エイリアン vs 自称堅気の勤め人 第1R
なんだまたかと思われるだろうが、
勤めの暗い精神作用を少しでも癒すために内輪の週末夕食会として、
私たちはいつもの麻布の飯屋(レストラン)に行ったのだけれど、
今回はいつもとはほんの少し様相が違っていた。
ひとつは、最近暴力団幹部狙撃事件のあったところとそう遠くないために
ちょっと緊張を伴ったということ。
これは以前地下鉄サリン事件のあった日の晩、会社から帰るため電車に乗るのに
絶叫マシンに乗る前どころでない妙な緊張感を覚えたが、
久々にその感覚を思い出したものである。
そしてもう一つの違いは、この日現れたのが見知った人間だけではなく、
同僚の女性が連れてきたその大学の後輩で取引先会社にいるという
もうひとりのうら若い女性も一緒だったことである。
まるで若年層向けのファッション雑誌から抜け出したようなそのお姉さんを前にして、
およそ蛇蝎のごとく世の中の軽薄な流行りものを嫌うこと根深いA君が
少々当惑を感じていることがうかがえたが、それでも四人のささやかな食事会には
多少華やいだ雰囲気が漂ったといえないこともないような気もした。
ところがこの女、やはりA君にとってはほとんどポコペン星のエイリアン、ゲバ子だったのだ。
簡単な自己紹介のあと、
「金曜なのにゲバ子さんは、こんな席に来るより、
彼氏とでも出かけたほうが良かったんじゃないの?」と典型的なオジサントークを
かましたところ、ゲバ子さんからはこんな答が返ってきた。
「それが、彼氏とはケンカ中なんです。カレったら、一緒に本を買ったとき、
あ、そこはブックカバーの色を選べる本屋だったんですけど、
私がブックカバーは水色がすきなのに、カレは緑色が落ち着いていいって言うんで
大げんかになっちゃったんですよー。」
「え?ははは、そんだけ?」
「付き合ってる彼氏には私と同じようにいいものはいいって言ってもらいたいし、
同じように感動したりしてほしいじゃありませんか」
たちまちA君の毛が逆立ち始めた。
「彼氏ったって、感じ方は人それぞれなんじゃないの?」
「彼氏だからこそ私の感じ方やセンスを尊重するっていうか、
普通、趣味に違うこと言うなんてありえないですよね?」
(たかがブックカバー色の好みの違いは人格否定になるんだろうか?
「私と同じでない者は存在を許さない」ってこと?
実はゲバ子さんはファシストだったのですね!)
それでもなんとか和気あいあい、食事と会話を進めるうち突然ゲバ子さんが言った。
「Aさん、言葉遣い”びみょう”ですよね。」
若くない読者のために一言付け加えると、こうした場合の「微妙」とは
相手を非難・排撃する言葉になる。
要するにパー子はA君に「そんな言葉遣いすんじゃない!ウゼエんだよ」と
言っているのだ。
「こういうところではお水のことチェイサーって言いません?
普通みんなみんなそう言いますよ~」
「・・・」
A君、思わず振り返ってウエイトレスにコップを振りながら
「おう、ねいちゃん、水くれや、みず二つ~」と怒鳴りたくなったと、
後に術解していたが、
そこはウエイトレスが「はい、水 リャンガー!」と答えてくれるような店でもないので
これはやめて、A君はちょっとだけ反論を試みた。
「チェイサーってのはそもそもは強い酒飲んだ直後に食道や胃を守るために
追っかけて飲む水のことだろうから、強い酒を飲んでいない私の場合は
そんな言い方をする必要はない」
「えっとーじゃあ、お冷やくださいっていうのは?」
「お冷やというのは江戸時代の女房言葉だから、れっきとした成人男子の
使うような言葉でないんだよ。男がお冷やくださいなんていうのは
オカマくらいなもんだよ」
--A君もちょっとムキになってしまったかもしれない。
「へへーなんだかおもしろいにょろ~。
Aさんって、なんだか異星人みたいですね。」
「・・・・・!!」
ゲバ子さんが席をはずしたときにA君が言った。
「いつの間にか私はパラレルワールドの亜空間に迷い込んでしまったみたいだ。
だれか私を地球に連れて帰ってください。」
・・・この後の第2ラウンドのことは、
長くなったので、気が向いたらいずれ書くとしよう。。。。
今日からボクもハナタレ君
