地上の愛は、プライスレス
この地球というのは妙なところだ。愛はお金では買えないと流行の恋愛小説にも書いてあるし、テレビのCMもはやり歌も繰り返しわめいているのに、これはみんなウソである。
どこに行っても愛の販売所や斡旋所が溢れているし、路上販売や無店舗販売もあれば、電話で出前だって気軽に頼めるのだ。そもそも新聞雑誌には広告が多数掲載されているし、毎日勧誘メールもたくさんやってくる。
実際、このたび観光にやってきた私も、多数の販売所の立ち並ぶヨシワラ、ヨコハマ、カワサキ、それにオゴト、ススキノ、などというところで様々な愛を購入できて満足している。
それに一度、昼間、黒服のシンキ臭い女が「神様の愛を信じなさい」と路上でがなっていたので、「いくらだ?」と聞いたら、物陰でタダで愛をくれたこともあった。地球人ではこうした「なんぱー」とかいう無償の愛の交換も盛んであるらしい。私はこれをきっかけに路上や酒場でタダの愛もいろいろと調達してみた。
もっとも紳士の金星人としては、下等な地球の原住民相手とはいっても紙切れやタダというわけにも行かないから、彼らにはこっそりとお礼を与えておいたのではあるが。
これは愛への依存とスリルを与えてくれる媚薬のようなもので、私から地球人へのプレゼントだ。
さて、長期の滞在を終えた私は金星に帰ることになった。ふと目にしたテレビのニュースでは手のほどこしようのない新型のエイズが発生して死者激増の懸念があるといっていたが、私の素敵なプレゼントも地球人の感受性ではそのようにとらえられるのだろうか。
まあ愛と死は裏腹なものだ。どうか地球人の愛を通じてせっせとスリルを広めてみんなで楽しんで欲しい。
霜の朝
朝早く、霜を踏んで歩きながらとりとめもなく考える。
家から会社に行くまででさえいろいろな局面があるのだが、日常の人生もまた然り。
会社や世間というバスにのって窮屈な思いをしながらもなんとなく運ばれて行く場面。
自分の足で目的地へ歩く場面、寄り道をしてみる場面。
だが、普段通る道も、休日に通りかかった時と通勤の時とでは見え方も気分も違う。
散歩の先にはたいした目的もないけれど利得を心配する心もなくて、心はのびやかだ。
つまり自由とは目先の実益にとらわれない自発的な行為であるということを
散歩を通して知ることもある。
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ここから独り言ですが、どうも最近、と言うかもともとなのかも知れませんが
一般的なブログというスタイルにあわせてモノを書くのがもどかしいような気がします。
元々一般的なブログに期待されるようなスタイルや内容を書くつもりは全くないのですが、
(こんな本を読んだのこんなモノを食ったの、こんな映画を見たのとベタな事を書くくらいなら
何も書かない方が百倍ましだと思っているので)
どうもブログでは長文や連作に不向きでもあり、ブログ文で表現できるワクが今の気分と
合ってないのかも知れません。。。うーむ。。。まあボチボチ書きます。
武道修行と酒
今日は入手困難な酒をもらったのでさっそく飲むことにした。
ほかではどうなのか知らないが、東京のあたりでは常軌を逸したした人気で
酒呑みたちが文字通りよだれを垂らして追い求めている酒であるらしい。
飲み屋などでもこの銘柄を店に置くと客の反応が違うらしく
誇らしげに「入荷しました」と張り紙をしている店も一つや二つではない。
酒にはちとうるさい私ではあるが、それ以上にへそ曲がりであるので、
山賊のように湯飲み茶碗にがばがばとついで呑んでいるとどうしたタイミングかB君がやってきた。
B君は柔道家にして空手も剣道もこなす後輩である。
