無色透明なクリスマス
クリスマスを筆頭に商業化した現代の祝祭イベントにも、今もってまだ一片の意義があるとしたら、外向きに生きる私たちが内向きに目を向けるきっかけであることだ。
私たちは普段、社会的理由に引きずられて自分の心の声にふたをして生きることを余儀なくされている。多くの人は経済的動機以上の意義を見出せない仕事に追われ、せめて「世間並み」という背負いたくもない荷物を背負わされ、上りたくもない長い坂をひたすら歩いては多くのことを犠牲にしている。
家族や恋人と過ごす時間、自己の内面に向き合う時間、自然と向き合う時間、どれもが経済効率の元では常に譲歩を強いられて、二次的な余りカスをあてがうべき時間とみなされているようだ。まさに経済的自由には個人的不自由が伴う。
不自由を意識しているうちはまだ良いが、自らの問いかけを忘れ、生活の手段であった経済的動機が絶対無二の目的と化すと、人は経済に隷属してしまうことになる。生活手段で仮の姿だった経済的理由が人生の道程そのものに取って代わってしまうのだ。
こんな私たちの日常は常に外の社会の動静を気にして仕事のご機嫌を伺ってびくびくと暮らしていることになるが、そんな中でもクリスマスのような商業イベントであっても、祝祭には家族や恋人や自分の内面や身の回りの自然に目を向けるきっかけが得られるだろう。
普段後回しにしてはいるが本当に自分の大切なもののことを考え、心と気持ちの大きな部分をそのために使うことの喜びを再認識することこそ祝祭日の意義である。
皆様の祝祭日もどうか大切な人や大切な心と向き合う時間でありますように。