酒とホラの日々。 -45ページ目

抱きつき魔の恐怖


朝からずっと降ったりやんだりを繰り返していた時雨れ模様のある11月の晩。


F君は会社帰りに住まいの寮のある駅前で一杯飲んで、いつもと違う帰宅コースをたどって帰る途中だった。ちょうど店も途切れて暗い夜道にさしかかったところでまた雨が降ってきて傘を差したのだが、何歩も行かないうちに後ろから肩を弱く叩くものがあった。


振り返ってみると、誰もいない・・・。 気のせいだったのだろうかと思ってまた歩き出すとまた誰かが肩に触ってくる。立ち止まって体ごと向きを変えて目をこらしたのだが、暗い雨の夜道に切れかけた電灯が点滅しているくらいで、歩いている人間はどこにも見えなかった。おかしなことがあるものだと思ってまた歩くと肩をぽんぽんとたたいてくる。力はごく弱いのだがしつこい。 そして立ち止まって振り返ると誰もいない。


これは何かの霊だろうか。 確か通り魔事件があったのはこのあたりではなかっただろうか。花を手向けてあったのを見たことがあるような気がするが、犯人はまだ捕まっていないのだとか。浮かばれない霊がまださまよっているのだろうか。いやいや、先日年寄りが行き倒れになって結局家族は何日も引き取りにも来なかったということが話題になっていたこともあった。。。考え出すと浮かんでくるのは現代社会の陥穽のような陰惨な事件ばかりで、これでは化けて出るのが一人や二人いても不思議はないかもしれない、と思ったところで、また後ろからぽんぽんと来た。


そういえば昔、雨の晩になるとカワウソが通行人の番傘の上に乗って肩をたたいたり悪さをしたことがあったという話があった。無理矢理カワウソを捕まえようとすると、顔をひっかいて逃げてしまったそうだ。


F君はオカルトネタに一般人よりも強い嗜好を示す。UFO・霊・オーパーツ、何でもござれだ。
妖怪であれ霊であれ、これは是非にも正体を確かめてねばと思い立ったF君は、何食わぬ顔をして歩きながら、次に手を出してきたら、不意を突いて捕まえて原因のしっぽでもつかんでやろうと考えた。
 
 ・・・ぽんぽん・・・  来た!


その瞬間、F君は傘を放り出すと同時に猛スピードで体を反転させ、確かに数歩先にいた「そいつ」につかみかかって、のどに力を込めて可能な限り脅迫めいた恐ろしげな声を絞り出した。

「おとなしくしろ、いうことを聞け!」 

だが、なにやら両手で捕まえた「そいつ」は誤認だったのではと思うのには1秒もかからなかった。腕の中には恐怖に引きつって目をむく「人間の」女性がいた。

「うわわわわっ」 F君が何と言いようもなくうろたえて手をゆるめると、女性は向こうに走り去って行ってしまった。


F君は呆然として自分の傘を拾うと、傘をしばるひもの先に何かついているのを見つけた。それはどうも女物の手袋のようだった。傘を閉じたときに傘をまとめるそのひもは、マジックテープで留める仕掛けになっていたのだが、マジックテープゆえに満員電車の中ででも誰かの手袋をくっつけてきてしまったらしい。 傘を開いて たまたま後ろに回っていたひもがぶらぶらして自分の肩をたたいていたのだった。


 あは、なーんだ。


やれやれ、そうと分かればもう長居は無用だ。 だがきっと近日中にここにも「ちかんに注意」の看板が立つことだろうか。 妖怪や霊の恐怖は晴れたが、こんどは抱きつき魔に転落する恐怖がF君を襲ってきたのだった。捕まってありのままを話してもたぶん誰も信じてはくれまい。


やがて遠くからパトカーの音が聞こえてきた。





秋の風景を眺める

 

秋の日のなかで見渡す景色はきらきらと輝いてまぶしい。
それは単に葉や草の密度が下がって光がよく回るようになっただけだともいえるし
傾いた黄道が地平に近づいて、太陽の光が直接目に入ることが多くなったから
に過ぎないともいえる。

 

それでも秋の日はひたすら澄んで穏やかで、
夏の間のぎらぎらと存在主張をあおっていた光はどこにもない。
斜めに差し込む日に照らされて影を引く地面や木々はニコニコとしてそこにあるだけだ。
ただ穏やかにそこにあることで完結している。

  