・・・春なのだ。

庭でメジロを見ることが少なくなったかと思ったら、近くの梅林でほころんだ花が甘い香りをたっぷり漂わせていた。 メジロも蜜を吸いに梅林に通いだしたというわけなのだろう。春の眺めは心浮き立つものの雪も降らず、歴史的な暖冬のまま春を迎える事には不安も伴う。何年か後に振り返るとこの年が転換点だったともう手遅れだったのだと悔やむことがないように願わずにはおられない。
環境問題を取り上げられる機会が増えている今金と物を追いかけて世の中のクズ情報に流される、欲にかまけた生活を見直す事を何人の人が始めるだろうか。
いずれにせよ春は様々な新しい展開が始まる時期ではある。 なんとなく心機一転、新しい希望に向けた一歩を踏み出してみようかなという気分になるのは、単純に子供の頃からの進学進級の習慣かのためかも知れないが、見上げる空のすがすがしさがこの気分をさらに励ましてくれるようだ。

無理矢理こじつけてのようだが、何かを変えたいと変化を願う気持ちがあるのなら、まず自分が変わらねばならないのだからねえ。。。
captain-jackの優雅で退屈な日常
連日退屈な(仕事も家事も忙しいが、精神的にしまりがないということ)私ではありますが、実は先日少々事件がありました。その事件とは、ありていに言ってしまえば眼病事件なのですが、目がゴロゴロするので目医者に行ったところ、医者の見立ては「結膜結石」だといいます。
「え? 尻(ケツ)まくり欠席?」
「ケツマクケッセキです!」
早い話がまぶたの内側に微細な脂肪瘤ができて眼球に障るのだとのこと。
「取り除いておきましょう」
医者がそういうが早いか、私の頭は拷問機のような鋳物のタガに固定されてしまって虫ピンのような針を持った医者が私の顔に迫ってくるではありませんか。医者はワケもわからず文字通り目を白黒させる私を「ちゃんと上向いて!」と一喝するとたちまちまぶたをひっくり返して針でグサ!グサ!とまぶたの裏を突っつきまわしたのでありました。
目の玉の前を針の先端が行き来しては繰り返し迫ってくる様はまるでホラー映画に出演して化け物にいたぶられるような気分であったのですが、「目を針で刺し貫かれる」という野蛮な治療が我が身に行われることは予想もしておりませんでしたので、私は声も出せず、ショックで寝込んでしまったのでありました。
・・というのはウソですが、しばらく目の前の針の先端が頭から離れず、先端恐怖症になってしまいそうな気がしたものです。
つまり、しばらくは鉛筆をみても、編み棒の先を見ても、東京タワーを見上げても、尻のあたりがそわそわして背筋がムズムズし、脂汗がにじんで思わず目を押さえて顔を背けたくなってしまったのであります。
こんな平衡を失った精神を癒すためにはどうしたらいいのでしょう?
皆さんはどうしていますか?といっても目を針でグサリとやられるなんてそんな体験をされる方はそんなにいないでしょうけどね。 世の中の平均的な人はどうだか知りませんが、こんなとき私の場合は考えるまでもなく、とにかく「食べることと寝ること」で我が身を癒せばいいのではあるまいか、という結論に至るのが常であります。
というわけで、さっそくB女を伴い普通行かないところへ飯を食いに行ったワケなのですが、B女と一緒なのはこんな時、私がべたな居酒屋やフツーの店では機嫌が悪くなるのをよく知っている人間だからであります。
こうした精神のバランスの崩れかけたときのこのあたりの店の選択の加減と言うのはちょっと難しくて、気合いの入った店は駄目、おしゃれな店も駄目、よく知っている店も駄目、もちろん気の利かない芸のない店などは当然駄目、という具合なのですから自分で言うのもナンですが、大変微妙で慎重な選択が要求されるわけです。
そこで、今回行ったのは永井荷風が晩年足しげく昼飯に通っていて、亡くなる前日にもカツ丼を食っていったという、永井荷風ファンにはよく知られた料理屋となった次第です。
これはまた私の微妙な要求に沿った微妙な選択と言わざるを得ません。
