酒とホラの日々。 -37ページ目

美しい日本 総理の決断 


あの日、誰も予想もしなかったタイミングで首相辞任劇のあった日の
国会代表質問の二十分前のこと、極度の緊張の中で安倍晋三は迷っていた。
「私は・・・これから手洗いに行ってウンコをするべきか小便をするべきか。」
 
おや?と思った読者のためにちょっと解説をすると
一般に男性はトイレに入る前に小便をするか大便をするかの決断をする。
トイレに到着し用便の行為に入るときまでにどちらかの意思決定のプロセスがある。
一方女性はトイレに行く際に大小の判断を迫られる局面はない。
つまり、男は明確な意図をもってトイレを往訪し、女は漫然とトイレを
訪れる生物であるのだ。

  
また緊張と精神的疲労の中では些細な事柄も大きな負担となることがあるのは、
特に説明するまでもないだろう。
安倍晋三は積もり積もったストレスと閉塞感の中で、ウンコをしようか
小便をしようか、判断のあまりの重さに追い込まれていたのだ。
 
「ウンコすべきか、小便すべきか、それが問題だ・・・」
判断のつかない苦悩を抱えて晋三はトイレへと重い足取りで歩みを進めた。
するとトイレの前で出会ったのは麻生である。 麻生は快活な笑みをたたえて言った。
「あはは、総理、ここはひとつ連れションといきますか」
 
こいつは、人がこんなに悩んでいるのも知らないで・・と怒りがこみ上げると同時に、

晋三は糞(ふん)切りがついた。

 

「ちょっと、幹事長」 
晋三は甲高い声で宣言した。
「私は総理を辞任しようと思う!」
晋三はウンコか小便かという深い迷いを、

総理の辞任というケツ断をもって断ち切ったのだった。
  
このような事情から、現在の混迷する政局の運営には

大小の性急な判断を伴わない女性総理が適任ではないか

とのうわさが流れたのだが、さすがに急なことで女性候補擁立には至らず、

どちらかというと強面で男性的な麻生が嫌われ、

福田首相に落ち着いたというのが、今回の自民党総裁選~首相選びの真相なのである。

 

 


 

ミシマ君の場合

ユキオ君にはわからなかった。なぜ自分がモテないか。

 
自分では当世風の王子様顔だと思うし、
ファッションだって髪型だってメンズノソノで日夜研究して
モテる路線を追求しているし、近頃じゃボデービルに通って
筋肉もだいぶ付いてきた。腕立て伏せだって懸垂だって
ちょっとできるようになった。

 
「金がないからかな・・」

万年床から天井を見上げてユキオ君は考えた。

 
たしかにユキオ君は半プーでファッション以外に回る金が無い。

やはりモテるためには、人目を引く外車乗って六本木の
マンションに住むくらいじゃなければ女はついてこないのだと
思ったユキオ君は、手っ取り早く銀行に向う現金輸送車を襲った。

 
モデルガンで警備員と銀行員を脅し、重そうな袋を死ぬ思いで
担いで逃げてきたのだが、人のいない倉庫で袋を開けてみると
10円玉がぎっしりと詰まっていた。銀行の硬貨搬送袋には10円玉が4千枚。
10円玉は一個4.5グラムなので18キロだ。重いわけである。

だが4万円ではサラ金で借りたモデルガンの代金にもならない。
放心したユキオ君は絶望してビルから転落する。

 
だが、たまたまそこに居合わせたマッド・サイエンティスト、大山忍三郎博士の
人体組成手術の実験台として蘇ったのだった。
大山博士は異なる人体の部品を接ぎ合わせて新たな人間を作り出す
研究をしていたのだ。

 

この結果ユキオ君は他人の下半身と継ぎ合わされた現代のフランケンシュタインの
造物のような新たな生命体として復活したのだが、継ぎ合わされた
下半身の主はオカマだったために、心と体が空回りしてモテるかどうかなど
どうでも良いことになってしまった。

 
そして現在のユキオ君はお釜バーの看板娘、モテテモテテ、ウハウハの毎日だ。
時々モテる自分が妙な気がすることがあるが、
細かいことはまあいいか、と思うユキオ君である。

  

 

