水戸老公の難儀を御見舞ひ申上げ候
会社の上司N氏が入院して痔の手術を行うというので、A君と私で
お見舞いを贈ったものかどうしようかという話になった。
「R氏、痔だってよ。痛いらしいな、血も出るのかな」
「うむ、脱肛ってくらいだから血も出れば肛門も出る、まさに『血出痔』ってところか」
「チデジ? 地デジかあ、そう言うとなんだか先端モードの病気だな」
「でも、ちでじテレビじゃお見舞いには予算オーバーだよな」
2011年には現行のテレビはアナログから地上デジタル放送に一本化されるというが
穴ログがみんなチデジになるのだから、まさにこれが痛みを伴う改革ってことか。
「そういえばN氏、日記書いてたよな。表紙に名入れサービス付きの日記帳なんかどうだろう」
「手術の様子も書くのかな」
「なら、N氏の敬愛する永井荷風の『断腸亭日乗』にちなんで、
痔を切ったR氏の日記はさしずめ『断肛亭日乗』ってとこか」
「いいね、それサイコー!」
「わはは、それはやばいよー」
ちなみに永井荷風の日記『断腸亭日乗』の断腸とは庭に植えられていた断腸花、
即ち「シュウカイドウ」のことらしいから、悲憤(断腸の念)とは関係ないし、
もちろん断肛とも脱腸とも関係ない。
そうこうするうちに、昼休みも終わって結局まとまらなかったお見舞いの件は
たまたま近くにいたF嬢に一任することになったのだった。
こんな連中の尻拭いをさせられるF嬢も災難だが、
それもこれも私らが大日本下品党の党員という脳性の病のせいである。とほほ。
(なお、F嬢も大日本下品党の強力な活動員なので彼女に心配は無用である)
【私の告白】痔瘻(じろう)に悩む男性が辛さを語る
現代人も同様に多数の痔を患う者が多い。取材班は関係者をたどり、この病魔と闘い、手術の末、痔瘻とイボ痔を治した元患者にインタビューを行った.......... ≪続きを読む≫
ネット虜囚に唾をかけろ
R氏の毎日は忙しい。
R氏は常に世の中の動きをウォッチし、様々な人と意見交換するばかりか、
R氏の発言や行動はいつも注目の的なのだ。
朝食もそこそこに到着したメッセージに目を通し、昼は各界の識者と懇談、
夜は美女とグルメの”情報”がR氏を待っている。
情報? そう、それはただの情報。
R氏の意識の表面をなぞってはすべり落ちていくただの情報である。
R氏は一日の大半をパソコンとインターネットに向って過ごす。
R氏がふとわれに返って目にするのはほこりの積み上がった部屋と
毎度食事の粗雑なファーストフードのカラの山・・・。
仕事は行き詰まったままだし、家のことは何も手がつかず放置されたままだ。
いまや数少ない友人にもめったに会うことはない。
ネット上のR氏は気の利いたダンディーな振る舞いと、まめな応対で人気があるが、
どれもそれは「ネット上の情報」であり、パソコンに向かってR氏はたわいもないことを書き、
たまに来るコメントを待ち、来れば慌てて意識の表層で反応するだけのこと。
やっていることは日がな一日フケを払って、蚊に刺されては皮をぼりぼりと掻くことと大差はない。
ひょっとしたら自発的なネットの囚人・・・R氏自身、そう考えることもある。
だが、ネット上にいて情報への反応を繰り返す限り、現実の退屈も
努力の必要な煩わしいこともとりあえず忘れることができる気がする。
「気がするだけ」なのはR氏だってわかってはいるのだけれど、
「現実生活を細らせてまで、いったい何をするのか?、ほどほどにしろ」、との問いに
R氏は、「現実世界に何の満足と希望があるのか?」と怒って逆に問い返したため、
いまや忠告してくれる人もいなくなってしまった。
昔から現実世界を拒絶する人種は、「革命家」と「詩人」と相場は決まっていたのものだが、
いまや、「ネット虜囚」もその人種に加えねばならないかもしれない。
いつまでも満たされない思いのうずきをかかえつつ
R氏はズルズルとパソコンに向っている。
