笑門来福 2007年の始まりに
あけましておめでとうございます
皆様穏やかな年の始まりを迎えられたことと存じます。 喜びの予兆をはらんだ新たな年の始まりのめでたさをこうして共有できることを、大変喜ばしく思います。
しかしながら、今年一年を過ごすうちには
きっと楽しいことばかりではなく、時には様々な困苦や
難題が目の前に現れることがあるかもしれません。
どんな事態に直面しようとも、にこやかに人生の荒波を
渡っていくことができますよう、
あわせて心よりお祈り申し上げます。
逆境においてもいつもにこやかでいること、またユーモアを忘れないことといってもいいのですが、まさにユーモアは高次の世界観を獲得する手段ではあります。対立する要素や相矛盾する事柄を笑いで包含するためにはより高次の視点に立つことが必要です。まさにユーモアをたたえた笑いは、より高い世界観を獲得する手段にほかなりません。
どうか皆様、笑いとユーモアをたたえて一年を暮らされますように。
(^O^)
年末のご挨拶
今年も様々ありましたが、おかげさまをもちまして何とか年の瀬を迎えることができました。
日のめぐることにおいては年末も年明けもなんら変わることはないはずですが、
それでも人の世の営みの区切りとして、この時期に日常の喧騒を豁然と離れ、
我が身の帰し方行く末を静かに眺めてみるにはいい機会でもあります。
より良い生活を求め、また人並みを維持するために
利得の支配する社会の荒波の中を流される私たちも、
一時世の中の欲得を離れて、
ふたをしてしまってあった本来の自分の心をいたわってあげたいものです。
そんなわけで、本日よりCJはしばらくこの太陽系第三惑星「地球」を離れて、
小惑星e78「地ん球」に行ってきます。
小惑星e78は極寒の星のため、血液の凍結を防ぐため
温泉と不凍液(血中アルコール値の維持)は欠かせません。
当然車の運転など不可能ですが、太陽系の田舎星のため電子通信も不可能となります。
このため元旦からアメブロの新機能「テレパシー更新」による記事のUPは行いますが、
皆さんへのコメント・返信はできなくなると思われます。
年末年始のしばらくの間の返事遅延の失礼、何卒ご容赦願います。
斯くの如き次第で、数日間のお別れとはなりますが、
どうか皆様におかれましては良いお年を迎えられますよう心よりお祈り申し上げます。
今年は私の日常同様迷走する当ブログへのご来訪と、
暖かいコメントの数々、本当にありがとうございました。
(七転び八起きで2007年へ続く)
君という光
私たちは山の上の展望台に立っていた。
その日も私たちは、もどかしさを感じながらも途切れることなく話をしていたが、この地点に至って続ける言葉を見失い、かすんだはるか足下の町や遠くの山の稜線を見つめていた。
しばらくして連れを振り返ると、何か言いたげに、好奇と期待をこめた視線を向けていたが、こんなときに話をするのはいつも私、それは私の役目。 私は話し始めた・・・
「かすんだ大気を通してデフューズされた光に照らされた地上は、
それぞれの輪郭がかろうじてわかる程度で、
その様子の多くは想像に頼らなくてはならない。
光に浮き上がった姿はその実態そのものではない。
常に光は真実を明らかにしない。
言葉もまたこのこの光のようなものだ。
言葉もまた事物の実態そのものではなく、
事物のすべてを表わされるわけでなく、
事物を示唆するための媒体に過ぎない。
私たちは「コミュニケーションの多くを言葉に頼る」のだけれど、
それば即ち、「言葉で表せないことを、言葉で表現しようとする行為」である。
日々の会話も、文学も、今まさにここにいる私たちもまたしかり。
真実に近づくのには、言葉とともに「想像力」と実態を知る努力が必要だ。」
連れは、おそらくは期待通りの内容に目を輝かせて私の話を聞いていたが、
そこまで話したところで、私にこの話をさせたのは連れの企みであった
ような気がしてきた。
想像力と実態を知る努力なんて言ってしまったが、こいつにははいつもこうしてはめられる、、、、と思うと同時に連れが体を押し付けてきた。もう手遅れだった。
ヨガでアンチダイエット
30貫男のA君、何を思ったかヨガ宣言をしていました。
軽薄な流行に批判的なA君にしては珍しい行動です。
別に今回のヨガブームが軽薄というわけではありませんが。
「どうしたいったい?、ヨガでデブが直るとでも思ったわけ無いよな?」
「余計な事言うな。本気で痩せるつもりなら、こんな非効率なことなんかしない」
「インストラクターが美人か?」
「男だ」
「ヨガで馬鹿も絶対直らないぞ」
「うむ、馬鹿はおまえ同様、不治の病だ」
「じゃ、なにか悲しいことでもあったのか?