こんな秋を好む人が多いのは、秋の刻むリズムが人の本来の歩調と似ているためだ。
外からの刺激が旺盛な時期は社会的な同調圧力にも似て、
人々を外物との干渉や活動に駆り立てるが、
外への繁茂や影響を控えて自己充足しているかのような秋は
自分自身のバランスとリズムを思い出させる。

  

人は日々の糧や社会的な評価やレッテルを得るために、個人的な心の声に蓋をして働くが、
社会的な要求と心の声の乖離は埋めがたく、そこに努力することに疑問や苦痛が生まれる。
それは人に大切なことは何をするかだけではなく何者であるかであり、
この何者であるかとは社会的な基準や尺度で表せないためだ。

  

秋の風景に存置された静けさに、ただあることで充足するものを見て取れたとき、
人は社会的なくびきを逃れて、ただ自然の中に命あることの理由と美を理解することができる。


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社会的に教育され植え付けられた観念に沿えば、何もせずぼーっとしていることは
愚鈍なこと・怠惰なこととして罪悪感を伴うものだが、
なんの意図もはさまず、秋の景色をただ眺めることで自分の心のストレッチ
をすることでもある。普段、社会的調整で汲々としている心を解放してやることは必要だ。

「社会的自分」を豁然と離れることははすなわち、
世界のあり方と自分の存在の関係を理解することである。




秘剣闇の爪 阿弥陀が原の血闘!


その日、不意打ちを受けて額と腕に手傷を負った伽普天若衛門ではあったが、
敵の再度の襲撃を確信して薄闇の中に剣を握り、敵の動きを察知することに
神経を研ぎ澄ましていた。  暗い宙を見つめることしばし・・・。

・・・来た。

かすかな空気の揺らぎに敵の気配を感じ取ると、若衛門それまで控えていた灯りを
一斉にともし、迫る敵を目視するやいなや抜き放った剣を大上段から振り下ろし
拝み撃ちを狙っていった。しかし手練れの敵は、目先一寸で神速の剣をかわすと、
さらには飛翔して若衛門の後方へと離脱を図ったのだった。

 おのれ、逃すか!

振り向きざまに剣を下から斜め上方へと斬り上げると確かな手ごたえが
腕に伝わった。

仕留めたか? 見ると敵はすでに事切れていた。即死だった。

愛剣に貼りついた激闘の残滓を丹念にぬぐいながら、若衛門は
振り向きざまの逆袈裟斬りの感触を思い出していたが、それはまさに

秘剣「闇の爪」の奥義に近づいた瞬間であった。

**

伽普天若衛門(きゃぷてん・じゃくえもん)の剣は唐の国より渡来した電撃剣で、
2千ボルトのパワーで敵を切り裂く。(蚊取りラケットというらしいが、
中国製で千円くらい、電圧2000ボルトでも電流(アンペア)が低いので
殺人には使えない)
我が家ではレーザーブレードとかライトセーバーと呼んでいる。ふぉっふぉっふぉっ。
秘太刀


上記の戦いで分かったことだが、上から狙うとふわりと逃げる蚊も
下からの攻撃はかわしにくいようだ。
なるほど飛行機だって、一撃を受け出力を上げて上方に離脱するのは困難だろうから
蚊にしたって同じことなのだろうか。

今年はいつまでも暖かいのはいいのだけれどまだ時折蚊の襲撃を受けるのはうっとうしい
ものだ。こうして蚊との戦いはまだしばらく続く。



人生晴れ時々雨、ところによっては変わり者

『長年の研究の結果変わり者に幸福な者が多いことがわかった』とは、

人生の達人水木しげる氏の言葉である。 絶えず世間の評価や比較を気にして不安に付き転ばされて右往左往するのでなく、自己の人生観や価値観を軸に行動できることこそ人の幸せへつながっている、ということなのだろう。


たとえばもうひとつ、フランスの作家ブールジェの言葉を引用すると、
 「自分の考えている通りに生きなければならない。

 さもないと人は自分が生きている通りに考えるようになってしまう」

という警告がある。

これはつまりは手段と目的の錯誤のことである。


自分が生きている通りに考えるとは、企業やマスコミなどがたれ流した情報やライフスタイル、主張、趣味、思考法などに単に踊らされて流されて生きていることを、自らの意思のように勘違いし、挙句はそのクズ情報を正当化することが人生の目的と化してしまうことだ。