もちろんかの店、大黒屋というどうと言うことのないただの定食屋というか料理屋なのですが、私もその存在は知っていて、ファンなら当然みんな行ったことがあるべきその店は荷風の作品をよく知る私にも気になる店です。 さらに荷風先生がよく食っていたカツ丼と日本酒のお燗とお新香、味噌汁をセットにした「荷風セット」なる定食があることまでは知っているけど私は行ったことがない、となるとこれは精神のバランスの改善のためにはまさに絶好の選択と言うことになるわけです。
ただの料理屋だけれどちょっとだけいわくつきの店で、私の俗っぽい陳腐な興味をそそるという絶妙の選択です。
そこで電車に乗ってわざわざ足を伸ばしやってきた大黒屋、荷風セット1230円はカツ丼と酒、お新香は量がたっぷりありましたが、確かにどうということもない定食ではあります。
それでも荷風先生ゆかりの店で昼酒をあおって永井荷風のうんちくをひけらかして一人で悦にいっておりますと、なにやらカメラマンなどが機材を持ち込んで撮影が始まったではありませんか。
あれ、今日はお忍びできたのだがなあ。ははは、と軽口を叩いてすっかり精神のバランスを取り戻しつつあった私は、思わず取材に協力的な態度をとる余裕をもつにまで至ったのでありました。 でも帰りしな、何の取材かと聞けば東京の散歩のサライの達人だかなんだかむにゃむにゃいう雑誌
だそうでした。 ちと、がっかり。それでも
「なんだ、ジジイ専門雑誌であったか、私にはカンケーないや」と悪態をつくまでに、 いつもの私の精神状態にまで戻ったのですから、 この日の飯の選択は正しかったといわねばなりますまい。。。。
世の中には食うことをめんどくさがる人もいますが、食にこだわることはその食物の内容だけでなく、食べる事の周辺の所作を含めて、日々の生を充実させる営みそのものでありましょう。
(なんてくどいヤツなんだ、だから何もない日常の事をだらだら書くのは嫌だったんだよ)
電車の中で美女に誘惑される話
先日寺田寅彦の「電車の中で老子にあった話」
の記事を書いたので
ついでに老子道徳教について言えば、
寺田寅彦のいた時代とは違って、現代においてはありがたいことに
外国語訳に頼らずとも平易な現代語訳がいくつも出版されていて
気軽に「老子」のエッセンスに触れることができる。
なんでも20世紀の終わりには欧米で老子のタオ(道)ブームが起きていたらしく、
それが西洋舶来信仰の続く日本にも流行が飛び火した結果でもあるらしい。
私はタオブームの存在などは露ほども知らなかったのだが、
なんとなく近年になって再び老荘を拾い読んだりして
そんな過去のタオブームの遺跡にも触れたというわけである。
(以前読んでいたのは小難しい本ばかりだったが、このたびはくだけた本ばかりである。)
いくつか拾い読んでみたそんな本の中で、老子についていえば
平易な本の極めつけは加島祥造氏の「タオ 老子」(筑摩書房)だが、
これは現代語訳というよりも老子のエッセンスを踏まえた現代詩といって良い。
飛躍した意訳ゆえ、老子の解釈を個人の解釈に限定するものだとの批判もあるようだが、
各章の末尾には原文に近い返り点付きの漢文が付与されているので
あわせて読むのはまた面白いし、解釈限定云々の批判はまるで的外れである。
ただこうした本は、古くから凝り固まったままのかび臭い老子観を現代において
平易に復活させたことはすばらしいのだが、
21世紀の今としてはさらに突っ込んだ解釈があってもいいかもしれない。
なんとなく辛気臭いじいさんのイメージのある老子は
実のところその実在も疑われるほどの人間なのだから、
たとえば老子の実像はセクシーな美女だったかもしれないと想像するのも勝手だ。
実際老子道徳教の中には極めてなまめかしい想像を呼ぶ記載もあるのだが、
81章5千文字余りの短い文章の中に様々な空想を働かせることができるのは
正当な読書の楽しみでもあるのだ。
・・なんだか今日は老子そのものの中身にはさっぱり触れないひどい記事だが、
世の中に老子本は玉石混淆、とにかく数だけはたくさん出回っているので、
わざわざこのブログでまで中身や解釈に触れることもないだろう。
それより誰か、色気のむんむんする艶めいた美女版の「老子」を書いてはくれまいか。
現代においてもなお人をひきつける魅力も保つ老子は
実はロージーというミニスカートの金髪美女だったりして、
電車の中で出合った時に平易な道徳教解説などしてくれたら、
