酒とホラの日々。 -38ページ目

ヨガ教室へのお誘い



とうに流行のピークは過ぎてはいたが、ヨガを扱う会社の近所のジムが閉店していた。
個性的な店で繁盛していてもうすこし長続きするのかと思っていたけれど、
他のはやりもの同様ヨガもまた急速にもてはやされ、
そしてまたそれ以上のスピードで人々に飽きられてしまったのは、
いつもとおなじだったようだ。
  
その店が、他のヨガジムと異なっていたのは個人別スペースを提供していた点だ。
つまり「個室ヨガ」である。一畳半ほどのスペースにマットがあり壁に埋め込まれたテレビから
好みの指導ビデオが流れ、利用者は思い思いのポーズとメニューでヨガを行うことができた。
集団でへんちくりんなポーズを人前にさらすのを嫌う人は多いから、
このシステムは評判が良かったようだ。


さらにこの店では、部屋によってはスチームサウナを併用し、より効果の高い
ヨガのエクササイズが可能になる趣向もあった。「密閉個室ヨガ」である。
専門家によればスチームなどあってもヨガの効果は変わらないとのことだが、
じめじめした中でぬるぬるとヨガをヤル行為は「苦行」と「汗」の好きな人たちには
とてもありがたがられたようだ。


でも個室なものだから、ヘタレたポーズをとっても
暑いからといってみんな脱いでも平気であるのは大きなメリットだった。
実際裸になる人は多かったらしい。
つまり「密閉個室全裸ヨガ」である。


しかしながら集団はいやだといいつつも独りでは頑張りがきかないから、
ペアでより効果の高いエクササイズを行いたいという利用者ニーズもあって、
インターネット喫茶などと同様にカップル用の部屋も設けられていたのだが、
これはすなわち「密閉個室全裸同伴ヨガ」である。

さらにはペアでエクササイズしたくても相手の調達ができない場合だってあるわけだから
エクササイズパートナーの派遣も行うことになって、ここに至りジムは
「密閉個室全裸デリバリー同伴ヨガ」となって、店は大繁盛していた。


が、先日店は閉店・廃業してしまった。 


閉店当日は警察が来ていたという噂もあったが私は詳しいことは知らない。
 
日本人の健康法ブームネタの回転の速さについていくのは大変なことだから、
きっと四千年の歴史を誇るヨガもまたこの流れには逆らえなかったのだろう。
個性的な店だったのに閉店は残念なことだ。。。

  

古代の闇夜と平成の桜


家の近くに古いお寺があり、その参道には桜の並木が続いている。 この由緒ある古刹ではいつも参道や境内に参拝や散歩に行き交う人がたえないが、桜が咲けば一層賑やかさを増すことになる。




日を浴びて青空に映える桜のすばらしさには何も言うことがないけれど、私が好きなのは夜の眺めでもある。 賑やかな人通りも絶えて灯りもなく、風景もまた闇に色を失った広大な寺所は中空の粒塵の放つ微光によってぼんやりと照らされ、墨絵のように浮かび上がる。




そんな闇の中、色もなくかすかに光を帯びた桜は暗黒に漂う雲海のようで、その向こうに巨大な僧舎の屋根が浮かんでいるのを眺めるときには時間も季節も忘れてしまう。



この寺舎が建立されたのは鎌倉の昔のことだが、現代において日中は参拝客が絶えず土産店も立ち並ぶ観光寺であっても、人工の明かりもない夜には時代も時間もない古くからの姿を取り戻すのである。




無音・無明の夜の境内にあるとき、私たちは古く鎌倉の求僧と同じ空気を呼吸している。




 


こんな時空を超えた感慨に浸るときとき、私は唐代、王昌齢の詩「従軍行」を思い出すことがある。



秦時の名月  漢時の関

万里長征して 人未だ還らず

・・・


秦時の明月漢時の関(しんじのめいげつかんじのかん)とはなんと人を圧倒する表現であることか。




(月光は秦代とかわらず、漢の時代に築かれた砦を明るく照らしている


というような意味)