企業やマスコミは自らの利得のために人々を誘導するわけだが、個人個人にとってマスコミの情報とは、本来は腹を満たすための手段の選択肢のひとつに過ぎないが、この手段がいつか個人個人の目的に取って代わってしまっているのが現代の多くの日本人の姿ではある。

手段が目的化して手段の追求だけが人生の航路そのものになってしまっている人間のなんと多いことか。


人は欲望を充足させようとし、マスコミがそれをあおり、企業がそれで利益を上げることに狂奔している。
そんな世間の風潮や流行に追随せず、自覚的に行動するものはいつの間にか変わり者あつかいされてしまうのだ。


世間の流れに過剰適応した私たちが自分の心の声に自覚的に行動するのは難しいかもしれないが、いいではないか、たまには自覚的に変わり者をやっても。




秋の呼吸

ケヤキ

外を歩けば、どこもかしこも秋の色。

今頃の気温や日射しの具合は春にも同じような時期があるはずだが、

眺めも違えば、気候の感じ方もまるで違う印象なのは不思議なものだ。


春の萌え立つ空気もわくわくするが、

秋は空気も光もすべてがいとおしい。


木も草も虫もまさに冬支度の最中だが

外に向いていたエネルギーが内へと向かって行く秋の坂は

人にも内省的な気分をもたらし、自己の内面へ意識を向かわせる。

春夏が肉体と外への成長の季節であるなら

秋から冬は精神的な充実の季節であるともいえる。


また、冬に向けて去っていくものたちに限りある生を感じ、死の断片を感じるために

あるものがすべていとおしいのだとしたら、

私たちの毎日も死を隣に意識することで、毎日の一挙一動を慈しんで

実りあるものとなることだろうか。とても難しいことだが。


はかなげな秋の空気に触れるのは、自らのはかなさを呼吸することでもある。





連休中につき低出力ブログにて御免

はや11月になってしまったが、今年は気温の低下が鈍。寒いのが苦手な私としては暖かいのはありがたいのだが、ただ、秋の剪定や南国系の植物を家に取り込む冬支度のタイミングもつかみ難い。


植物によっては十分に気温が下がりきらないうちに剪定をすると、切ったところから吹き出した新芽が寒さにやられて本体も痛めてしまうことがあるので時期の選択は難しい。。。・・・そういってこの連休も庭の手入れをさぼる口実を作っているわけでもあるのだけれど。

それでもうちの近所をみると年寄りが多いせいかせっせと庭の手入れをやる家が多いようだが、まあ私も生きて年寄りになったらちゃんとやるからほっといてくれ。。。


それでもまあ、あまり手の行き届かないところにも目を向けてぐるりと庭を回ってみると意外な物体に出会ってちょっとうれしいこともある。


泥の巣

これ、泥でこねたとっくり状の虫の巣のようだが
いったい何の虫?


ミノムシ

正統派のミノムシ。とってしまうのはもったいない?


おお!密林にこんな太古の遺物を発見!

化石

いや、以前私が買った踏み石だった。


そういえば東京とその近郊には火山もないのに、近頃温泉施設が次々できる。
「化石海水温泉」というのだそうで、
太古に閉じこめられた海水が千何百メートルもの地下で暖められたのを
ボーリング技術が向上したおかげで掘り出すことが可能になったためらしい。

こんな化石が生きている頃の出汁が入った太古の温泉か。
というわけでこれから温泉に出かけルことに決定。


連休中につき、ブログも手抜きにて御免!


夢遊病者の暴走


日が暮れて、ビルのネオンが点灯し
リアルの希薄な夜空が地上に降りてきても
夜気には人工化合物の虚構臭が付いて回る。
地上にいる全員が共犯の共同幻想としての夜だ。
だから私たちは混ぜ物の夜の中を笑いながら泳いでいく。

華やかな大通りからそれた小路に「真実の夜」を売る露天が出ていた。
アセチレンランプの灯りの下、売り子の兄さんが言う
---今は都会じゃ手に入らない、100%天然物の夜だよ。
そこで酔いにまかせて一缶買って帰り、
家のベランダで夜風に吹かれて開けてみた。