俗世の名利など放り出してたちまち意気投合してしまう御仁も
きっといると思うのだけれど。。。
デート with 女バンパイア
N嬢は会社の学生向け就職求人パンフのグラビアモデルになっていたような女である種、一部の憧れの的のような存在なのだから、うれしくないこともないのだが、私にだっていろいろ事情はあるので美人と一緒ゆえに具合が悪いことだってあるのだ。
会うことになったのは赤坂の気取らないレストランである。
決しておしゃれなデートコースだからというわけではなくて、適当な店をテキトーに選んだこともあるけれど、ここは昔、別の某女友達とけんか別れした苦い思い出の場所でもあるので、けして浮かれないようにとの自戒をこめてのことでもあったのだ。
ところがそのN嬢、会うなり「すぐ死にたい」と言い出した仕事や会社、家族や身の回りのことなどすべて行き詰ったようでふさぎの虫が動き出したということらしい。
美人で、頭もよく性格もおっとりして、天から二物も三物も与えられて会社でだって、友人たちからだってそれは大切にされているN嬢だから、傍目には人生どっちを向いてもお召し列車に乗って生きていけるように見えるのに、そんなN嬢にしても生きる悩みを抱えているというのはなかなか人生とは面白いものだ。
どうせ死ぬ気などないのは分かっているので、いい加減にふんふんと話を聞いていると真面目に聞いていないとにらまれた。だが、そのにらんだ顔がこれがまた凄艶で美人と言うのは得なものだとまた一層感心したものである
とりあえず飲みかけたワインを干して、N嬢の料理を横取りして食ってから私は話してみた。
「君はすぐにも死にたいというが、あのテキトーな日記は半端のままでいいのかね。」
N嬢がぎょっとした様子が分かる。日記を書いているなんて知らないが、適当にカマをかけたのが当たったらしい。
「部屋の中にも机の中にもいつか片付けようとつ放っておいたまらないものが散乱しているし、読みかけの本だって、人には見られたくないレベルの低いつまんないものじゃないか。
それに恥ずかしいダイエット食品も半端に手をつけたまんまだし、フィットネスジムの会員証に書いてあるのコースも見られたくないものだろう?
君の死体を見たら、顔はきれいなのに、このわき腹の肉はすごいねーと話題になるかもしれない。毎年行くのいかないのと先延ばしにしてきた旅行だって、講演会だって、大学の公開講座だって、どれもみんな決着してないんだろう?なにか確たるところで納得できたものはなにかあるのかね?」
人生はなにごとかを為すためにあるものではないかもしれない。それでもたとえあるとき頓死する憂き目に会ったとしても、人生に一片の納得性を得てこの世とおさらばしたいものだがそれは死に際に至ってからでは手遅れだ。即ち如何に死に際を迎えるかというこということを考えることは、即ち如何に生きるかを考えるということでもある・・・
・・・さすがのN嬢も私の話のくどさに観念したらしくこの話はそこで沙汰止みになって、あとは歴史や文学の話で大いに盛り上がったのだけれど、つられて酒も料理も盛り上がって帰りのタクシー代もなくなりそうになった私は、
思わずN嬢を殺してやりたくなったのだった。
冬晴れの空
暖冬の太平洋側では晴れが長続きせず、降雨降雪の機会が増える傾向があるというので、今年は思い切り東京の雪を楽しみにしていたのだけれど、今のところまったくの期待はずれの日が続いている。
大陸から海を渡って雪雲がやってくる日本海側とは降雪の仕組みが違う太平洋側では、南岸から低気圧が接近した時に気温さえ低ければ雪は降るというのだけれど、今年の暖冬は雨が結晶化して地上に到達することすら許さないほど高温が際立っているらしい。
それでも今年の冬はあっけらかんとした冬の快晴は少なく、晴れ空にのいつも雲が行きかうことが多い気がする。
いつもの年のようにひたすら乾いた晴れの続く奥行きのない扁平な冬の空ではなく、水色の中にも様々な表情を伴った今年の冬空はちょっと楽しい。
太平洋側のいつもは無表情な冬の空は雲もあって初めて空の色を眺めることが意味を帯びてくる。空の色はやはり空色でなければならないし、空色であることがうれしい。