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先日ミクシー上場の折、
終日パソコンを眺めて暮らす主婦や、ブログのネタのために行動する勤め人が
ニュースで流れていた。
驚いたというより、やっぱり、という感慨。
祝祭のハンドメイド
ホリデー、伝統的な祝祭日のいくつかは、昔からの祭礼が質的要素を薄めた「経済的なイベント」の日、あるいは単に「休日」としてある。
わたしたちが意義を良く理解していない祝日は多く、春分の日や秋分の日の意義を正確に説明できるものはまれだし、正月は年賀状と初売りの期間であり、ローマの冬至祭りだったクリスマスの第一意義はプレゼントを買ってケーキを食う日としてある。
でも、人間が自然の周期と恵みの中で生まれては死んでいくという
人生の基本構造は太古から現代において変わらない。
天然資源の枯渇がより切迫した問題となって突きつけられ
環境問題が声高に叫ばれる現代においてこそ、
この自然と人間の基本構造が意味を増すとしたら、
季節の節目節目に太陽や大地に感謝の念を表してみることはまた意味のあることだろう。
とはいっても現在はすぐに企業の経済的動機が先行して意義を見えなくしてしまうから
(つまりモノの売り買いが第一意義になってしまうから)
お祝いの表現の仕方も自己流に考えてみる、個人の理解力と発想力に委ねられているともいえる。
企業の誘導に乗らず、感謝の方法は自分で考えよ、ということなのだろうか。
*
ちょうど今時分は、あちこちの店先にハローウィーンの商品が並んでいる。
本来は死者の日万世節の前夜祭、いわば西洋お盆であるが、宗教的・伝統的背景
のない日本では良くわからないかぼちゃディスプレイの日としてだけある。
もちろん、企業先導で何かを売らんかな以上のものは何もない。
アメリカではジャック・オー・ランタンのかぼちゃも、ヨーロッパではカブだったそうだで
ところ変わればやり方も当然変わる。
なんとなく、近所に成った生ったカラスウリの実に落書きしてみた。
臓器ドナーになってください
実は去年の誕生日に街頭で臓器ドナー登録をした。
自分の臓器が役に立つ、単純にいいことをしたと思って
私はちょっと社会に貢献したような気分だった。
その後、「ドナー登録された皆さんへご優待」とかいうツアーだのスリルと冒険だの
イベント案内が何通か来たが、臓器コーディネート会社もいろいろ気を使ってくれる
ものだと感心していた。
ところがある日コーディネーターと称する営業がやってきて言った。
なにやらイラついているようだった。
「当社のイベント企画には何かご不満がおありでしょうか?あまり参加されていない
ようですが。」
「いやー、御社の企画は、アドベンチャーやらスリルやら、結構活動的なものが多くて、
インドア派の私にはなじめないものがあって・・」
「はあ、そうなんですか・・・では、これなんかどうでしょうね」
営業がパンフを差し出した。
「美女と深夜の魅惑のドライブ」
「スリル満点のアドベンチャー企画!」
「二人きりで小さな旅に行きましょう」
私がどれも行くつもりはないと言うと、しまいに営業担当の男は
吐き捨てるように言った。
「あんたねー、臓器ドナー登録しておいてねー、まさか老衰で死ぬつもりじゃないよね。ドナー登録したってことは、私は寿命をまっとうしません、ってことだろうに。ええ?
登録カード作って世の中にいいことした気分になって、いい気になるんじゃないよー!
ドナーはさっさと臓器差し出してこそドナーなんだよ! うらあ!!
年寄りの使い古した臓器なんか誰もいらないんだから、
若くてイキのいい臓器を提供してくんなきゃ、こちとら商売上がったりなんだよ!
早くドナー登録者が本物の提供者にならないかって、よだれたらした患者たちがヒクヒク動く新鮮な臓器を待ってるんだよ!!