ワカゾーだがこの酒のことも知っていて恐縮するB君に、私はがばがばと酒を注いでやった。
B君は好青年だが呑むと目つきが座って話がくどくなるのが玉に瑕なのだが、剣道以外は筋力的に難があってたいして強くもないので、うるさくなったら、懸垂のたかだか20回もできないようなヤツは認めん。とでも言っておけばいいのだ。
かしこまっていたB君だが、呑んだら今日もやっぱり絡んできた。
「captain-jack先輩は以前からいろいろ本を読んでおられましたが、武道には論理は不要か、あまり意味のないことではないですか?」
ホーレきた、めんどくさい話は御免だが、一応相手をする・・・
「ではおまえの武道とはいったい何のためにあるのか」
「心身を鍛え、自分と家族と社会を守るためですが、
理論やお経だけでは強くなれません。というか邪魔にもなります」
「では聞くが、おまえがいくら鍛えようと、フィリピン製の粗悪拳銃一つ持った
チンピラにも勝てないだろうおまえの武道とはいったい何が強いのか」
「一対一の素手なら負けません」
「ただの試合ならいざ知らず、家族だの社会だのというのなら
素手で一対一などという条件は勝手な空想の産物ではないのか。
そんな無意味な条件付きの強さなら、おまえが武道で追いかけているのは虚構の
強さだということになる。」
「・・・」
「武道内の試合ならいざ知らず、武道の外に向かって武道の強さをはかるような
事は意味がない。世の中のあらゆる局面にも武道と同じく勝ちもあれば負けもあるが
世の中で武道の技が解決できることは極めて少ない、というかほとんど無い。
全部が勝ちで済むこともまたない。
だから武道がそんな外の世界とつながる意味を持つとしたら、
誰しも試合では常に勝つことだけを考えるものでありながら、
実は負けることをいかに受け入れるか、勝ちと負けの間の構造とは何かを
修練を通して体と心の両面で理解しようとすることが武道の意義だという事になる。
人はよく忘れがちなことだが、
人間は精神だけの存在でもなければ臓器の寄せ集めというわけでもなく
脳も筋肉も臓器も全部で統合された全一の存在である。勉強だけでも運動だけでも
また精神鍛錬だけでも人生の全的な理解は得られないものだ。
その全一な人間の要素を総動員する試みこそ武道的の核心だが、
それは人間を機械的な肉体パーツと考える近代スポーツにはなく、
怪しげな瞑想教室にもなく、学習塾にも図書館の奥にもない、トータルな
生の理解へのアプローチだ。
もしも勝った負けだで、動物的な衝動に突き動かされているだけでは、武道は
体操のための体操、エアロビだの板の間剣法と何ら変わりがない事になってしまう。。。」
だから、おまえにもあれこれ本を読む事を進めているのだ、と言おうと思ったら・・・
ああ!なんと、私の話の間にB君、酒をみんな飲んでしまっていたのでありました。
「あのね、今日は本はいいから、これから夜道走って酒買ってくるように。
あの酒屋まで5キロあるけどこれも武道の修行だから、うん。
こら寝るな!さっさと行かんかい!!!」
酒飲まれてしまったからって、怒ってなんかいません。ホント、ホントですとも(汗;;)
10年ぶりの故郷の眺めは変わり果て
このブログのテーマの一つにもあるくらいで自他共に認める岩石生活者でもあった私である。
ここ十年くらいは極めて忙しく(もちろんその前から忙しかったが)諸事情あって
岩石生活にはトンとご無沙汰だったのだけれど、
ちょっとしたきっかけでこのところ昔のライブ映像などに触れて
岩石的なるものを改めて眺めることになった。
すると分かったのが、かつてのロックスターたちの逝去者の多いこと、多いこと!