たったこれだけの文字で、壮大な時間の流れをひとつかみに言い表して膨大な歴史の感慨を人に含ませる。こういう表現は和歌や俳句には求めがたいのではないだろうか。

昔この詩に出会ったときはまさに私は一撃KOを食らったものである。


中国という文明の巨大さと、漢字という重厚な多層性をもった文字によって編み出される漢詩の表現にはただ恐れ入るばかりだ。



それはともかく、私は漢字文化の傍流に触れることができる幸運をかみしめるとともに、目先の出来事・情報に膠着して右往左往しているときにも、この従軍行にあるような社会的な時間支配や近視的な価値観を抜け出した視点を


決して忘れたくないものだと常々思う。


春の雨予報

暖かい春の雨は景色の輪郭をあいまいにし、また、芽吹いたばかりの草木の淡い色には柔らかな雨がよく似合う。 そんな中、私は傘をさして散歩に出かけることがある。 雨の散歩で出会う景色は、いつもとは違った風趣を帯びて、私は行く先々でまるで水を入れたガラス瓶の向こうをながめるような、ここにあってここにない感覚を覚えることになるのだが、それは降りしきる雨のベールに包まれたもの互いの干渉が和らぎ、人も物も風景もまた内向きになるためだろうか。

 
だからこそ雨の日には内省と物思いにふける散歩の楽しみが一層深まるとも言える。



そんなある雨の日、近くの並木道をたどって普段はあまり使わない少し先の駅に行ってみると、ただ小さな駅舎の軒から滴る雨水が人のいないホームのコンクリートを叩いているだけだった。
 
雨に濡れた踏み石の黄、雨だれと一緒に明滅する信号の赤。雨音にゆがんだ踏切の音・・・。 遮断機をくぐって駅前の本屋に立ち寄ってみるといつもより濃くインクのにおいが漂ってきたような気がしたのだが、 雨空色の空気の中では、色ばかりか音も匂いもまた特別だ。


   春雨や傘さして見る絵草紙屋     正岡子規


子規の俳句にも、雨の中から生き生きとした色と匂いが漂ってくる。
 
雨の国に住む私たちは、雨の日の楽しみを知ることで人生の豊かな領域を広げねばならないようだ。

宇宙からやってきた野郎ども

今頃の季節というものは春風が埃を巻き上げて風景に独特の彩色を施す。春風と埃をどう評価するのかはその人の感性によってだいぶ趣が変わってくる。


家の掃除などをして、普段あまり手の行き届かないテレビの裏や棚の上などを払ってみると、綿埃と土埃の混じったような塵芥が実によく集まる。埃と言うだけでだけで顔をしかめる人もいるが、埃は単なるゴミではない

中には糸くずや綿ゴミもあるにはあるが、どんな埃の中にも、長く中空を漂った後についには我が家に着床した
隕石の微細な粉粒が混じっているのだ。

なぜなら周知の通り地球は絶えず宇宙からの隕石の雨にさらされているが隕石の大半は地上に達することなく中空で燃えて砕け散って塵となって大気中に拡散して漂っているのである。


元の隕石はたいした大きさでなくとも、煙の粒以下の粒塵となって世界中の空気中にまんべんなく漂うには十分な量だ。だから春風に巻き上げられた埃を集める行為は極めて宇宙に接近する行為でもあり、我々が宇宙の一員であることを天文学的に実証する行為でもある。

ところが掃除をしながらこうした解説していた私にB女が言った。

ふん、春風に巻き上げられてとんできた埃の源はねそこらの犬や猫の糞ががびがびに乾いて風化してとんできただけだよね。中にはあんたの嫌いな三丁目のバカ犬の大グソや酔っぱらいの野糞も混じってるに違いないのに、飛んできたウンコかす拝んでなにが楽しいんだか。


