酒とホラの日々。 -44ページ目

晩秋の音 冬の音


休日の夕方になど、PCに向って書き物などをしていて、気がつくといつの間にか日が暮れて窓の外は真っ暗だったりすると、夕闇と静けさのなかにひとり取り残されてしまったような気分になる。 日曜の夕方ともなると住宅地の道路では暮れかけたころには人足も絶えて、静まり返った窓の外から聞こえてくるのは枯葉の落ちる音だけだ。


日の暮れた庭から不規則な間隔で音がするのでなんだろうと思ったところ、落ち葉が虚空を掻いて地面に降り積もる音だと分かると、改めて自分は灯りも生活音もない空間にひとり置いてきぼりを食ったような気になってしまう。

ただ、雪国にいると冬には窓辺で雪の降り積もる音がするのが分かることがあるのだが、それに比べるとまだ落ち葉の音は温度と色があるようだ。

また、落ち葉の立てる音と音の間にも無音に見えて、何がしかの音がある。 遠くから聞こえる車や人の声のような明確な音のことではなく、音にもなりきれないほどの空気のざわめきであるが、これは秋には秋独特の静寂を構成する音があるように思う。

  しずけさは かくのごときか冬の夜のわれをめぐれる空気の音す

   

これは斉藤茂吉の短歌である。


冬、雪の中の無音は歌人の神経を研ぎ澄まし、歌人は驚きをもってこれを歌に詠んだようにも見受けられるが、冬は秋よりももっと動くものがなく、雪は吸音材でもあるので無音の厚み・重みが秋のそれとはまた一段と異なるのだ。

こうした真冬の無音に比べれば、晩秋の静寂にはまだ穏やかなゆとりがあって、長い夜も寂々たる静けさもさほどのものでもない。秋の空気が動く音は、落ち葉が空気をゆする音だろうか。家路を辿る家族の足どりだろうか・・・。

  

  
暗くなった部屋でPCを片付け、廊下の向こうの扉をあけると、一転してたちまち私は家の中の灯りと騒々しさの洪水に包まれたのだが、こうしてみると晩秋から冬の短日と静寂は、家族の中の灯りとにぎやかさを引き立てるためにこそあるように思えてくる。

皆様もどうかこの時期の長く静かな夜を厭わず楽しめますように。

  




美しい日本の噂


実はオレは政府系広告代理店ではたらいている。
大衆情報配信調査業務というのがおもな仕事だが、
早い話が世論の誘導の一翼を担って、美しい国へと、
世の中・国家が正しい方向へ進む一助をなすのがミッションだ。

つまり、時の政府の方針にそぐわない政治家が人気を集めたりしたら
当の政治家のスキャンダルや悪い噂を流したり、
また反対に当局に都合の悪い不祥事などが起きたら、
崖っぷちに犬を置いてきたりどぶ川にアザラシを放したり
いかがわしい宗教法人の話題を盛り上げたりして
世間の興味や関心を分散させるので結構忙しい。

そもそも当局は、社会的な意思決定に下層階級の意見など聞きたくはないから、
政治的決定に関わる話題に注目が集まるのは好ましくないのだ。

だから、芸無し芸人を俳優だの女優という名目で飼っておいて、
適当にくっつけたり別れさせたりするのも、わが社の大切な日常業務だ。
下層階級はつまらない芸人のどうでもいいような私的な事件をことのほか喜ぶので、
世論の分散、重要事項からの目くらましには、とても有効な手段なのだ。

もちろん、この伝統的な『下層階級』という呼び名だって、今では『一般市民』というが、
こんな洗練された呼び名が定着したのも私らの仕事のおかげだ。
あんただって、「下層階級」と言われては穏やかでいられないだろうが、
「一般市民」だと思えば、なんとなく社会の参加権利を手にしたような気になるだろ?