そりゃあ、私が子供の時分に憧れの大人だった彼らはすでにいい年になっているわけだし
あくまでステレオタイプイメージだが、ロックスターなどというものはろくでもない生活をしていて
長生きなどできないものかも知れないので、妙に納得もするのではあるけれど。
ジム・モリソンもジミヘンも・ジャニス・ジョプリンもみんな27で死んで伝説になっていたのだから
中年過ぎたロッカーがバタバタ死んでいくのもまあ仕方ないのだろうか。
反対にミック・ジャガーとかロバート・プラントとか、ロッド・スチュワートみたいな連中が
ジイさんになってぴんぴんしているほうなんだがか違和感がないわけでもない。
それでも中でショックだったのは、ニコレッタ・ラーソンが亡くなっていたこと。
それも1997年だから、私は10年も知らずに過ごしていたことになる。
岩石生活から離れていたとはいえよく思い出す大好きな女性ボーカリストだったのに。
10年ぶりに故郷に戻ってみたら、かつての憧れの女性は冷たい墓の下、、、という情景である。
まだ45歳、脳腫瘍だったそうである。
会いに来れなくてごめんよ。知らなかったんだよ。本当に忙しかったんだよ。(落涙)
いまさらだけれど、LONG DISTANCE LOVEを流して
はるか遠方よりご冥福をお祈りいたします。
* *
さて、今回の岩石生活を省みるきっかけというのは、うちの近所の国際的な
クラシックピアニスト(おっさんである)との会話だった。
ニューヨークと日本を行き来して生活しているのでめったに会うことも話すこともないのだけれど、
たまたま会ったときに家の玄関に飾ってあるアンディー・ウォーホルのシルクスクリーンから
話が岩石にそれたのである。
岩石生活者ならば「ああ」、と思われただろうが、アンディー・ウォーホルとロックといえば
彼のプロデュースした前衛ロックバンドのヴェルヴェット・アンダーグラウンドである。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからそのメンバーだったルー・リードに
ニューヨークで会ったことがあるとかいうピアニスト氏の話を経て、
そういえばWINDOWS95の起動音の作曲は同じくヴェルヴェットゆかりの
ブライアン・イーノだったという話をしたら、
なんと次期OSのWINDOWS Vistaの音声担当はロバート・フリップだと言うではないか!
(21世紀の精神異常者)
ロバート・フリップ!?こりゃさすがに21世紀のパソコンOSだねえ。(?)
あのおっさんがねえ。。。生きていくというのは大変なことなのだ。
というコメントがこの場合当てはまるのかどうかよく分からない。
いまだにロック評論などという分野が存在するのなら、なんてコメントするのだろうか。
ま、WINDOWSはともかく久々の岩石的生活の香りは私のアイデンティティの一端を
つかの間フラッシュバックする思いではありました。。。
武士の一分
当家は八百年来の武家の家系であるが(まあたぶん)、最近の戯画化された武士道とは異なり、武士道本来の卑怯と日和見を旨として乱世を生き延びたのである。
「甲陽軍艦」にこんな記述がある。「武士は戦いにおいては、もっぱら虚言を用いるのだ。それを嘘をついたといって非難するのは、何も分かっていない女のような奴である。」
こうして当家も平安後期に勃興した源平両氏以降、その時々の勢いに流されてあっちについたりこっちについたりして何とか世渡りをしてきたのは間違いない。その結果、武家が官僚化した江戸時代以降は自らの出所拠り所も分からず、何となく箔をつけるため当時流行の頒布品の家系図を手に入れて近世に至っている。
購入した家系図は佐野氏由来のものであったが、あの田沼意次もたいした出ではないのをごまかして佐野氏ということにしていたくらいであるからこれは当時の人気の品だったようだ。
佐野氏とは謡曲の「鉢の梅」、いざ鎌倉のあの佐野常世の佐野である。
ちなみに田沼意次はじめ多くの武家はインチキ家系図を購入していたのは暗黙の了解というところだったのだが、田沼意次はインチキを真に受けた本当の佐野系の就職斡旋依頼者から息子が刺されると言う事件に見舞われたりしている。(その息子はその怪我のため後日死亡)