ヒッピー世代じゃあるまいし、行者のマネか?」
「・・・実は、焼肉食い放題だ」
「え???」
なんでも、ジムのスタッフと懇意で、月に1度の慰労会に
ただ同然で参加させてもらえることになったのだが、
さすがに部外者でジムの客でもないのに飲み食いするのは
コンプライアンス上問題でもあり、ジムの会員となるにあたって
一番楽なヨガコースを申し込んであるとのこと。
このいつもの慰労会がジムと同じ系列の焼肉レストラン(?)なのだとのこと。
ヨガコースに参加してるといっても、A君、気の向かないポーズは
はなからバカにしてやらないし、適当にぷらぷらしてサウナに入って
それで焼肉かい!?
A君、ますます脂ぎってきたような・・・。
まあ、いずれにせよ、
ヨガの行者が痩せているのは、単に本場のご当地の食糧事情が悪いからだ
という説はどうやら正しいようだ。
蒼ざめた宇宙飛行士
カプセルの中にアラームが響き
覚醒しようとした私を、猛烈な吐き気と頭痛が襲った。
活動を再開しようとする私を世界が拒否して混沌界に押しとどめようとするかのようだ。
これはコールドスリープシステムの不備だろうか、
カプセル内の与圧の調整はどうなっているのだろう。
それでも私は途切れた記憶を必死でたぐってこの世界の入り口を探した。
すぐに現れたモニターを確認すると、私が星間宇宙船に搭乗後
コールドスリープに入って20年が経過していた。
まもなくD57星系の惑星eに到着する。かつて宇宙フロンティア開拓時代に
殖民星として大量の地球人が入植した惑星eにネイティブの地球人が
訪れるのは120年ぶりとなるのだ。
コールドスリープの期間もプログラムにも問題がない、
計器類も順調だ。
それにしてもこの頭痛と吐き気はなんだろう。
やがて到着した私を待っていたのは母星地球からやってきた
宇宙飛行士としての大歓迎だった。
何万人もの歓呼の声に迎えられ、凱旋した大英雄のように
赤いじゅうたんの上をこの星の司令官のもとへ導かれた。
だが大観衆の前で、私は吐いた。 吐いて吐いて身をよじり、
胃液と涙と鼻水にまみれてのたうちまわった。
空っぽの胃から出る黄色い液体のすえた臭いにまみれて私は
コールドスリープ前に酒盛りをして飲みすぎたことを思い出したのだった。
20年越の二日酔いは宇宙の闇のように深かった。
アミダラ女王を国家首班に ―――民主主義と自由という名の専制君主
先日国連のアナン事務総長がイラクの惨状を評して「独裁主義のほうがましだ」と発言したことが話題になっておりましたが、なるほど、小さな子供まで含めて一般市民の痛ましい犠牲の絶えないグチャグチャの状況を語る必死のアピールです。
でも、イラクを引き合いに出すまでもなく、人間社会にとって民主主義+自由主義経済のセットによる体制というのは本当に正解なのだろうかとは誰しも考えるところではないでしょうか。
現代は徳をもって政道を貫くなんていう考え自体が死滅して、経済のための民主主義は利得の調整だけが政治の本道とすることに誰も疑問すらもたなくなっております。権力を市民に開放したはずの近代市民の民主主義は、多分にお題目だったにせよ過去の徳目を失って、際限のない欲望に根ざす利得が支配する体制となってしまったようです。
いまさら愛国心だの道徳心だのを強調されても、議員宿舎問題や日銀の総裁問題のように醜聞を垂れ流す下種な連中が平気で要職に据えられていたり、それがまた居座り続けられるのでは説得力も何もありはしません。
そこでゲスな人種とその代弁者が政道に携わるのが悪いのだとなれば、一般的な経済的利害を超えた人徳に政治を任せるという発想が出てくるのも不思議ではないかもしれません。
もちろん天皇親政なんてないでしょうから、民主的手続による女王(国王)を選ぶというなんだかスターウォーズみたいな世界が現出するのを夢想するのも面白いかもしれませんねえ。
王政なんてとんでもない? 王政は絶対悪で市民の民主主義に劣るのかという疑問を考えるのに面白い事例があります。
アメリカの独立戦争時の話ですが、ご存知の通り、開拓地アメリカはイギリスと独立戦争をを経て自由の国として独立を果たしております。