*
穏やかな冬晴れの続く2月の午後には空色のカフェオレボウルでひと休み。
ザンジバルの風月に罪はない

ある日一通の国際郵便が届いた。
差出人は学生時代の友人。発信地はザンジバルである。ザンジバルというのはアフリカの東岸、タンザニアの沖の小島であるが、今はそこに行っているようだ。
アフリカとはほぼ無縁の私にとって、ザンジバルについてわずかな知識は、故フレディー・マーキュリーの出生地、また古くはオマーン帝国の属領だから、目に浮かぶ風景のイメージといえば、アラブ風の香りの残る風俗の行きかう一見優美な南国の貿易中継地。それからザンジバルという誰かの楽曲があったような気もする。
要するに名前以外何も知らないに等しい地の果てからの手紙である。
軽く検索してみると、今は世界で一番美しい島というキャッチフレーズがつくくらい風光明媚な観光地であるらしい。
楽曲のほうはアダモ?ふーん、フランスのムード歌謡歌手みたいなヤツなんだろうか、こっちは無縁・無関心の世界だな。 風趣豊かな南国の地、いいねえ、とは思うがもちろん行く気もない。 すると横で画面を見ていたB女が割り込んできた。
「ねえ、ここちょっといいんじゃない? 行ってみない?」
「いやだ。”絶対”行きたくない」
「なんで0.1秒もかからずそんな答えするかなー。 どうしてそんなに出不精なのよ」
「デブ症? 言っておくがオレはデブではない。これはみんな筋肉だ。体脂肪率は12パーセントでちょうどいい」
「何の話してるのよ。久々に海外旅行もいいじゃない」
「オレと外国の空気とは肌が合わないからいやなんだよ。お前だって水が合わずに腹下しが止まらなかったことがあったじゃないか。おれは土地が変わると途端に便通が不順になるんだよ」
「なによ、ヘンクツ
「・・青い空と透き通った海、吹き抜けるそよ風と宝石箱のようなきれいな街並み・・おしゃれなリゾートウェアで軽やかに通り過ぎる人たちは・・トイレを探してまっしぐら。
いいかぁ、オレはな、青い空も白い雲も海のそよ風もみーんな嫌いだが、この世で何より嫌いなのがなかなか出てこない石みたいな硬いウンコだ!出てこないウンコと歩き回るくらいなら、バカ役人が観光村おこしで作った毒キノコ村にでも行ったっておんなじなんだよ。
・・・だから行かないわけ」
海外で排便トラブルを起こす人は実はとても多いらしい。
いずれにせよ大日本下品党には公費ただ乗りの海外視察旅行は、ない。
最後の人間
ロボットたちは幸せを知らず、苦しみに身をすり減らし、抵抗もすることなくあいつらの指示で生きていく。未来を失った世界は暗黒に沈みつつある。
ロボットを動かすのはあいつらに植えつけられた欲望エンジン。果てない欲望や憎しみを動力源としてロボットは互いを傷つけあい、奪い、殺し合ってはまた新たに欲望と衝動を得て、それがまた欲望エンジンを動かす燃料となる。
引き裂かれていく世界と、無関心なロボットと化した人々。
どうしたわけかただひとり世界を離れて眺めることができるのはあなただけ。あなただけが正常な目を持っていてこの世界は違うと言うことができる。あなただけが、欲望エンジンのスイッチを切って人々を人間に戻すことができる。
でも、あなたは言うだろう。
私はただの平凡な人間だ。スーパーマンでも大スターでもない私がただひとりで何ができる?何の力も持たずににひとり取り残された中途半端な私。
いったい私に何ができる?
子供のころ、世界はしだいに良くなるものだと信じていた。それが何の根拠のないものだったとしても、世界はしだいに良くなるのだという期待が私たちを動かしていた。
だがある朝起きたら人々はロボットになって、希望と感動を失った世界は暗黒に沈みつつある。いったいどこで間違ってしまったのだろう。間違いを正すことなんてどうしたらできるのだろう?
もちろん、やつらに同調してロボットの振りをして流されることだってできる、それが何が悪い? なぜ私を責めるのか? とあなたは言うだろう。
私は何の力も影響力もないただの平凡な人間だ。スーパーマンでも大スターでもない私がただひとりで何ができる?何の力も持たずににひとり取り残された中途半端な私。その私にいったい何ができる?いったいどうしたらいい?