当然、田沼家同様、当家の家系図も完全無欠の安物の贋作であろうが、先の大戦までは先祖伝来?の刀剣もあったらしい。そこそこ名のある名刀だったそうなのだが(眉唾)それはそれは大切にして、なんと戦中の金属供出の命令も無視して隠し通したくらいだったのだが、敗戦後進駐軍がやってくると、「武器を隠し持っている日本人は皆連行されてしまう」という噂をきいて、すぐに刀はハンマーで叩き折って捨ててしまったのであった。 大日本帝国にも日本軍にも密かに反逆して隠し通したのに、進駐軍は怖かったのだ。 情けないというかこれも武士の一分、臨機応変変わり身がきくのである。
まさにこれぞ武士の鑑。 見上げた心意気である。
江戸時代の学者、貝原益軒はこう言っている。
「武士はひずかしくすすどくあらねばならないと教えてきた」
「ひずかし」とは、心がねじけひねくれているさま、「すすどし」とは、機敏で油断がならないさまである。
武士道が正々堂々のフェアプレイ精神であるなど幻想に過ぎない。
立ち会いで絶対勝とうと思ったら、先回りして落とし穴を掘っておいたり、挨拶している最中にでも斬りかかって優位に立つのが武士道の正体である。現代のいわゆる「武士道」とは、そんな武士の自分を立派に見せようとする、自己宣伝、あるいは明治以降のある種の精神論の誘導に便利な虚構の概念だ。(自分の思いこみだけで「武士道」を著した新渡戸稲造だってそれを認めていたはずである)
安くてお手軽な武士道ブームも漫画チックに楽しむうちはいいけれど、「武士道」という虚構に思考停止させられて、いつかあのときみたいに誰かの都合のいいように利用されてしまったりしないように気をつけたいものだ。
***
映画「武士の一分」にも言いたいことはいろいろあるのだけれど、どうしてもネタが無くなったら書くかも知れないが、ここでは略。 その映画でも果たし合いの場面で敵役がこっそり屋根の上に上って目の見えない主人公に上から斬りかかる場面があったが、尋常に勝負!とか言ったって果たし合いなんてそんなモノである。 果たし合いの実録を見れば病気や老化でヨボヨボのふりして油断させて斬りかかる「弱足の術」とかそんな事だらけ。今だってボクシングのタイトル戦で下剤入りの果物を相手に差し入れしたりすることと変わらない。
私がカフェオレボウルを買ったわけ
町中にある雑貨屋だの食器屋だのというものは、何の買い物のあてがなくともなぜか目を引かれるものがあるものだが、きっとそんな人は多いのではないのだろうか。時折変わる店頭のディスプレイはすっかり街中の季節の風景としてあって、郊外では人が四季折々野山の色や風の匂いの変化を追うように、私たちは街中にあっては小さな店先のウィンドウを眺めるというわけなのだろう。
私が通勤時に通りかかる雑貨屋のショーウィンドウには、ここ数日は大きなカフェオレボウルが並んでいた。
寒いこの季節の生活の点景ががカフェオレボウルというわけなのだろうか。
カフェオレなどというコーヒー牛乳ごとき、冬に専用容器を使わずともいつどうして飲んでも勝手だろうという気もするのだけれど、この店の外側が茶色で内側をクリーム色に塗り分けられた、ぼてりと素朴に大きなカフェオレボウルには、そんなスタイルの押し付けがましさは微塵も無くて、ただちょこんとおとなしく店先に座っているだけだった。
そんなお世辞にもスマートとはいいがたい、できの悪いどんぶりのようなもっさりした形と色が気に入って目を止めると、なんだかボウルが動いた。いや、動いたような気がした。まさかと思って目をこすってよく見ようとしたら、そこには茶色のカフェオレボウルではなくて子ダヌキが一匹ちょこんと座っていた。これがなんだか見たことのある子ダヌキである。
「ああーっ、ひょっとしておまえは近所の森の子ダヌキか?」