・・・・・・埃一つとっても受け止め方は人様々だ。


たとえ風化したウンコが中空を漂い、それをあなた方みんなが呼吸しているとしても、わたしは春の塵は宇宙塵である!と言いたいと思う。

春の小道

家からほど近く、地面が土塁の跡のように長く細く盛り上がったところに桜の木が植えられて並木道となっている。 今日もそんな桜の下を歩くと、春の陽光が道の上にふくらんだ蕾の影を落としていたが、やがては花の雨降る桜のトンネルも、今はまだほのかに薄紅の春霞をまとったような無数の枝が連なっていくだけだ。

 

満開の桜はすばらしいことに異論はない。だが桜がその枝の周りの空気に何かを帯びさせるほころび始めの短い時期、淡くピンクの混じったくすんだ木肌のカントリーカラーが私は好きだ。

 

そんな枝と蕾の影が織りなす足元のまだら模様を踏んで歩くのがうれしくて地面を見渡していると、思いもかけず小さな花にもよく出会うこともある。

 

桜は顕然たる春の大プロジェクトだが、路肩で精一杯花びらを広げる小さな花が紡ぎ出す春もまたその春の価値において何ら劣るところはないのだ。 咲き始めた桜を追いかけ、桜を見て春を見ない花見客が足元の花を踏みつけて顧みないことがないようにと、ちょっとだけ願った。
 
ハナニラ

 

春風の吹き出すところ


朝、ベランダから眺める少し離れた茂みの枝が光った。


光はすぐに隣の木立に伝播し、広がりながら手前の草むらにあふれ出して
あたりの植え込みや街路樹を巻き込んで波打つように押し寄せてきた。
たちまち私は大きな光と空気のうねりに飲み込まれ、まるで水流の底から空気を求めるように
上を向くと、まだ明け切らない半分乳白の青空が見えた。
そして私はただ振り返って風の去っていく方を見やった。

前の年も、その前も、いつごろからか知らないけれど、
これが今頃決まって家から目にするたぶん風の吹く眺めだ。

私は最初に光る茂みの辺りにきっと風の始まる場所があるのだろうと思い、
風が動き出す静と動の境目を見ようと、今年は少し早起きして立っていることにした。


今頃といっても毎日気温も天気も違うから、確実に会える保証はなく、
散歩のついでのどこまで本気かわからない半分遊び心からのことだったが、
四日目の朝、私は風の始まる場所に立ち会うことができたのだ。

静かな朝、その静けさがきわまって空気が息を止めたように思えた瞬間、
まさに私のいた場所から空気が動き出したのがわかった。

見えるはずのない風の基点、静と動の境界、静けさとざわめきの分解点に私は引き込まれるように
体と意識がバラバラになって、明るい光景が見えた。

・・・見知らぬ同士だった彼女と友達になったのはあの日あの時のこと、
全くの他人だった彼女とかけがえのない仲を意識するようになる始まりのこと。
はためく風の最初の蠢動は、彼女と会って話したときにぶつかった青葉のような息の匂いだった。
それは今はもう会えない彼女との始まりの記憶だった。


*


動き出した風はたちまち吹き去っていってしまってけれど、
きっとどこかに風の帰る場所もあるのだろうか。
 

次はその場所を見つけてみたい。

ハナミズは出してこそ美しい

花粉症の鼻水はさらりとして粘度が低い
そのため鼻の奥で洟が涌いて、まだ出口に到着するのには時間がかかるだろうと油断していると、新幹線のような速さで走ってきたりすることがあるので要注意だ。花粉症歴も長い私などは洟の湧出状況をつかむことに熟達している上、一切の迷いが断ち切れているために、洟をかむタイミングを外すことはまずない。というか、人目はばからず「ブッピーン!」と洟をかむことにためらいはない。 
ところが、世の中には、洟をかむことを恥と考えているような人もいるらしく、決して洟をかもうとしない人間もまたいる。 
不可解なのは、そういう人間は洟はかまないが、ハナミズをすすり上げるのは平気らしく、電車の中でも、会議の最中でも、歓談中でも、大音響を上げて「ズズズズズびー!」と洟を盛大にすすり上げてもすました顔をしていることだ。

