ある日森の中ウサギ君に出会う | 酒とホラの日々。

ある日森の中ウサギ君に出会う

昨晩、常夜灯の豆電球が切れてしまったので、今日、昼前に散歩がてらに近くの小さな電気店へ電球を買いに出かけた。 近所の公園の木立を抜けて、イヌツゲやヤブランの植え込みに挟まれた曲がりくねった歩道を歩いていくと、道の真ん中に何かあってこちらを向いていた。何だろうとこれを見ると、ウサギ一匹座ってこちらを見ているのだった。 ウサギは片方の耳が真ん中あたりで折れ曲がって垂れていたが、まだ若いウサギらしく黒い毛並みはつやつやと光っていて、 好奇に満ちた丸い目をじっとこちらに向けていた。
 
猫や犬、ごくまれに見る狸ならともかく、道でウサギに出会うというのは珍しいことだ。


  おや、ウサギ君、こんなところでどうしたかね?

 

ウサギはちょっと困惑したように、私に淡い救いの期待を寄せるように、じっとこちらを見ているのだった。 野生には見えなかったから、どこかから逃げ出したにせよ、誰かが捨てたにせよ、きっとそのうちカラスにでもつつかれて、惨殺体を見かけたどこかのご婦人が顔をしかめることになるのだろうかと心配された。

 
東京(あるいは日本の都市圏)はひたすら大都会ではあるが、自分の尻にも手が回らない肥満体が美しいというのなら都市にもまだ賛美するところはあるのだろうけれど、実態はただ不細工に大きいだけの経済体の固まりであるだけなので、経済的動機のおめがねにかからずうち捨てられたものが、ごちゃごちゃと不規則な眺めを累積させていくことになっている。

 

つまり、市場経済原理は万能といいつつ、まだ誰のものでも無い資源や、誰も引き取り手のない廃棄物など市場価値を有さないものには全く機能しないから、この世界が自動的に住みよく美しく成ることなどあり得ない。


また、市場経済には民主主義がセットされてあるからといっても、民主主義とは同時代の同一地域・国家の人間の内輪だけの合意によって運営されるものだから、捨てられたウサギ君にもまして野生の仲間たちにも恩恵が及ぶことは無いのだ。


  いやいやウサギ君、君の言いたいことも分かっているとも。
  人間だけの内輪の論理でもって野生動物や自然を救わずして人類に未来もない、そうりゃあそうだ。
  環境は有限なんだからね。


  でもね、神様は人間外の生き物とは単に人間が収奪して消費する資源としてだけ存在する

  と言う宗教原理が今の「市場原理主義」と「民主主義」を生んだ基本原則なんだよ。
  自然環境はひたすら収奪して配慮は不要だってこと、わかるかなあ。

 

  そういうわけでだねウサギ君、君らに救いの手が伸びることはまず無いのだよ。


やがてウサギはあきらめて行ってしまったようだった。


 
なお、電球を買って家に帰ったその晩、私は家族の話で近居の幼稚園から逃げ出したウサギの捕り物があって
結局ウサギは無事保護されて幼稚園の小屋に帰ったと言う話を聞いたのだった。