私の家のある住宅地に沿った木立にはいまもまだ狸の一家が住み着いていて、去年は子ダヌキが二匹現れたことが近所の話題になっていた。朝夕の通勤時に私も何度も見かけて、よく目が合ったりもして、いわば顔なじみのタヌキだが、その子ダヌキにそっくりだったのだ。子ダヌキはちょっと困惑したように首をかしげて哀願するようにこちらを見つめていた。街中に迷い込んで困った子ダヌキが店の商品に化けて隠れていたのだろうか。
「それにしても私に目をつけるとはおまえなかなか人を見る眼があるなあ、他の人間ならタヌキ汁にして毛皮は襟巻きにするところだ。」
私はぶつぶつ独り言を言いながら店に入ると、またウィンドウのタヌキはカフェオレボウルになっていたのだが、私は迷わずこれを買って紙袋をぶら下げて店を出たのだった。 ただ、タヌキの木立に行くまでもなくわが家の前に差し掛かったころには、いつの間にか手に握っていた紙袋は消えてしまっていたのだが、きっとタヌキは無事帰れたのだろう。
* *
次の日、またあの雑貨店の前を通ると、中から私を見止めた店主が出てきて、先日のカフェオレボウルは実はペアカップでもう一つ渡すのを忘れて申し訳ありませんでした、と謝るのだった。カフェオレボウルのペアなんて聞いたこともないが、きっとあのタヌキが気を使ってくれたのかもしれないと思って、私は黙ってもう一つのボウルを受け取ることにした。
こうして手に入れたカフェオレボウルをいじっていると、思わず頬がゆるんでいる事がある。「すぐ飽きるくせにまた余計なものを買ってきて家の物を増やして・・・」という家族の視線を感じることがあるが、タヌキの救出劇の件はどうせ信じてはくれまいからこれは黙っている。だからカフェオレボウルの購入はいつもの私の気まぐれということになっているのだけれど、まあこれは仕方あるまい。
鳥を眺めて過ごす
庭の木に小さな姫リンゴをさしてみたところ、たちまち野鳥がやってきてついばみ始めた。
いつもはただ通り過ぎる鳥も、リンゴの誘惑に、ちょっと立ち止まってみる気になったらしい。
これはなにもミニサンクチュアリを気取ったわけでもなく、野生生物との共生を考えたというほどのものでもなく、ただ一パック買ってきた姫リンゴが大してうまいものでもなく1・2個食べればもう十分だったから、もてあました残りの始末に、庭を過ぎる鳥をみて気まぐれを起こしただけなのではあるが。
ガラス越しにぼーっと鳥たちのしぐさを眺める時は、特に何かの感情を揺り起こすわけでもなく、ひたすら静かな時間だった。
もちろん私には鳥の言葉は分からない。
だからやってくる鳥のしぐさを眺めることは、なんの世間を生き抜く上では何ら役立つ情報ももたらさなければ、利得に関することは何もない。経済的見地からは実に無駄な時間であることだろう。 人によっては退屈に耐えられず、テレビのスイッチを入れるかパソコンをネットに接続するようなたぐいの時間であるかもしれない。
だが、テレビやクズバラエティー番組やネットのどうでもよいニュースを追いかけることが鳥を眺めることより高級な時間であると言い切れる人間もまたあまりいないことだろう。 クズ情報に反応して感情を揺さぶられることや、俗悪なニュースの続報をわくわくして期待するのはまさに愚劣な悪習であり、無為の時間を耐えられないのは自分自身のつまらなさを見捨てて逃避することでもある。
なぜ、私たちは私たちを消費に引きずっていくだけの娯楽が必要なのだろうか。
鳥を眺めるのは一つの例に過ぎないが、身近な自然のしぐさに自らの生のリズムを重ねられたとき、下卑な慰みは不要となるかもしれない。
ある日森の中ウサギ君に出会う
昨晩、常夜灯の豆電球が切れてしまったので、今日、昼前に散歩がてらに近くの小さな電気店へ電球を買いに出かけた。 近所の公園の木立を抜けて、イヌツゲやヤブランの植え込みに挟まれた曲がりくねった歩道を歩いていくと、道の真ん中に何かあってこちらを向いていた。何だろうとこれを見ると、ウサギ一匹座ってこちらを見ているのだった。 ウサギは片方の耳が真ん中あたりで折れ曲がって垂れていたが、まだ若いウサギらしく黒い毛並みはつやつやと光っていて、 好奇に満ちた丸い目をじっとこちらに向けていた。
猫や犬、ごくまれに見る狸ならともかく、道でウサギに出会うというのは珍しいことだ。
おや、ウサギ君、こんなところでどうしたかね?