最後に残された人間はどうやって希望をつないでいけるのだろうか。あなたは自分にもとりつけられた欲望エンジンを切るだろうか。そして次々と欲望エンジンを切って世界に人間を取り戻していくだろうか。
清貧とはあまり前向きにとらえられない言葉なので誰か今風に言い換えてくれませんか
物なんて心配と荷物を増やすだけ。第一に気が重くなるでしょ。
・・・ミーの言葉 by トーベ・ヤンソン
十五年くらい前だろうか、バブルでがはじけたあとに「清貧の思想」(中野孝次)という本が出版された。
別にバブルに踊ったわけでもない私としては何をいまさらという気がしないわけでもなかったが、
バブルの反動からか、その一般受けしそうにない内容に反して異例のベストセラーとなった。
欲望をむき出しにすることをまるで恥としない人間の横行を許したバブル期の
反省がなされるのかと思ったら、案の定世の中の人気は一時的なもので、
それどころか90年代にはびこったグローバリズムによって、もうけのためには
欲望をむき出しにして恥をさらすのは恥でない、という風潮が押し広げられることになって
現代に至っているのはご存知の通り。
金と権力あるもののやりたい放題はとどまることを知らず、今や「自由と正義」とは
「破廉恥と欲望の放縦」と同義に近い。
イラクで何万人もの犠牲と混乱が続く一方で軍需産業は活況を呈し、
その死の商人の企業トップが私的なパーティーに何百万ドルもかけて
ドンちゃん騒ぎをしていることが報道されていたが、氷山の一角だろう。
国内でも個人の生活基盤の荒廃が明らかになっていく一方で虚業家がもてはやされ、
一国の金融トップでさえその尻馬に乗った錬金術に精を出していたことは記憶に新しい。
さすがは美しい日本銀行の総裁である。
今では清貧などという言葉は死語に近く、人の口に登ることは極めてまれだし、
正確にその意味をとらえられる人も珍しいのではないか。
清貧という言葉には誤解を持つ人が多いらしいが、この本で述べられる「清貧」とは
貧乏のいじけた消極的肯定ではなくて、人間本来の自由を手に入れるために
過剰な財貨を排除するポジティブな思考手段としての生活様式のことである。
歯止めの効かない欲望の赴くまま、物や金を集めたところで人間や社会が自由で幸福になる
わけではないというのは大昔から知られていたことだが、人間は欲望をコントロールする
ことを学ぶことは極めて難しいことであるらしい。
電車の中の松尾芭蕉
寺田寅彦はいわずと知れた明治生まれの戦前の高名な物理学者であるが、俳句に関しては夏目漱石に師事し、また漱石の紹介で正岡子規とも親交があったことはよく知られている。
子供の頃の授業中、私などはよく授業とは関係ない教科書の好き勝手なページを読んでいたものだが、その冴えた著作に触れることは私のような勉強嫌いの子供にとても大きな楽しみでもあった。
そんな寺田寅彦の著作をいつかどっかりと読んでやろうと思いつつ、なかなか機会もないまま大人になってもうだいぶ経つが、大人になっていざ読んでやろうと思うと、寺田寅彦というのは想像以上の多作な人で、岩波の全集など何十巻もあって絶句してしまった。
これは何も寺田寅彦に限ったものではないが、だいたい、岩波の全集などというものはむやみに硬い箱に入っていて、何の飾り気もない装丁は、半端な客は寄せ付けない古本屋の偏屈オヤジのような無愛想なつらをしているから、これではいったいどこから読んでいいものか戸惑う前に尻込みしてしまいそうなのである。
ところが昨年末、某書肆の店頭で文庫本サイズの寺田寅彦のアンソロジーを偶然手に入れてようやくまとめて氏の作品に触れることができた。
「俳句と地球物理」という編纂テーマがまたいい。
季語や俳句の精神に理系的見地からのアプローチは、単にものめずらしいとか奇をてらったというわけではなく、一部の愛好家や専門家の中だけの了解事項として一般には分かりずらい事柄を光の宛て具合を変えて平易に読み解いてもらったような趣がある。
ちょうどこの本の中にも「電車の中で老子に会った話」という短い随筆があって、これは寺田寅彦が漢文と古めいた解説ゆえに取り付きにくいと思っていた老子道徳教をドイツ語訳で読んだところ、平易な文面がすらすらと頭に入ってきたという話である。
それはあたかも、古代中国の古めかしい身なりをしてこむずかしい御託を述べる年寄りが、洋服を着て電車で移動する気さくな現代紳士になったようだと寺田寅彦は感想を述べているのだが、まさに寺田氏の俳句論議は、この電車の中の老子同様、蓑笠に手甲脚絆の芭蕉翁を現代服の軽装に着替えさせて、「風流」「さび」「不易流行」云々、都心を走る電車の中で隣に座って話を聞くような趣がある。
俳句にも物理学にも詳しくはなくとも、観察することと思考する事の楽しさに溢れた本書は、柔軟な思考というものを例示してくれる、ちょっと素敵な休日の本であるのかもしれない。