神様の飛び散ったウンコかす

この星の権力者は常に愚か者を好む。それはすなわち賢い人を嫌うということでもある。権力者とは専制君主や独裁者、一国の運営に影響力を持つ政治家や官僚・金持ちのことだけではない。
会社で、スポーツクラブで、文化サークルで。小さな社会が出来上がればどこにでも人の話を聞くより自分の話を聞かせたい権力志向が現われる。
だから権力はその大小に関わらず、無条件で人の話をよく聞く、自分では何も考えない愚か者が大好きなのだ。


そしてだれしも長いものには巻かれたがるから、権力者の「教え」をありがたく頂いては、自立的に考えない愚か者としての同質性を確認しあうために宗教がある。私たちは教義を何の疑念なく押し頂いて信奉し、自分で何かを考えだしたりしません、というわけだ。


だから本質的に宗教は非知性と蒙昧の証である。と同時に宗教とは宗教団体の中にだけあるわけではなくて、私もお前もみんな一緒の馬鹿だという仲間意識を確認しあう社会のいたるところに存在する。

たとえば会社にしても業後の宴会はいかに同質の馬鹿かをさらけ出したものがかわいがられ利口ぶったやつは疎んじられる。まさにこれが会社の宗教的行動である。会社も宗教も言うことは同じだ。

「言われたとおりに生きろ。お前の考えなんて間違いだ」

だがなにも私は会社も宗教も否定しているわけではない。普通に考えれば宗教や会社を必要とする人にも、しない人にもそれぞれ客観的な基盤というものがあるものだ。だから宗教が必要な人も、不要な人もお互いの社会的基盤を理解しないでお互いを非難し合ったとしても、不毛なだけだ。 

だから互いに他者の基盤を理解することができないというのなら(ほとんどの場合そうだが)その場合、それぞれの信条ではなく、互いに自分の考えを他人に押しつけないことだけがこの世界で共通の崇高な事となる。言いたいのはそういうことだ。

ただ、この星で本当に信奉され、熱烈に求められる神は実は二つだけある。神のひとつはパンツの中にいて、もうひとつは主には財布の中などにいる。他のすべての宗教による神や聖人はこの二つの絶対神のパシリであり、二つの絶対神の目的を助けるために機能する。

 

この星にはそんな多数の宗教が乱立しているが なかでも特にたちの悪いのは一神教というやつで、他のグループの神を認めないため、人々がいがみ合って利潤機会を増やすことを助長し財布の中の絶対神の目的を強力に補佐することになっている。パシリの神々の行為はあるとき産軍複合体として高度化し、絶えず戦争を求めずにはおられない麻薬中毒者のような社会構造を生み出してしまった。

 

パンツの中の神のほうは以前に比べればだいぶ安っぽく手軽に入手できるようになったが、それでも狂おしくこれを求めずにはおられない人間の人生を激しく浪費させることに変わりはない。

これからこのブログ書くのは、主にそんな財布の中とパンツの中の神に振り回されて無駄の固まりを生きる人生の諸相についてとなることをお断りしておきたい。

  

茜色に染まる夕暮れの町で

 

今日は私の行動と遭遇した出来事について書くことだけはやめておこうと思う。
これは決定である。決定した以上ここで「終わり」としてしまってもよいのだが、
それでは文だけで出来上がるコミュニケーションが成り立たないから、
出来事の中身を書かず輪郭だけを書いてなぜ私が書けないのかをほのめかすに
とどめることにしよう。

  

  

昨日の16:10ごろ、私は都内に多数ある外資系の喫茶店でラテを
飲みながら本を読んでいた。ラテとはコーヒー牛乳のことである。

 
もちろん平日の業務時間中のことだから、これはサボタージュに該当する恐れも
あるかもしれない。だが、この日出かけた業者による商品紹介を兼ねたセミナーが
まったくのクズで、私は早々に切り上げて空いた時間を18:00からの
業界会合に備えて待機していたのだ。
会社より、仕事よりも大事な業界の会合というものも世の中にはあるものだ。

 

やがて店内には次第に濃くなる茜色の光が斜めに差し込むようになり
私は読んでいた本からふと顔を上げると、
全面ガラス張りの壁を隔てた外の騒ぎが目に飛び込んできた。
なんと下半身まるだし男が交差点の向こうから駆けてくるのである。

男はちょうど喫茶店の前で警察官に取り押さえられ

喫茶店のすぐ隣の交番に連れ込まれてしまったのだった。
  
私がそれからたっぷり1時間ほど時間をつぶして出て行ったときには騒ぎの
痕跡はすっかり失せていたが、近所の物見高い野次馬によって、しっかりと
情報は整理されていた。野次馬の情報収集力はあなどれない。