このときイギリス国王の軍隊と戦ったのは、開拓民を中心とした一般市民の自由アメリカ軍です。ところが、アメリカの先住民にとっては開拓民からなるアメリカ市民は侵略者だったわけですから、アメリカ先住民はイギリス軍と同盟してアメリカ市民軍と戦うことになりました。また、当時の黒人奴隷や元奴隷は「アメリカ市民」とはみなされませんでしたから、開放と自由を求めた黒人はイギリス国軍に参加してアメリカと戦うことになりました。さらには均質な市民社会からはじき出された浮浪者や体制外の人間もイギリス軍に参加して、自由市民のアメリカ軍よりも国王の軍隊のほうが、多様な人間の受け入れに寛容だという事態が発生してしまいました。
皮肉な事態ではありますが、もちろん一面だけを捉えてよしあしを判断できることではありません。
それでもこの事例を思い出すとき、
私たちはひょっとして不寛容な「自由と民主主義という専制制度」の世の中を生きているのではあるまいか?という疑念にとらわれることがありますね。
年末年始、酒の上の一興にそんなことを考えてみるのもまたいかがでしょうか。
無色透明なクリスマス
クリスマスを筆頭に商業化した現代の祝祭イベントにも、今もってまだ一片の意義があるとしたら、外向きに生きる私たちが内向きに目を向けるきっかけであることだ。
私たちは普段、社会的理由に引きずられて自分の心の声にふたをして生きることを余儀なくされている。多くの人は経済的動機以上の意義を見出せない仕事に追われ、せめて「世間並み」という背負いたくもない荷物を背負わされ、上りたくもない長い坂をひたすら歩いては多くのことを犠牲にしている。
家族や恋人と過ごす時間、自己の内面に向き合う時間、自然と向き合う時間、どれもが経済効率の元では常に譲歩を強いられて、二次的な余りカスをあてがうべき時間とみなされているようだ。まさに経済的自由には個人的不自由が伴う。
不自由を意識しているうちはまだ良いが、自らの問いかけを忘れ、生活の手段であった経済的動機が絶対無二の目的と化すと、人は経済に隷属してしまうことになる。生活手段で仮の姿だった経済的理由が人生の道程そのものに取って代わってしまうのだ。
こんな私たちの日常は常に外の社会の動静を気にして仕事のご機嫌を伺ってびくびくと暮らしていることになるが、そんな中でもクリスマスのような商業イベントであっても、祝祭には家族や恋人や自分の内面や身の回りの自然に目を向けるきっかけが得られるだろう。
普段後回しにしてはいるが本当に自分の大切なもののことを考え、心と気持ちの大きな部分をそのために使うことの喜びを再認識することこそ祝祭日の意義である。
皆様の祝祭日もどうか大切な人や大切な心と向き合う時間でありますように。
年の瀬 忙中閑無し、心有り
年もいよいよ押し詰まってあれもこれもやらねばと思いつつ、実はたいしたこともできないまま、気ぜわしさばかりがつのる毎日です。
皆さんにおかれては会社・家庭とも年内の片付け仕事のはかどり具合はいかがでしょうか。
私は今日は宴会もないので、正月前の散髪ついでに温泉に寄って帰ってきました。今や東京周辺には天然温泉目白押しですので、帰り道にほんのちょっと寄り道をすれば、山奥気分で源泉掛け流しの贅沢に浸ることもできるのですが、温泉ついでに付属の理髪店で髪すいてビール付きの会社帰りは、うまく時間を使えてもうけたような気にもなります。
え?忙しいといいつつずいぶん余裕じゃないかって
そりゃ私は私の人生を生きるために働いているのであって、働くために生きているわけではないので、心の健全性を保つためにはこういうことも必要なことです。
すっかり温まって温泉を出ると、たまにどこかで見かけた顔もちらほらあって、ごく簡単に挨拶だけして帰途につきました。
年のくれ さもいそがしとあふ人の たヾひとことで行きわかれれぬる
誰しも共感するような年の瀬の情景を、技巧のカケラすらなく素朴に切り取って見せたこの歌の作者はなんと足利尊氏です。南北朝動乱期の戦乱に継ぐ戦乱を生きた武将であっても、こんな日常の生活感溢れる歌を素直に詠む心をもっていたのですね。
