそこここにとどめるべくいろいろ記事にしたのはたしかですが、それは夏が去って秋が来ることが前提です。
ところが実は、夏の妖精は、まだ近所をウロウロしているのです。
あまり知られていないことですが夏の妖精は人の姿をして各地を転々としています。
いろいろ差し障りがあるので詳しくは書けませんが、
夏の妖精は小太りで短髪の生意気そうな顔をした、
30台半ばにみえるアブラっぽいオヤジの姿をしています。
さすが夏の妖精らしく、見るからに暑苦しい容姿容貌ですが、
ここでは仮にホーリエ君としておきましょう。
あまりの暑さに腹を立てた私は夏の妖精を呼びつけて説教をしました!
・・・あのねえホーリエくん(仮名)、
送別会やってもらって、名残を惜しんで何度も何度も挨拶して、
涙の別れをして見送られたやつがだよ、
いつまでもうろちょろしてるのは見映えのいいもんじゃないだろう?
涙の別れの挨拶の次の日にだよ、
「いやあ、みんながあんまり別れがつらいって言うから
もうしばらく厄介になることにしました、オレって人気者だからいいよね」
なんて平気で言ってのけたら、厚顔の勘違いの主として嫌われることは間違ないよ。
そういうことなんだよ、ホーリエくん(仮名)、
夏が終るのがツライだの、夏の名残を惜しむだのみんな言っていたけれど、
それは社交辞令、リップサービスっていうか、みんな流行りモノに弱いだけっていうか、
季節のうつろいを感じる風流ごっこのひとつなんだから、
けっしてみんなが本心から九月もずっと夏にとどまってほしいなんて
思って言ってるわけじゃないんだよ。
もっとはっきり言おうか?、
君はもう過去の人なんだよ。君の夏はもう終ったんだよ。
誰も君に同情して味方する人はいないんだから、
君も大人の対応をしてだね、さっさと荷物まとめて引き取ってくれって
ことなんだよ・・・。
こうしてさんざん説教してしまいましたが
夏だ!夏の妖精のホーリエ君(仮名)だと、
ちやほやもてはやされた時期はもう過ぎたのです。
・・・そして夏の妖精はようやく南のどこかへいくのでしょうか・・・
このあたりも徐々に涼しくなることでしょう。
同時に私たちもまた、夏の祭りのような浮かれた気分を引き締めて、
地に足をつけ日々の勤めに励まなければなりません。
(私も夏に浮かれてテキトーに手を抜いた分を取り戻さなければなー、と
改めて思った、まだ暑い秋の入り口のある日の朝にこれを記す)
九月九日を歩く
九月九日は重陽の節句。
中国から伝来し、江戸時代には武家の祝日でもあり、
かつては世の中をあげて到来を喜んだはずだが、
いつの間にか古色にあせて忘れられた日だ。
昔はこの日に野宴を開き菊酒を飲み栗飯を食べて
長命と武運長久を願ったそうで、
私も昔の本を開き菊酒を真似てみる。
故事をたどり、いわれを調べ真似て酒を酌むことは、
単に懐古趣味やいにしえの足跡をたどるだけでなく、
まるで打ち捨てられた草ぼうぼうの野原に、人知れず咲く菊の花でも求めて歩くような趣がある。
これはあたかも時空を超えた秋九月の野の散歩。
学生の時分大好きで一度読んだら覚えてしまった陶淵明の詩に
ちょうどこの時節の記述があった。
露は凄として喧風息み (つゆはせいとして けんぷうやみ)
気は澄みて天象明らかなり (きはすみて てんしょうあきらかなり)
(露気は冷え、暖かい風も吹かなくなり
大気は澄み切って全天が晴れ渡っている ・・・拙訳)
焼け付くような夏の日は去って、もうこんな季節に至ったのだ。
こんな日にはどうして秋の野に出かけずにおられましょうか。。。
******************
・・と云うわけで私はこれから外出せんと欲す。
当然帰りは食用菊を買って夜は酒盛り。
(注:陶淵明の引用は原文と漢字が異なっていると思いますが
パソコン漢字が極めて愚劣なるがゆえ、簡便に記しましたので御免)
スキャナーズ ---氾濫するリモコン
これはちょっと自慢だが、我が家の家電の多くは
現在試験中のあの「脳波スキャナー」を搭載しているのでリモコン機が不要だ。
今やどこの家庭もテレビ、ビデオ、エアコン、車の鍵までリモコンだが、
これが家族それぞれの脳波のパターンを記憶することによって、
簡単に操作が可能になる。
面倒なことは何もない、機器の導入時に”キャリブレーション作業”というのがあって、
たとえば、「テレビのオン」なら頭一杯に赤色のテレビだけを何秒か思い浮かべて
そのときの脳波の状態をテレビに「家族1による『電源オン』の指令」と記録するだけである。
後は同様の要領で、ある脳波の状態を機械の動作に関連付けていくだけだ。
増えすぎてゴロゴロ邪魔なクセに、必要なときにはなぜかすぐに見つからない
コントローラーを一掃できたのはうれしいし、そもそももう探す必要もないのだから、
便利なことこの上ない。
だが先日、妻と子供の間にチャンネル争いなどが起きたときの様子だけは、
ちょっと異様だったかもしれない。
お互いより強い脳波を発信しようと、両手を宙に伸ばし白目を剥いて奇声を発し、
超能力者戦争はかくの如しか?、と思われるような情景がリビングに出現した。
結局双方譲らず、ひきつけを起こし泡を吹いて運ばれる騒動になったのだが、
まあこれもリモコン機なしの利便性に比べればかわいい日常のひとコマだ。
それより今の問題はリモコン対象機器の増えたことだ。
今やありとあらゆる機械が思念波を要求する。
テレビやビデオ、エアコン、洗濯機、お風呂や調理器、
リモコンの操作命令を数えてみたら、ざっと21機種2750項目に上ることがわかった。
この操作命令のイメージを正確に人間が記憶するのはやっかいで、
今日も温水便座のOFFの命令イメージが思い出せず
延々2時間も尻を洗ってふやけてしまったし、
昨夜はテレビに映った水着アイドルに目が行ったら、
なぜか自走式の掃除機が大暴走を始めて大変だった。
操作はリモコンに戻して、そんな労力を他の事に振り向けたら?
と時折考えないこともないが、
なんの、生活の進歩に後戻りなどないのだ。。。。