実体は変わらなくとも呼び方を変えただけで『一般市民』はだいぶいい気になったのだから
わが社の仕事ぶりの効果のほどは分かってもらえると思う。

ところで今度の仕事は、ちょっと手が込んでいる。
詳しくはいえないが軍権・軍備の拡張と同時に産業界の便宜に関わることで、
外敵の攻撃の脅威を適当に煽りつつ、
経済需要の創出も行うという国家基本運営上の基本ミッションだが、
依頼主による噂のシナリオはこうだ。

  「追い詰められた北○鮮は、ついに日本侵攻計画を固めたが、この脅威に備える必要がある。
  法律や組織の整備が必要になるのは当然だが、どうも侵略の後に

  民間設備の継続利用を考えるかの国は、攻撃対象を限定してくるらしい。
  どうやらテレビを有効な大衆操作手段と考える北○鮮は、地デジ契約のある家は攻撃しない
  だからテレビはさっさと地デジに切り替えておくに限る」

ちょっと無理のあるシナリオだが、シナリオは依頼主の「程度」を反映するのだから仕方がない。
だからこんな噂が流れてきたら、みんなガタガタ言わずに噂に踊らされて欲しい。

下層階級は余計なことを考えなくていいんだよ。


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以上、今日の記事は先日飲み屋で同席した政府系機関にお勤めのF氏の談話を、
このブログを借りて再構成してみた次第です。

ああっ、決して私が言ったわけではありませんから、こっちにモノを投げないでください。





初冬へ向かう白い花

まだ十一月だというのに、どこも歳末・クリスマスらしい品揃えが店頭を飾っているが
年々歳末ディスプレイの開始時期が早まっているような気がする。
商業ベースの季節イベントに私たちの季節感も修正していかねばならないのかもしれない。

よく知られたことだが、今頃にたいへんよく見かけるシクラメンの季語は本来は早春であるし、

夏の季語とされるイチゴの出荷の最盛期は十二月である。

すっかり人工養殖栽培の出荷品の鉢花を買うようになってしまった生活は季語や季節感の

再編成を迫られるのだが、それでも戸外の地面に植えられた植物には
かろうじて季節のリズムがある。

もともと寒冷期の花は少ないのだが、
晩秋から初冬へと移る今時分、庭ではサザンカヒイラギの花が満開だ。

比較的早くから咲き始める赤いサザンカが地面を染め始めると
こんどは白いサザンカが目を引くようになる。
サザンカは赤色が目をひき印象も強いが、実は花びらの量感もたっぷりの白いサザンカは
よく見ると、控えめながら大変な利発な美人がいたらきっとこんな印象だろうかとも思わせる

ものがある。


白サザンカ (クリックで大きくなります)

一方、地味であまり気にとめる人もいないが、ヒイラギも
棘のある濃緑の葉の付け根にびっしりと小さな花をつけていて、
かたまって咲く白い粒のようなかわいらしい花の集団は
寒さの中子供たちがぎやかにおしゃべりをしているようだ。
日に日に弱って行く日の光をものともしない元気のかたまりだ。


ヒイラギ (クリックで大きくなります)


霜や雪を思わせる晩秋の白い花はこれから訪れる冬のさきがけでもある。

世の中にあふれる車に乗せられて運ばれていくモノは・・・

子供の頃は大好きだった車だが、大人になって歳を重ねるごとにうんざりすることのほうが多い。
今の世の中が、車だけに便利に車と車の経済効果だけに便宜を図るようにしかできておらず、人間も車のために金と時間と忍耐を割くのが当然で、車のメリットとデメリットを比較することはタブーとなっているかのようだ。

私は気が短く、渋滞に気長に付き合うことなど真っ平だし、車の外出のために酒が飲めなくなるというのもイヤだし、車の手入れのために時間を割くのもごめんである。車に乗って郊外の遠いショッピングセンターに行くのも嫌いだが、街中や近所の商店街をシャッター街にして郊外の大規模ショッピングセンターを作る流れも、自動車販売会社への「便宜」に他ならない。

なぜ日用品程度のものを買うのに、人は車に乗って遠くまで出かけていかねばならないのか、という疑問は欧米ではずいぶん昔から議論され、人間本位のこじんまりした街づくりへの転換がだいぶ進んでいるようだが、目先の利益追求以上の視野を持ちにくい日本では転換は難しいかもしれない。

それどころか、最近は自然回帰と称して一人で田舎に住んでたった一人の移動のためにでかい車を使って、自然林をつぶして家や庭を造って、電気やガスを大量に消費してゴミを大量に出す都会の暮らしをしている者がちやほやされていたりすることもある。


20代位の人たちと話すと、車が人格の一部になっているような者がいたりするのはよくあるが、なんのことはない、たいていは空っぽの自分の中身に車で蓋をしているだけなのがよくわかる。
さらにこれがいい年して中身スカスカの車オヤジとなるともう悲惨だ。