わたしたちもまた、忙しさに心をなくさず、忙しさのなかに生活を楽しむ心は忘れたくないものです。
年末中華宴会の失われた輪
こんな私にも一応付き合いというものはあって、この時期は人並みに宴会の予定をこなさねばならない。 もっともつまらない仕事の延長宴会には極力付き合わないようにしているので、一部世界では受けが大変悪い。
なんと言われようと、業後にも暗い精神作用を受けるために時間を費やすのは最低限にするのは生活の基本なのだ。
その意味でも業後もプライベートも会社ノリで過ごせるやつの鋼の無神経には本当に敬服する。
それはともかく本日の宴会は中華料理だったのだが、会社宴会のためには全く働かないが、プライベートは大変まめな私である。今日も会社とゴシップに限定されない話題が飛び交う飲み会は楽しく、きれいな店で上海方面の多彩な料理と香り豊かなハウスメイドの紹興酒をあおるうち、どうした弾みか人類の起源に話題が移っていた。
知ってのとおり、人類の起源は分かっているようで分からないことが多く、いったいいつ猿人から分かれたのか、どこで発生したのか、こうした旧人と現生人類の間をつなぐ化石証拠が乏しいことは人類起源に関するミッシングリング(失われた輪)とも呼ばれている。
人類発祥の地にしてもアフリカに生まれて全世界に広がったとするアフリカ単一起源説や、世界各地で生まれてそれぞれの地域で進化したとする多地域起源説などがあり、学問に各国各地域のナショナリズムが絡んで決定打が出ない。アフリカだけでなく、中国も、ヨーロッパもそれぞれに人類が進化し真っ先に文明を築いた世界の中心の栄誉の奪い合いである。
だが結論から言えば、最初の人類は中国人であるに決まっている。
旧人と新人(現生人類)をつなぐ中間の人類の証拠がないことがその証拠なのだ。知ってのとおり中国人の悪食は世界一で、脚のない物で食わないものは親と机だけといわれるほどだし、あの「水滸伝」なんかを読んだ人なら、いたるところに食人の記載が出てくるのを承知しているだろう。
もうお分かりのことだろう。
地球上に真っ先に発生した人類である中国人は、直前まで生息していた旧人を食い尽くしてしまったのである。それならば、旧人と新人(現生人類)をつなぐ化石証拠が見当たらないミッシングリングの謎も説明できるというものだ。
地球上最初の人類の栄誉は中国人に。多彩な料理を生み出した中国文明はすばらしい・・・。
中国酒で乾杯した今日の宴会はちと飲みすぎた。
静かな森
秋から冬にかけては小鳥が窓の外を頻繁に行き交う季節だ。
次々に現れる鳥を見ているのは結構飽きないもので、
何かを呼びかけるようなさえずりを聞いていると、
鳥の言葉が分かったらまたどんなにか楽しいのだろうかと考えることもある。
もっとも、鳥の言葉に熟達した人の話によれば、
鳥の話はたわいもない天気のことくらいしか話題がないというのだけれど。
目の前に現れるのはセキレイ、ヤマガラ、オナガ、メジロなどで、ごくたまにキジバトや
ヒヨドリがやってくる。どこかへ移動するのかムクドリはこの時期あまり姿を見ない。
私にとっては手のかかるやっかいな庭であっても、
野生の小鳥たちの生活圏であることも確かで
えさの少ないこの時期、行き来する彼らのために市販ののえさでもそっと置いてみようとも思う。
もっとも余計なことをしては自然のバランスを崩さないのだろうかと
野鳥の知識のない私は判断に迷うところではあるのだが。
また、近くに散在する木立には今も狸が住んでいるらしいのだけれど、今年は子ダヌキが現れたとのこと。
子ダヌキの話題を届けてくれた近所の大人も子供たちも、静かに話す声のうちに
誰しもどことなくうれしさがにじんでいたようだった。
こんな都市部の住宅街でも様々な生き物がささやかな生活を営んでいて
彼らもまた同じ空間を共有する隣人や同居者だ。
各戸の庭と庭から連なっていくささやかな森が、
どうか永く長閑でありますように。
年末のクリスマスから正月はうわべの信心が大変高揚する時期であるけれど、
野生動物の惨めさでできた天国ばかりに心を奪われずに、
静かに身の回りの自然にも目を向けてみたい。