 

たとえるなら小学校男子が学校で大用を足すことは恥で(そういう奇習があった)、事情の如何に依らず、大用便所に入るというのは「ウンコタレ」という称号を与えられることを覚悟せねばならないように、「この、いい大人がハナタレめ」と呼ばれるとでも思っているのだろうかとも思えてしまうほどだ。 そんなヤツは若い一見きれいでおしゃれに気を遣うお姉さんにも妙に多い。そんなのを見かけてしうというのは、妖怪はなすすりに出会うようなものである。

 
以前電車の中でしきりに洟をズルズルすすり上げる若い女がいたところ、前に座っていたおばさんがあきれたのかたまりかねたのか、「アンタ、ほら、持ってないの?」とティッシュを差し出したことがあった。周りのオジサン・おばさん、お兄さんにたちからは「おおっ、よくぞ妖怪退治やってくれた!」という空気が溢れたのが分かったものである。ハナズルの妖怪姉さんは、「いいです」と言って次の駅で降りてしまったのだけれど。ふん。
   
たれてくるハナミズは、空中のバイキンがついたまますすり上げて再び鼻腔内に収納するより、潔くティッシュやハンカチで始末した方が、格段に見た目も良いし、衛生的である。これは疑いがない。

  

ところで風邪の洟は青っぱなまで行かなくても花粉症とは違って一般に粘度が高くなる。私もこのところ洟のキレが悪くなったところをみると、少々風邪気味なのかもしれない。先週などは会社帰りにあまりの強い向かい風に顔を背けたところ風に引っ張られた鼻水がビャ~~ッ、と糸を引いて飛んでいった。 

風に乗った粘る鼻水はその先で信号待ちをしていたBMWのリアウインドウに到達し、青信号と同時に猛発進したBMWとともに吹き流しのように去っていったのだった。 優美な曲線を描く透明なその流体は、都会のネオンの様々な色を反射してそれはそれは美しい眺めだった。。。

 
私のハナミズだけどな!


春寒の風と散乱する光

春だと思っていたらこのところ冬並みの寒さが戻っている。
毎朝出勤途中に眺める畑には霜柱が立ち、吹き付ける北風に顔の皮がつっぱる。

 

ちょうど世の中も年度末が近く、役所の予算消化のためか不要不急の道路だの水道だのの工事があちこちで始まっているが、冬もまたこれまで出し惜しんでいた冷気を今頃になってやっと放出する気になったのだろうか。

 

それよりももともと春というのは気候が安定しないものではあるけれど、こんな大きく行きつ戻りつする気候の中で、草木や虫はいったいどうやって春を認識して、花を咲かせたり卵や土から出てきたりするのか考えれば不思議で、不思議と思えばまた驚きでもあり、やはり春は稀有な喜びをもたらすもののようだ。

もっとも、動植物の体内には積算気温やら積算日照時間だのというものを計る機能があって、今日は日中の平均気温は7度だったけど昨日は12度だからこれを足すと19度で、12月以来の累積は300度になるかな、といった具合にちゃんと春に至る道程の歩数を数えているらしい。
・・・やっぱり不思議ではあるが。


先日もベランダで洗濯物を干してみると、肌を打つ風は二月のようだったが、春への道のりを数え上げたらしい植物の明るい緑と三月にふさわしい明るい日差しが目に飛び込んできて、いかに寒かろうとも春への大きなうねりは確かなようだ。


  春寒の 白シャツまぶしい青空に
    光りはためく三月の風



などとタワゴトを口走るほどもう春なのだなあ。。。

桜、咲いたか 咲かないか?