チューネンを過ぎて、車とゴルフと週刊誌ネタくらいしか話題がないオヤジなどと同席すると非常につらいものがある。もちろん当人への憐憫として。


車をはじめモノだの会社だの世のなかに垂れ流される情報にしか楽しみを見いだせない大人って、いったい何のために年を重ねてきたのか。


当人は自分で稼いだ金で車を運転し、自分の力で世の中を渡っていくように錯覚しているだろうが、自分の内にではなく社会や外物にしか自分の拠り所を持たない人間は、家畜同様、産業社会という貨物車に乗せられて時代に運ばれていくだけである。


言いたくはないが、はっきり言った方が良い、ああはなりたくないものだ


車が経済に多大な影響を与えたことは確かで経済社会の象徴だが、中身が無くとも車だけはあればなんとなく充実したような錯覚人間を作り出した面からも現代社会の人間不毛の象徴でもある。




冬来なば 腕にブスリと注射針

冬も目前なので、このたび会社でインフルエンザの予防接種を受けることにした。
 
ご存知のことだろうが、この予防接種というやつは筋肉注射なので
腕に針をブスリと刺した後よく揉みこむ必要がある。

これは痛い

痛いのも不快だが、生のインフルエンザウィルスからつくったワクチンなんていう
異物を、針で穴開けて人間様の体に流し込むのが心地良いわけがないし、
人によってはまれに体調を崩したり意識の混濁が起きることもあるなどと聞くと
これは穏やかではない。

さらに接種前には注意書きが配られたが、

「この注意書きを読んだ以上何が起きても自己責任ということなのだろうか」、

と不安にもなる。
 
それでも接種前後の留意点や日常生活のことが書かれているので
通りいっぺんのことではあるが一応A君と一緒に目を通してみた。



・・体調不良や熱のある場合は接種を見合わせること・・

    ふむふむ、残念ながら平熱だ。眠たい以外どこも悪くはない。

・・接種当日は激しい運動・アルコールはさけ、安静に努めること・・

「ええーっ、酒飲めないんだってよ!」

「何を言うか、よく読んでみろ、そんなことは書いていない」

「だってここにアルコールは駄目だって」

「だからお前は国語力がないって言うんだよ。
いいか、よく読んでみろ、『・・アルコールはさけ』、『アルコールは酒』、
『アルコールをとるのは酒』からだけにしろって言ってるんだ。」

「そうか、わかった。
アル中がよく消毒液のアルコールやラジエーターの不凍液を飲んだりすることがあるけれど、
ワクチン接種後は体調が安定しないから、
酒以外のアルコールは断って静かにしていろと先生はおっしゃっているわけだ。」

「そうだよ、酒で厄払いして静かに過ごすようにって、心遣いというわけだよ。
だから、今日はぜひにも飲みにいかねばなるまいよ。」

「ははーなるほどー、至れり尽くせりの注意書き、痛み入ります」
A君は注意書きの紙片を押し頂くように頭上に奉げた後、ポケットにしまった。


* *

・・・というわけで本日はタラフク飲んできましたが、
注意書きの解釈や酒の影響には個人差がありますので、
万人にはお勧めしません。






晩秋から冬へ・・・

晩秋の道を歩くと、
べそかいた後のようなくしゃくしゃに乱れた暗灰の空から
ひやりと冷たい空気が降りてきた。

11月の静寂は10月の静けさよりも深く冷たいが、
中秋には確かにあった音も賑やかさも、草木に引き込まれて
内へ地中へと取り込まれてしまったようだ。
 
申しわけ程度に渋茶色の葉をまとった木々も、
やがて枝も幹も裸に形をあらわにする日もすぐだ。


ケヤキやエノキの背の高い木立を抜けたところで
パラパラと雨が落ちてきたのだが、
このところ天気予報の降水確率とは無関係によく雨に出会う。

そこで仕方なく雨を避けようと足を早めると、
その先の道をサザンカの花びらが一面に赤く染めていた。


時節は山茶花梅雨、時雨れ空の季節だ。


花びらに降りかかる時雨の道を抜けると
雲間から弱々しい晩秋の日が差し込んできたのだが、
乾いた冷たい風が通り抜ける冬はもう目の前だ。


サザンカの道






家庭防災訓練の『実施報告』



近頃ひょっとして当局はすでに天変地異の確定情報をつかんでいるのだろうか?