 
近所の店で聞いた夕暮れのフルチン男の真相はこうだ。

 

フルチン男は近くのスーパー銭湯に行っていたのだが、

直前に脱衣所で他の客とトラブルを起こしていた。

社会的なはぐれ者や愚か者にありがちなことだが、
肩がぶつかったのどうのというつまらないことだろう。

 
それでもトラブルを根に持った男は恐ろしい復讐を企てたのだった。
それは脱衣所の扇風機の前で屁をこくというもので、屁は扇風機に拡散されて
相手にも臭気を含んだガスを吸わせることになる、はずだった。

 

男は扇風機に尻を向け勇んで腹に力をこめたのだが、怒りがあまりに強かったために
力の加減を誤った。

 
このため飛び出したのは気体ではなく固体というか、液状化した部分も多かったらしい。
噴出した茶色のやつは勢いよく扇風機の羽にぶつかって次々に方向を変え、
脱衣室のありとあらゆるところに飛散した。床にも壁にも天井にもトラブル相手を含む
その場に居合わせた人間の胸にも顔にも・・・

 

茶色の散弾を浴びて呆然とする人間たちが何が起きたのか把握するより早く、
犯人の男は次に確実に見舞われる困難を避けるため脱兎のごとくその場を飛び出して、
目的地も何もなにも、ただただできる限り現場から遠いところに移動しようと、
街中を駆けてきたというわけなのだった。

だから男は決してワイセツ物陳列を目的にこのような行為に及んだのではないと
力説したらしい。あの場にいたら、相手のやくざ者にどんな危害を
加えられたかわからないから、これは緊急避難だったのだ、と。

この結果男はどうなったかって?

このときはまだわたしは勤務時間中であり、町中の野次馬のヨタ話に

付き合っていたはずがないではないか。 
・・・昨日の出来事は書かないという冒頭の「決定」に沿って私はここで筆を止めることにする。


 

きれいな水・おいしい水

訪ねたオフィスの待合に、いつからかミネラルウォーターサーバーが置かれていた。
大きなボトルが逆さに据え付けられ、いつでも冷えた水またはお湯を飲むことができる。


ウォータサーバー

待合はほぼ満席で、並んで座っていたA君が言った。
「あれ、あのウォーターサーバーっていいよねー。
家庭用も出ているから、うちにも置いておこうかと思うんだ」

「そんなにいいかねー」

するとまた目の前で、誰かが水を紙コップに注いでいた。
水を出すたびにボコボコと空気が入っていく。

そこでわたしは聞いてみた・・・。

「滅菌用の塩素も入っていない動きもしない水が蓋を開けて
何日もあるわけだろう。水を出すたびにこの部屋の空気が
あのボトルに入っていくわけだ。

それはどんなものだろう。
取り込まれる空気には空気中の『あれやこれや』も一緒だ。


あれやこれやとは、
私の息・君の息、誰かのくしゃみと一緒に散らばったつばの飛沫、
あそこにいる加齢臭の漂うオヤジから立ちのぼる汗、
脂じみた足の臭いをはらんだ空気、
そこにほれ、いま通りかかった年寄りがをこいた・・・。

そんな『あれやこれや』が、ボコボコとボトルの中の水をくぐり、
水中に溶け込んでは熟成されたやつを君が飲む。

うまい、ミネラルウォーターは、うまい・・・。」

するとすぐ隣に座っていた女性が立ち上がり何か言いたげに
こちらを向いたのだが、直後に突然顔を背けて嘔吐し始めたのだった。
やはり、と言うか案の定、手にはかのミネラルウォータサーバに備え付けの紙コップが握られていた。
 
待合は騒然とし、周りの人間に介抱される女性を見送りつつ私は言った。
「見ろ、意外に早く危ないミネラルウォーターの影響が出たな」
「・・いやあ、あれはお前の話のせいじゃないかな」
「何を言う、それは彼女がミネラルウォーターを飲んでいたからこそだろう。
あの水さえ飲まなければ、あんな目にはあわなかったものを」
 

それでも何もわたしはミネラルウォーターサーバを否定しているわけではない。

こういうとA君は嫌な顔をしていたが、

清潔さに神経質で潔癖性の人間の鍛錬には、きっとアレはいいものだと評価している

くらいであるのだ。

  