虫の音のする草むらは闇に埋もれて見えず
月のない夜空には葉ずれの音もよそよそしい。
曖昧な暗闇の色は漆黒にはほど遠く
かすんだ空にまばらに見える星に感動はない。


何ということだ
粗悪品の夜をつかまされたのだろうか。

---リアルガイツモ虚構ノ作リ物ヨリ優レテイルトハ限ラナイ

この夜は幻想でも、虚構に突き転ばされた自分は本物だ。
今がリアルかどうかより、今がワイルドかどうかを知りたい。



手軽なインターネット呪い代行サービスをご利用ください


今は、えっ!こんなものが?と思うようなものでも何でもインターネットで申し込みができる時代だが、実は私達もそんな中の一つ「インターネットお呪いサービス」を利用したことがある。憎悪の相手は前の会社の専務「G」である。G専務は会社に不都合な監査結果を捏造し、責任をある部署に押し付けた挙句その部署を子会社に社員ごと分割譲渡してしまったのだが、すべては自己保身のためだったのだ。
 
その部署にいた社員こそいい迷惑で、突然の子会社への転籍にみんな憤慨したものの、社員個人が会社組織と喧嘩して勝てるわけはない。そこで悪党のG専務になにか一矢を、と思い冗談半分で有志を募って呪いサービスを申し込んだのだった。

もっともインターネットとは言っても呪いは本格的(?)で、「相手に大きなダメージを負わせるほど依頼主への反作用も大きいので注意しましょう」というような説明書きもあったくらいだ。早い話が、相手の死を望んだら自分も廃人になるくらいの覚悟が要りますよ、というものだ。
なるほどこれは怖い。

もちろん私たちは誰も相手を呪い殺すほどの覚悟も真剣さもなかったし、そもそも憂さ晴らしの半分冗談なのだから、G専務に少々困った目にあわせてやれという程度の安い呪いを申し込み、代金3万円ほどを振り込んだのだ。

ところが、申し込み受付のお知らせが来た翌日、G専務は心臓麻痺をおこしポックリ死んでしまったのだった。特に心臓に疾患があったわけでなし、前日までいたって健康で、今回の死は本当に唐突で意外なものだったらしい。

今度は私たちも困惑した。「ちょっと呪い効きすぎ」「過剰サービスだよな」「殺してくれとまでは頼んでない」「反作用ってのは本当に来るのかな?!」

「いまから申し込みのキャンセルってワケには、、、いかないのかなあ・・」
「ちょっとお呪い会社に問い合わせてみようか・・・」

A君は食欲が半減し、C君は便通が滞り、S君は毎晩枕元に妙な影が見えると言い出した。W君は毎夜飲んでは暴れ、かくいう私もなんとなく酒がうまくない。

こんなことが続いたある日、当のインターネットお呪い会社から問い合わせの回答が届いた。
「呪いを実行する前にGが氏お亡くなりになりましたので、料金はかかりません。いただいた代金は返金または他のサービスへの振り替えも可能ですが、いかがですか?」
というもので、同社の手がけるサービスラインナップのカタログが添付されていた。つまり呪いはなかったのだ。みんなほっとしたことは言うまでもない。

こんな思いはこりごりだ、呪いから解き放たれたような気分とはこういうものなのだろう。そこで私たちは相談した結果、代金をインターネット墓参り代行サービスに振り替え、差額は香典に宛ててもらうことにした。

・・・後日厄落としと称して一同集まる機会があったのだが、ほっとしながらも誰もあまりしゃべらず黙々と飲んだ。 ちょうど届いたG氏の香典返しを前に、口にこそしなかったが、呪いなんてことはするもんじゃないな、との思いはきっと皆同じだったのだろう。。





雨上がりの朝の宝石を拾う


傘も役に立たない秋の嵐は終夜吹き荒れて、

私も帰り道たいして歩いたわけでもないのにさんざんに濡れてしまった。

秋の晩の雨風とは厄介なものだ。冷たい雨風が躯にまとわりつき不快なばかりか
暗い夜道とあいまって人を不機嫌にさせる。
なんてついてないんだ、こんな時期にひどい目にあったと、悪態つかずにはおられなかった。

翌朝、一転して晴れ上がった道を歩くと、

色づき始めた街路樹の葉がアスファルトの歩道一面に散らばっていた。
本格的な落ち葉の季節にはまだ早いので控えめながら、絶妙の分量だ。

落ち葉2006
ありふれたいつもの歩道も洗い上げられてもう少し飾り立ててみたくなったのだろうか。
前の晩歩行者をずぶぬれのひどい目に遭わせた天気の埋め合わせのつもりなのだろうか。
それにしてもわざわざ歩みを止めてただの路面のデザインに見入るのは