ウサギはちょっと困惑したように、私に淡い救いの期待を寄せるように、じっとこちらを見ているのだった。 野生には見えなかったから、どこかから逃げ出したにせよ、誰かが捨てたにせよ、きっとそのうちカラスにでもつつかれて、惨殺体を見かけたどこかのご婦人が顔をしかめることになるのだろうかと心配された。
東京(あるいは日本の都市圏)はひたすら大都会ではあるが、自分の尻にも手が回らない肥満体が美しいというのなら都市にもまだ賛美するところはあるのだろうけれど、実態はただ不細工に大きいだけの経済体の固まりであるだけなので、経済的動機のおめがねにかからずうち捨てられたものが、ごちゃごちゃと不規則な眺めを累積させていくことになっている。
つまり、市場経済原理は万能といいつつ、まだ誰のものでも無い資源や、誰も引き取り手のない廃棄物など市場価値を有さないものには全く機能しないから、この世界が自動的に住みよく美しく成ることなどあり得ない。
また、市場経済には民主主義がセットされてあるからといっても、民主主義とは同時代の同一地域・国家の人間の内輪だけの合意によって運営されるものだから、捨てられたウサギ君にもまして野生の仲間たちにも恩恵が及ぶことは無いのだ。
いやいやウサギ君、君の言いたいことも分かっているとも。
人間だけの内輪の論理でもって野生動物や自然を救わずして人類に未来もない、そうりゃあそうだ。
環境は有限なんだからね。
でもね、神様は人間外の生き物とは単に人間が収奪して消費する資源としてだけ存在する
と言う宗教原理が今の「市場原理主義」と「民主主義」を生んだ基本原則なんだよ。
自然環境はひたすら収奪して配慮は不要だってこと、わかるかなあ。
そういうわけでだねウサギ君、君らに救いの手が伸びることはまず無いのだよ。
やがてウサギはあきらめて行ってしまったようだった。
なお、電球を買って家に帰ったその晩、私は家族の話で近居の幼稚園から逃げ出したウサギの捕り物があって
結局ウサギは無事保護されて幼稚園の小屋に帰ったと言う話を聞いたのだった。
地球へ・・・
正月も四日目、まだ松の内とは云ってもさすがにお屠蘇気分で浮かれている人も少なくなってきたでしょうし、何より今日から仕事始めという人も多いことでしょう。
captain-jackは年末に申し上げましたように極寒の小惑星e78「地ん球」から太陽系第三惑星「地球」へ帰還しつつあります。いっそ豪雪でも降って宇宙船の出航が延びやしまいかとよからぬ期待をしてしまいそうになりますが、まあいつまでも正月でいるわけにも行きませんので、そろそろ星への帰還も止むを得ますまい。
なに、すぐに成人の日だってあるし、新年会だって・・・。
年末からずっとこのブログの更新も思念派をアメブロに送る「テレパシー更新」でUPしてまいりましたが、そろそろ限界です。大体、記事がどうUPされているのか分からない上に、コメントもかけないし、それ以前にこのブログ見にきてくれる人が存在するのか、アメブロがまだあるのか、いや、地球がどうなっているのかも分からないのですから。
ああ、宇宙船の出航が近づいているようです。
宇宙船の長時間移動は苦手な人向けに「物質伝送装置」による移動方法もあるのですが、危険を伴うため利用者は限られます。
実は以前、装置内にたまたま紛れ込んだゴキブリと伝送されてしまった人は地球に着いたときはゴキブリ人間になってしまったり、エロ本と一緒に伝送されてしまった人は色ボケ人間に、金を持って乗り込んだ人は欲ぼけ人間になってしまうという事態が発生してしまったのですが、そのときの利用者の政官界のお歴々は、なぜかゴキブリ人間でも色ボケ欲ボケ人間でも特に地球上での活動に差し障りはないようです。
もっとも一般市民の私はそういうわけには行きませんので、これから通常の宇宙船で帰りますが、
また、地球に着いたらお会いしましょう。
*(初夢特別企画) よろず悩み相談承ります
なぜか普段の私は人に相談を受けることが多く、他人の悩みや愚痴を聞かされることが多い。
このブログとは別サイトではもっと堅い記事を書いているせいか、相談をメールやメッセージで送ってくる人もいる始末だ。 仕方がないのでなるべく真面目に話を聞くようにはしているのだが、中には答えに窮するようなものもある。
そんな悩み相談の一端を本人のプライバシーに抵触しないよう配慮をほどこした上で逐次公開してみようかと思うので、皆さんも一緒に考えて欲しい。
(相談例その1)
私、お金を貯めようと思って宝くじを買っているのですが、ビリの末等以外はちっとも当たりません。一度だけ3000円当たったことがありましたが、それでも大赤字です。
一般人には宝くじが当たらないような仕掛けがあるのでしょうか?