   

 

休暇の終わりにコーヒーを

 

三連休も終わってしまう。。。

酒でも飲んで正気(?)を保とうとも思ったのだが、昼酒はだるさをもたらす

負の効用も大きいので、 なんとなくコーヒーをいれてみた。

 

我が家でコーヒーを入れる手段は直火式のエスプレッソメーカーなのだが、

これは大きくて立派なコーヒーメーカーが壊れてしまった時に買ったものだ。

むやみに大きくて場所をとるうえに掃除も面倒なコーヒーメーカーを厄介払いし、

今度は場所もとらないコンパクトなモノにしようと、このコーヒーを淹れる

ヤカンのようなモノを買ったというわけだ。


エスプレッソメーカー

だから、コーヒーはなんでもこれで淹れる。我が家で出てくるコーヒーはすべて

エスプレッソスタイルとなる。

エスプレッソは濃くてからだに悪そうと思う人もいるようだが、どうやらそれは勘違いで、

雑味もなくすっきりした味わいのエスプレッソは高圧の水蒸気で短時間抽出するうえ、

豆も深煎りでカフェインが少ない。

 

また、エスプレッソはデミダスカップというおままごとのような小さなコップに飲むから

飲んだ気がしない、という人もいるが、

これは好み次第で、なんのカップに飲んだってかまわない。実際うちでは3人ぶんくらいを

普通のコーヒーカップで飲んでいる。

そもそも、デミタスカップとエスプレッソは最初からセットだったというわけではないのだ。

デミダスカップができたのは19世紀の初め、ナポレオンの大陸封鎖によりイギリス経由の

貿易物資がヨーロッパに流入しなくなって、コーヒー豆の供給もまた逼迫したため、

コーヒー屋苦肉の策としてコーヒー豆節約カップとして登場したものである。

一方のエスプレッソが生まれて一般に広がり始めたのは20世紀の初めのこと。

デミダスカップとエスプレッソコーヒーは100年も生まれが違う。

こう書くとコーヒーにうるさいようだが、

実は日常的にコーヒーも飲むようになったのは比較的最近のことだ。

元来が、頑固な紅茶党だったわたしがコーヒーを飲むようになったのは連れの影響が大きい。

 

それもごく若い間は自分のスタイルにこだわり、

コーヒーは飲まず紅茶を飲む事にこだわっていたのだが、年月を経るにつれ、

日々の生活への関心がより大切になって、こだわりなどどうでもいいことになり、

今ではたまにコーヒーを飲んでみるようになった。

・・・よくローストされた堅い豆粒の感覚、

ミルで粉砕されてパウダーの柔らかな茶色いやつ。。

吹き出す蒸気の音とともに広がる香りには

鎮静効果があるのだろうか。

とはいえ今もって、紅茶党の旗印をおろしたわけではないし、

コーヒーのうまさが何か分かっているとは言い難いのだが、

少々の手間と儀式めいた手順を踏んで注がれるコーヒーには

ちょっと時間の流れを転換する何かがあるようだ。

どうやらそれだけは認めないわけにはいかないようだ。

愚か者の石

F嬢の日常は幸運に満ちている。 とF嬢は言う。
なるほど、かつてたまたま占いで見た黄色い財布を持ったところ宝くじの高額当選を果たして、若くして会社を辞めた。その結果今は宝くじの当選予想をやってこれを買いまわる「宝くじ生活者」でジリ貧にあえいでいる。傍からみればこれは転落だが、本人は認めない。
先月は別れ話の場に「幸運のナイフ」を買って出かけたところ、相手にナイフで刺されて怪我をしたが、これも凶器が「幸運のナイフ」だったために致命傷に至らず重症で済んだのだから幸運なのだと本人はいう。

また、F嬢の日常は忙しい。。
朝一番に見たクモの巣は丸めてへその窪みに入れないといつか死ぬ。カラスにつむじを見られると橋から落ちる。
西に黄色い四角の植木鉢を置いて西枕で寝ると儲かる。耳に小豆を入れて足の裏をたたくと腹を下さない。二十一日の月の晩に他人の墓石を削って飲むと賢くなる。その他いろいろ・・・・・・・・

