私の好きな小倉百人一首 | 酒とホラの日々。

私の好きな小倉百人一首


私は小倉百人一首が嫌いである。子供のころ無理やり覚えさせられそうになったが、何言っているのか意味はわからなかったし、大人に聞いてもやっぱりワカラナイし、テレビや漫画や面白いものがたくさんあるのになんでこんな面白くないものをやらねばならないのか理解できなかった。つまり極めて無垢で「健全な」子供だった。


一生懸命覚えようなどという子供もまれにいたが、きまって大人に媚びる嫌なヤツでその不健全性に例外はなかった。 そして大人になって歌の意味が分かるようになると、やはり健全な子供に教えるべきものではないということがよく分かった。

百人一首とは下品な大人の遊びだったのである。


たとえば有名な第一首、


秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ  / 天智天皇 


「かりほのいお」とは農作業のために田んぼ脇に立てられた仮設小屋だが、天皇ともあろう人がいったいそんなところで何をしていたのか。 秋の景色を眺めに郊外に遊行に出たというのはいい。だが衣手が濡れるとはなんだろうか。 まさかそんな掘っ立て小屋で野宿のようなことをするわけもない。 ポイントは苫が荒いというところであるがなるほど、掘っ立て小屋の壁に当たる部分の草が粗く編まれているから、という言い訳ですべてが見渡せる。


つまりこの歌の意味はこうだ。


(訳)
稲刈りも終わった田んぼへ、歌のネタになる秋の風情はないかと遊びにきてみたところで尿意をもよおしたのだが、田舎の田んぼに厠などあるわけがない。 とはいえ、やんごとなき身分の朕があけっぴろげに御開チンするわけにもいかず、田んぼ脇の掘っ立て小屋に入ったのだが、壁が草で荒く編んであるだけなので外から丸見えだ。 だがここは背に腹は代えられず衣で隠しつつ用を足したのだけれど、おかげで袖がびしょびしょに濡れてしまったことだよ。


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こんなのはまだまだあるが、この下品のオンパレードには恐れ入る。 いくらでも挙げられるのだが、弱小ブログとはいえ公共メディアなので、大下品はまたの機会に扱うとして、下品の中程度、定食なら松竹梅とあるうちの「竹」程度の下品歌をもう一つ挙げてみよう。


君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ  / 光孝天皇


一見これのどこが下品かと思えるような歌だが、山登りやハイキングに親しむ人なら分かるだろう。 公衆衛生施設のない野山でやむなく用を足すことを「キジ撃ちにいってくる」、とか「お花摘みにいってくる」というような表現をすることがあるが、当時も同じことを春の野においては婉曲に「若菜を摘む」と言ったのである。 ちなみにこの場合は大用のこと(野糞)である。


だから現代語訳はこうだ。


(訳)
春の野遊びの最中に糞がしたくなったのだが、供が携行したおまりとり器はあいにく君が大糞こいたため一杯になってしまったから、私は藪に分け入って若菜を摘んでくるとしよう。
(注:おまりとり器とは糞便回収容器のこと)


なお、「衣手に雪はふりつつ」については諸説あって専門家の中でも解釈が分かれているが、
早春の寒さの中で尻を出すわびしさを表現したものという説と、紙がなかったので袖で始末をしたということを雪がついたと婉曲にみやびな表現をしたという説が有力である。


いやはや、こんな下品な歌を集めて小倉百人一首を編んだ藤原定家の才能には恐れ入る。時代を超えて下品な人種に支持されるのもうなずけるというものだ。


小倉百一匹ワンコ