(回答) その通りです。宝くじは一般人には当たらないような仕掛けになっているのです。
宝くじの抽選機械には意図的に当選番号を指定できる仕掛けがあるのですが、宝くじの抽選担当者は官僚の購入した番号を聞いて当選番号を機械にセットしているのです。当選金を手にする官僚は役所内の順番で決まっていますから、部外者に高額当選金が回ってくることはありません。また政界工作のため政治家に宝くじを渡してこれを当選させる裏賄賂としても利用されることもあるようですが、一般市民のあなたに順番が回ってくることはないのですよ。
(相談例その2)
私は世の中をよりよい世界にするために、呪術の勉強をしています。悪い政治家や役人・財界人を呪いで懲らしめて地獄に送るのが私の使命だからです。全身全霊を振り絞って呪いをかけていますが今のところ呪いの効いた兆候はありません。彼らにはのろいは効かないのでしょうか?
(回答) 呪いで死んだ巨悪はいません。
政治家や官僚、財界人には呪いは効かないようです。彼らは金と欲だけを信奉していますので、一般的な呪いの通用する次元におりません。そもそも近代以降は占いだの呪いだのを真に受けて動揺するのは○鹿と貧乏人だけと決まっていますので、あなたも無駄なことに力を注ぐより、あなたの呪術や占いの知識を馬○や貧乏人をたぶらかしてもうけることに使ったほうが得策でしょう。
(相談例その3)
役所に行って窓口の順番待ちをしていたところ、あまりに役人の要領が悪いので、応対を改めるべきところがあるだろうと言ったところ、お役人から「これは国が限られた予算と人員で精一杯やっている結果なのだから、文句を言うべきではない。我慢するところは我慢して、国のために力を合わせるのが国民のつとめだろう」と言われました。なんだか釈然としません。私は改善のため提案をしたかっただけなのです。
(回答) あなたには愛国心が足りません。
国がやっていることに一々小言を言ってはなりません。より良い制度のための提案などという飾り文句をつけてクレームをつけるのは言語道断です。私たちの国家が為すことを私たち国民が支持しなくてどうするのでしょう。多少の不便は愛国心で補えます。高い愛国心を持てば不平や不満はなくなります。私たちの心に愛国心があふれれば日本は過ちのない住みよい国となります。増税も年金カットもダイエットもすべて愛国心が可能にするのです。もうすぐみんな「愛国心評価値」がつけられるんですから、あんた、それでも役人に文句言ってると非国民と言われますよ。
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世の中には実に様々な悩みが満ちているようです。記事をどのように読もうと読み手の自由ですが、よく分からない非難メッセージは正月に免じて勘弁してください。もっともcaptain-jackはまだ小惑星e78にいてコメント返答ができませんのであしからず。
本日も思念派送信によるテレパシー記事更新にて記事UPをしております。