今日はあまり見ないテレビを見ていたところ、ニュース番組で意外とも言うほど時間と手間を割いて、気象庁のミスによる「桜の開花予想日の修正」を解説していた。ニュース読み屋のお姉さんは、それこそ鬼の首でも取ったかのように「気象庁のミス!」と連呼し、映像は町行く人や花見関連業者の苦情めいたコメントを流していたのだった。
こんなことがニュースのトップを占めるくらい平和な日だったのはいいことなのだろうが、何とも違和感を感じたのは私だけではあるまい。


花見を当てにしてライトや仕入れの手配をしていた業者にはお気の毒だが、桜の花がいつ咲くのかなどということまで官製報道を当てにして、季節の巡る感覚まで他人の情報にすがらなければならないほど、現代人は自分でものをとらえたり感じたりすると云う感覚を失ってしまったのだろうか。

そもそも台風情報などとは異なって、桜の開花予想などと言うものはシャレのようなものである。季節の変化を楽しみ、春の到来を指折り数えて心待ちにする過程での遊びである。それを確度の高い情報であるべきように、気象庁のミスと指弾し、数日修正したことにもっともらしく苦情を言うのは、季節の予想を金利や株価の値動きの報道と同列にとらえるような人間を見たような気味悪さがある。  もちろんこんなこと不快と思うのは少数派なのかも知れない。それでも、身の回りの季節の到来まで他人の作った「情報」に頼るという人間などというのは、本当の風情を知ることはないだろうし、まして情報に踊らされるまま立てた予定上のイベントの一つとして消化する花見など、季節の移ろいや揺らぎとは無縁なのだろうと思われる。

 

現代において、私たちはますます、飽くことなくより多くの利得を求める一方で、より多くの成果を求められながら、より多くのリスクを背負わされ、その結果、より正確な情報だけを求めてはあらゆる余裕を無くしている。


しかし、現実には利得も要求される成果も満たされることは滅多になく、それどころか追い求めていた利得も成果も本来の目的ではなく、幸福への手段に過ぎなかったことすら見失っている始末だ。こんな世界のありようが世の中に蔓延する絶望や不安、厭世観を招いているとも言える。


こんな世の中だからこそ、季節がいつ変わるとか、花がいつ咲くだとか、鳥がいつ鳴きはじめるとか、身近で当たり前で単純なことは、他人の情報に委ねずに自分の感覚で確認して行くべきだろう。そうしてそんなシンプルで当たり前のことを自分の感覚で一つ一つかみしめて確かめていくことは、きっと不透明で不安な毎日の小さな救いになるようにも私は思う。  

たいていの人はそんなことは分かっているよ、と言うだろうが、そうでない人はすぐにも確かめて見るといい。簡単なことだ。

 

例年、スイセンの花が咲くのはいつ頃ですか
町内の桜で春一番はじめに咲くのはどの木ですか
公園の木の名前をいくつ言えますか
春にやってくる鳥はなんですか
今日の月齢はどれくらいですか
風の吹き始めるところと吹き終わる場所を想像できますか
道ばたや空き地のきれいな石を見つけたことはありますか
火星はどっちに見えますか

いま近くの空き地の草に花は咲いていますか

・・・・・

春ひとつ、ふたつ


菜の花


暖冬だ、ぬるい冬だ、春が来たことをどうやって識別するのか?とかなんとか、

なんだかんだと言っているうちに春は本格的に進行しつつあるようです。


虫がちらほら飛び始め、昨日はシジミ蝶が飛んでいるのに遭遇したのは
ちょっと驚きましたが
今日は庭にヒルがお出ましになったのにはさらに驚きました。


コブシやカラスエンドウの花も咲きだし春の役者は次々と舞台に登場しつつあります。

一斉に静から動へと変わる春の空気には、
わけもなく心がざわめき高揚するのを覚えずにはおられません。


もちろん花咲き小動物が駆け回る春の賑やかさはとは、それぞれがパートナーを求める
雅歌であるわけでありますから、
春の空気に心浮き立つような気分がもたらされるのも道理というわけでしょうね。