それをあんたは、ドナー会員の気分だけ楽しんで、うちの企画が気に食わないたあどういう了見だ!ああ!?」
営業の剣幕にびびった私は、美女と深夜のドライブに
行く約束をさせられたが、一体このあと私はどうなるのだろう・・・。
どんぐりの森で迷子ごっこ
公園や町内の道には、拾え切れないほどのピカピカのどんぐりが転がっているのにたいして見向きもされず、いつの間にか蹴散らされてどこかへいってしまうのは不思議でもあり、またもったいないような気もする。
だが自分のことを振り返ってみても、子供のころからどんぐりなんてつまらない無価値なものという認識が刷り込まれているようだから、どんぐりに何の感動を持たなくともそれは仕方のないことなのだろう。
もっとも、古くからどんぐりは救荒食でもあって、飢饉に備えて蓄えられたこともあったし、先の戦時下においては食料物資窮乏を救う民生対策の一環としてあちこちの街路樹にシイの木が植えられたらしい。
つまり食糧事情の改善がどんぐりの地位を低下させ、飽食の時代が止めを刺したというところだろうか。
だとしたら将来、やっと拾ったどんぐりで露命をつなぐようなことが起きないように願いたいものだ。
だからというわけではないが、去年、某ブログで見かけた記事を元にあく抜きの必要のないというマテバシイの実を拾ってきてフライパンで炒って食ってみた。個体によってはあくが強いものもあったものの、素朴な味わいで充分に食用になるものだった。
もっとも、今年もまた食ってみたいと思うほどのものでもないのだけれど。
*
* *
誰も見向きもしないピカピカのどんぐり、何か良い使い道はないものかと考えながら
木立の小道を歩いていると、いつの間にかポケットがどんぐりで一杯になっていた。
気がつくと見上げる空の上の方はすでに群青に染まって、
かろうじて木の間から地面に届く最後の残照が帰り道を
途切れ途切れに朱に染めているのだった。
早く帰ろう、帰らなければ。
これそこの方、お待ちなさい。森から持ち出せるどんぐりの数は決まっていて、
その数を超えると森から出ることはできません。
おおそうか、では余分などんぐりは森に返すとしよう。
・・・まあここは森ってほどじゃないけどね。いつか森になるかな。
なればいいのに・・・。
そこで道々、ポケットのどんぐりを地面にあいたセミの穴に転がし入れながら帰って来たのだが
来年の春にはどんぐりが芽を出して、いずれ木立が森になる様子を想像してみた。
つまらないただのどんぐりではあるけれど、
中にはきっと未来の森がぎゅっと詰まっているのだ。
秋色の服を着て出かけた日
秋を楽しむのは紅葉狩りや秋の山に出かけるばかりではない。
晴れた空気を通して木々や町の景色が見て歩きたいとふと思い、
今日は車を置いて徒歩とバスで出かけることにした。
連れ立ってぶらぶら歩く道々には勢いの止まった草がたたずみ、
木の実や濃い色の花がこぼれだして
遠くの眺めもどこか淡くかすんでいたが、
そのどれもが秋の色をしている。
秋の空気の通して眺める色って好きだな。
これ、とっておけないかな。
どんぐりや木の葉ならともかく、この空気を透過する光だからね。
いっしょにびん詰めにしておければいいのにね。
へー、さっそく写真とレンズの話すると思ったのに、意外なこと言うんだ。
そうさ、僕はね、それを頭の中にとっておくんだ。頭の中の引き出しに。
それは、スナフキンの受け売りだから認めません。ぜひびん詰めにして
私に持ってきて。
うん、景色を収めるガラスのびんはね、10月31日に秋と冬の境目が訪れる
北の岩屋にしかないんだ。ちょっとひとりで旅にでてもいいでしょうか。
認めます。
旅には大量の酒と本が必要です。
認めません。