混乱を避けるため発表はしないがそれとなく下準備を進めるように当局の誘導があるのかもしれないと、勘ぐりたくもなるほど災害対策関連産業は活況を呈しているようだ。
災害対策グッズやマニュアル本、都市勤務者への帰宅支援体制の整備など、官民挙げての取り組みの強化もよく目に付く。

そんな中、うちの会社でも防災用品の配布があったので、まず、非常食を食ってみた。 平常時に食ってしまってどうするのだ!?、という話もあろうが、食ってみなければ非常時に本当に食えるかどうかも分からないではないか。

しかも非常食は輸入物である。
第一次世界大戦の時など、戦地にならなかった日本などはどさくさにまぎれて欧州へ物資の輸出をして儲けたのだが、何を送っても売れるので、しまいには水や砂利をつめた缶詰も輸出したというくらいなのだから、非常食などといっても油断するわけにいかないのだ。

   模擬訓練 (少し前はこんな非常食ばかりだったが・・・)


ところが、レンガのようなアメリカ版カンパンのようなモノは予想外に甘く旨かった。この味に少々勇気付けられて、私も生来の面倒くさがりの重い腰を上げ、我が家の災害対策グッズの整備に取り掛かってみる気になったのである。

スーパーのコーナーを覗いて見ると、私が無関心で無知だっただけかもしれないが、非常食も今はバラエティーに富んでいて、おでんだの、ふかふかの柔らかいパンの缶詰だの、従来のカンパンだけの非常食とは隔世の感がある。

本当にバラエティーに富む非常食の数々だが、これもやはり一通り試食は必要であろう。万一のときにもなれない食事がのどを通らないというのは問題だし・・・

そこで急遽、非常時対応模擬食事訓練を実施することになったわけだが、備えあれば憂い無し、われながら見事な心がけといわざるを得ない。

缶詰のおでんも、パックの五目飯もなかなかいける。

さらに、雪山の遭難などではブランデーが必須だそうだから、そうなると酒も必要だと気がついた。
これも訓練が必要だ。当然試飲してみる。

すると非常食だけではもの足らず、冷蔵庫から肴も出すことになってしまった。 それでは災害訓練にならないではないかって? いやいやなんの、災害時には電気が止まれば冷蔵庫のものだって腐ってしまうから、真っ先に食ってしまわなければならないだろう。 すると、これも災害対策訓練のうちである。

買い込んである備蓄の酒だって、持ってあちこち避難するわけには行かないのだから現地で消化は訓練のうちである。

こうして災害を想定した模擬訓練を通じて非常時に何が必要か知ることができたので訓練は大成功であった。


訓練を通して得られた教訓  「非常時に必要なもの、それは二日酔いの薬である。」

魔女の宅配便


スポーツ紙のお色気ページの下の広告欄などに「魔女の宅配便サービス」

という広告が載っていることがあるがご存知だろうか。

メイドの次は魔女のコスプレつきデリヘルかな?と考えるあなた、甘い。

もしサービスに電話しようと考えたあなたが、彼女もいない一人暮らしの青年だったりしたら、
もう魔女に魅入られてしまっている

確かに電話して頼むとやってくるのは黒のミニ、黒のオーバーニーソックス、
黒の胸空きセーターに黒のコート、本物の魔女のように黒ずくめの女性ではある。
おおこれはなんともなまめかしい、などと思ってまったら、ああもう危ない。

さらにこのサービスの気持ちのよさといったら、それはもう魔法のようなのだが、
そこで喜んでしまったら、すでに手遅れだ。

本当の魔法はあなたが気持ちよくサービスに昇天してしまった後に効力が発揮される。
ふとわれに返るとあなたの前にいるのは年も不明なほど無残に老いさらばえた
本物の老婆だ。そしてその日からあなたは何の疑問も抱かず、老婆の世話をしながら
暮らす青年ということになってしまっているのだ。

そうなるとあなたは同居老人の介護のため時短で会社勤めをし、
朝夕年寄りの身の回りの世話をして暮らす近所でも評判な感心な青年になっている。
ある意味、結構ななことだともいえるが・・。

魔女も今はなり手がおらず、魔女界の高齢化の進むことは人間界以上だから、
引退した魔女の世話をどうするかは深刻な問題なのだ。
幸いに人間界はいい年して結婚もしない男が増えているから、
そこに目をつけた魔女界が解決策として「魔女界の宅配便」を登場させたというわけなのだ。