何と無駄な役にも立たない無駄なことであるのか。
それでもただひとり眺める、思いもかけないきらきらした眺めを何と言い表せばいいのだろう。

「俺様の宝石さ」



落ち葉200610


思わず口を突いて出たのは夭折した天才レーサー浮谷東次郎の言葉だ。
(「俺様の宝石さ」浮谷東次郎 / 筑摩書房 東次郎の単身アメリカ滞在日記)

とても東次郎のように自己の可能性を追って世の中に体当たりしていくパワーは
ないが、社会的なリズムや価値観の縛りから離れたところに自分だけの宝石が
見つかるのは誰だって同じことだ。

俺様の宝石さ


「誰か他人の宝石にあらず、マドンナの宝石にあらず、俺様の宝石さ」

私の好きな小倉百人一首


私は小倉百人一首が嫌いである。子供のころ無理やり覚えさせられそうになったが、何言っているのか意味はわからなかったし、大人に聞いてもやっぱりワカラナイし、テレビや漫画や面白いものがたくさんあるのになんでこんな面白くないものをやらねばならないのか理解できなかった。つまり極めて無垢で「健全な」子供だった。


一生懸命覚えようなどという子供もまれにいたが、きまって大人に媚びる嫌なヤツでその不健全性に例外はなかった。 そして大人になって歌の意味が分かるようになると、やはり健全な子供に教えるべきものではないということがよく分かった。

百人一首とは下品な大人の遊びだったのである。


たとえば有名な第一首、


秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ  / 天智天皇 


「かりほのいお」とは農作業のために田んぼ脇に立てられた仮設小屋だが、天皇ともあろう人がいったいそんなところで何をしていたのか。 秋の景色を眺めに郊外に遊行に出たというのはいい。だが衣手が濡れるとはなんだろうか。 まさかそんな掘っ立て小屋で野宿のようなことをするわけもない。 ポイントは苫が荒いというところであるがなるほど、掘っ立て小屋の壁に当たる部分の草が粗く編まれているから、という言い訳ですべてが見渡せる。


つまりこの歌の意味はこうだ。


(訳)
稲刈りも終わった田んぼへ、歌のネタになる秋の風情はないかと遊びにきてみたところで尿意をもよおしたのだが、田舎の田んぼに厠などあるわけがない。 とはいえ、やんごとなき身分の朕があけっぴろげに御開チンするわけにもいかず、田んぼ脇の掘っ立て小屋に入ったのだが、壁が草で荒く編んであるだけなので外から丸見えだ。 だがここは背に腹は代えられず衣で隠しつつ用を足したのだけれど、おかげで袖がびしょびしょに濡れてしまったことだよ。


**


こんなのはまだまだあるが、この下品のオンパレードには恐れ入る。 いくらでも挙げられるのだが、弱小ブログとはいえ公共メディアなので、大下品はまたの機会に扱うとして、下品の中程度、定食なら松竹梅とあるうちの「竹」程度の下品歌をもう一つ挙げてみよう。


君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ  / 光孝天皇


一見これのどこが下品かと思えるような歌だが、山登りやハイキングに親しむ人なら分かるだろう。 公衆衛生施設のない野山でやむなく用を足すことを「キジ撃ちにいってくる」、とか「お花摘みにいってくる」というような表現をすることがあるが、当時も同じことを春の野においては婉曲に「若菜を摘む」と言ったのである。 ちなみにこの場合は大用のこと(野糞)である。


だから現代語訳はこうだ。


(訳)
春の野遊びの最中に糞がしたくなったのだが、供が携行したおまりとり器はあいにく君が大糞こいたため一杯になってしまったから、私は藪に分け入って若菜を摘んでくるとしよう。
(注:おまりとり器とは糞便回収容器のこと)


なお、「衣手に雪はふりつつ」については諸説あって専門家の中でも解釈が分かれているが、
早春の寒さの中で尻を出すわびしさを表現したものという説と、紙がなかったので袖で始末をしたということを雪がついたと婉曲にみやびな表現をしたという説が有力である。


いやはや、こんな下品な歌を集めて小倉百人一首を編んだ藤原定家の才能には恐れ入る。時代を超えて下品な人種に支持されるのもうなずけるというものだ。


小倉百一匹ワンコ