・・・・・
とりとめもない話をしながら歩く見慣れたレンガの歩道の色も
秋の日の中では特別な色に見える。町も公園もすべてが秋の色だ。
やがてたどり着いたバス停の前には、
ハナミズキの木が大きく枝を広げて、赤錆色に変わった葉に日の光を浴びて立っていた。
木の前のバス停に立ち、色づいた木の葉に照る秋の微光を受けて
ほのかに染まった互いの顔を見つめ合うと、
私たちもまた秋の風景の一部となった。
秋の田野を行く
暴風雨が去って洗いあがった空には、白い雲の洗濯物が
たくさん干してありました。
こんな秋空の下、野原を行くと、秋の日を浴びてたわわに実る草の実に
小鳥たちが群れる様子があちこちに見ることができます。
野においてもまた実りの秋は等しく訪れて
小さな命の群れを慈しみ育くんでいるのですが、
この国の季節と自然の豊かさ、おおらかさはすばらしいと
実感する瞬間でもあります。
先日、思いもかけず遠方より我が家に新米が届きました。
新米の袋には案山子の絵があったのですが、なるほど、
稲穂に群らがる鳥たちを見るまでもなく、米もまた草の実ではあります。
鳥も人も草の実に生かされていることに変わりはないのですね。
秋の実りに心より感謝、感謝。
新米もまだ草の実の匂いかな (蕪村)
家に迷い込んだニョロニョロの話
夕方、日の落ちる前から立ち込めた黒雲はしだいに厚みをまして雷雲となり
遠くから雷鳴が聞こえてきた。
吹き降ろすような冷ややかな風が天候の急変を告げると
大気中の粒子も電荷を帯びて、にわかに緊張がみなぎってくる。
誰も触っていないのに静電タッチセンサーに付きの家電が
明滅を始めると
もうすぐ稲妻と雷鳴のスコールショーの始まりだ。
雷に反応して点滅を始めたのはタッチセンサーの枕元ランプ。
ニョロニョロは雷で電気を帯びて光るのが特徴の電気トロールだから
電灯のデザインにはぴったりだ。
ずっと我が家にある枕元灯だが、もちろん本物のニョロニョロのように感電することはない。
***
ニョロニョロでなくても血沸き肉踊る雷雲の中
雷に反応して光りだしたニョロニョロは何を照らすのか?
きっとそれはニョロニョロの島へと続く雷鳴の道
私はお前についていこう
そして雷の止むまでお前を眺めていよう。
夜天望洋
中秋の名月、秋の夜空を見上げる「月見」とは
日本人にはもっとも馴染み深い「天文イベント」だ。
月日あい望み、丸く大きく満ちた月から煌々と照る光を浴びれば、
単なる太陽の反射光という以上の意味を見つけたくなるのは
昔の人ならずとも無理はないとも思えてくる。
でも科学の進歩で月や天体に関する知識や情報は少し昔よりも
格段に多くなったはずだが、実物、本当の夜空や天体に接する
機会というのは逆に少なくなっているだろう。
夜も電灯や広告塔があふれ、人工甘味料で味付けされた清涼飲料のような
純度の低い夜に私たちはなじみすぎた。
最近月を眺めましたか?
北斗星は家の屋根のどのあたりにかかりますか?
星座をいくつたどれますか?
引っ越してから一番星を見たことがありますか?
たまにはぼーっと夜空を眺めて、日月星辰とともに過ぎる人間の生もまた
天体運行、宇宙の活動の一部であるということを確認してみるのは悪くない。
ただ、天気予報によればどうも今年の中秋の名月の晩は曇りのようなので、
団子と酒の日になるかもしれないが、天体の存在を思いやるだけでもいい。
せめてそのときはテレビで写真を見てみようかと思ったら、
横長の画面にあわせて引き伸ばされた月が歪んで映っていた。
誰がこんなテレビの規格を作ったのだろう。
これをまん丸お月さんというほど私は寛容でない。
月見の夜空はやはりじかに触れてこそよし。
(写真はイメージ)