魔女の現役最後の魔法として、すけべ男に自分の身の後の世話をさせる術をかける、
いわば魔女の「引退魔法」というわけだ。

得体の知れないサービスに耽って世の中の風紀に問題を起こしそうなスケベ男が
おとなしくなると同時に、魔女の介護問題も解決させて、同時にスケベ男は感心な
青年となる。

怪しげなサービスに近づくのは慎重であるべきだが、結果として、
この場合はきっと世の中全体としてはいいことなのだろう。。。
  

あの日、あの時、そして今これから

’89年、ベルリンの壁が崩れた数日後、私のもとに崩壊した壁のカケラが届けられた。
極色彩のペイントの一部が見られるコンクリートのカケラはきっと西側に面していたのだろう。
わずか数日で歴史的な現場の遺品が日本の一個人の手元に届けられたことに世界の転換期を実感し、希望に満ちた将来を予想した人は多かったはずだ。たとえそれがどんなに根拠の希薄な希望だったとしても、すがりつかずにはおられないほど長く重い鬱屈した時代の積み上げがそれまでにはあった。

だが、その後訪れた’90年代は大きな変化をもたらしはしたが、希望に満ちた色とはまったくかけ離れたものだった。

実際のところ、時代の渦中にいて変化に翻弄される人間というのは時代がどちらに向っているのか把握するのは難しいのかもしれない。今、目先の波をどうしのごうかということだけで精一杯の大多数の人間には。

もちろん私もそうした中の一人だ。 だが、見渡してみれば日本の風景はあのころを境にはっきりと変わってしまったことが分かる。

90年代の前半頃までは、近所にはまだ小さな店が並んだ商店街があって、毎日子供を連れた買い物客が行き来し、お盆や歳末にはに店の間には万国旗が張られ、福引で人がにぎわっていたがそれは穏やかな日本の風景そのものだった。

だが今はどの店にもシャッターがおり、一部で後から大手資本のコンビニが営業をしているものの、通りには家族が連れだって歩く姿はなく、埃と騒音を巻き散らす車がスピードも落とさずに走り抜けていくだけだ。

最も直接的な原因は、グローバリズム、市場原理主義が徹底されたために、悪慣行ばかりでなく、営々と積み上げてきた社会公正のためのな「非効率な」ルールも破壊することになってしまったためだともいえる。

こんな現状と希望の見えない未来に処方はあるのか?凡愚の私には分からない。


だが、私たち一人ひとりが、経済の効率化と金儲けが究極の目的なのではないと認識することが第一歩だろう。 普段の経済行動において、折に触れ、それは単純に儲かるだけでなく自分の幸福にプラスですか? 社会の公正のためにプラスですか? と自問してみることは意味がある。

  

世の中の忙しい大人の人たちへ



「貧しいということはたいした問題ではありませんが、むなしいということはしばしば命取りになるのです」

(『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』K.ヴォネガット・ジュニア/ハヤカワ文庫)


世の中の大人は日々の糧を得るために忙しく毎日を暮らしているが、
どうか子供と向き合って話をしてほしい。
世の中の子を持つ親は、それぞれの子供たちに
折にふれ、子供が授かったときにどんなにうれしかったかを話して欲しい。

そのうれしさは、意図を持って何かを得たり、作り上げた
喜びとはまた別格のものであること。
たとえば仕事の完成や結婚といった社会的な手続による喜びとは全く
次元を異にする、まったく理由のない広大な喜びであること。
その喜びにはよりどころとなる理由や定義がないが、それゆえに無限の
喜びであるのだということ。
赤ん坊は自分では何もできず、周りに手間をかけるだけのようでありながら、
それは何の見返りも強制せず無垢で無償にして無上の喜びをもたらしてくれたということ。

それが生まれてきたあなたたち子供みんなが持っているものだということ。


さらにもう一つ、冒頭で言葉を引用した、『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』から、同小説に掲載されているウィリアム・ブレイクの詩を紹介してみたい。人が本来無垢で無償の喜びをもたらす存在であることをこんなに簡潔に鮮やかに描いた詩を私は他に知らない。

 


かつて 私の誕生をとりしきった天使は言った
喜びと笑みで形作られた小さきものよ
行きなさい、そして愛しなさい
たとえ地上に お前を助けるものが何もなくとも


 
(原詩はウィリアム・ブレイクの著作集「雑篇」に掲載されている。)


ローズウォーターさん