 
卦軸、風水、星占い、幸運の壷、石ころ、マイナスイオン、F嬢はありとあらゆるものを信奉しており、行動の決定の第一のよりどころなのである。一旦あやふやな偶然で幸運がもたらされて、それが運勢だというのなら、その運勢があやふやな偶然をもってそれを取り返してしまうこともあるだろう。でもあやふやな偶然に動揺してしまうと、
一生あやふやなめぐり合わせや偶然に突き動かされては右往左往していなければならない

 

吉日を選んで悪事を働けば凶日となるし、凶日に善行を行えば吉日となる。吉凶を決めるのは人の行いであって、日や占いではない。誰しも人智と力を尽くして最後の結果は神仏に委ねることはあっても、日々大切なのは「自分で決める」ということなのは今も昔も変わらない単純な真実である。

 

確かに自分で決めるのは難しいし、決断にはエネルギーが必要だし、自分で決めたとあれば結果に対する責任は自分で引き受けねばならない。これは自分自身がしっかりしていないと困難が伴う。それでもあやふやな他者に自分を委ねず、自分のことを決められる自分でいることこそ、自分の人生をいきることだろうが、F嬢は今日も石ころを拝んで、幸運を願って宝くじを買いに行く。

 

表現者たちの秋

芸術について、先ごろ亡くなったアメリカの作家カート・ヴォネガットが
「芸術に関わることは魂を豊かにしてくれる」
と言うようなことを言っていたが、とてもいい話だ。

 

プロの芸術作品だけのことを言っているのではない。
芸術に関わるということは誰もが行う表現しようとすること。
自転車をこぎながら鼻歌を歌う、友達に散文詩をメールする、
広告紙の裏に絵を描く、寝室で踊る・・・。

 

芸術に関わることは日常の苦をほんの少し昇華してくれて、
世界に別の見方を与えてくれる。
それはとりもなおさず、心を豊かにすることであり、
心が豊かになることは人生が奥深く豊かなものになることだ。

大切なのは下手でもいいからただできるだけいいものにしようと努めること。
後ろ向きの野暮な皮肉で台無しにしないようにすること。
 
ところが、宗教を否定した20世紀を代表する覚者ジッドゥ・クリシュナムルティはことさら芸術など不要だというようなことを述べていた。
だがこれは、私たちが欲求や社会義務・宗教的しきたりに追い立てられ、目の前・すぐ隣にあるがままの美しさに気づかないことを指摘したものである。

 

芸術は一面で、ある種の人間の経済的欲求や自己顕示欲を満たすための手段であるかもしれないが、それは本当に一部の人間だけのことだ。投機の対象になった芸術や、群集的興奮だの流行に煽られた芸術は、バスルームの鼻歌やノートの切れ端の詩、小鳥のさえずりがもたらしてくれるような私たちにとっての芸術の効用をすでに失っている。

 

美術館に収蔵されていたり売り物になった芸術品だけが、高尚なのではない。 芸術は私たちのそばにあって、息苦しい世界の外にはまた別の世界が広がっていることを教えてくれる覗き穴を壁にあけるようなものだ。

 

  

下手くそな詩を書いて、好きな歌をがなって、早起きして朝日を眺めて、みっともないダンスを踊って、灰色の壁の穴に気がついたとき、穴の向こうから誰かが手を伸ばしているかもしれない。

 
それは大切な誰かさんかもしれない。

ひげと休暇と、夏の終わり

休暇の終わりの最後の晩はいつも、私はバスルームでひげをそる。

つまり休暇の間ひげは伸ばしっぱなしだということだが、
なにも毎日ひげをそるのが面倒だというわけではないし、
ひげを伸ばして威厳をまといたいというような稚気に満ちた
たわいもない気分があるわけでもない。

 

ただ私のひげは、普段は堅い(と思われている)仕事と、そんな社会的自分から
開放された個人的休日とを峻別するささやかな意思表示であるのだろう。
もっとも、連続した休暇とはいえたいていは数日のことで、
いくらも伸びるわけではないのだけれど。

 

それでも普段の土日の最後には短く硬くてバリバリというひげだが、
幾日も続くような休暇の最後のひげは、ふさふさとまではいかないまでも
ちょっとだけ長く柔らか味が出てきて、
どことなく風格を帯びてきているような気もする。

 

休日の最後はこんなひげを剃って洗い流すだけのことだが、
それでも生活の流れのささやかな区切ではあるだろうし、
あるいは人生の一こまにおける「終わりと始まり」を感じとる
手段であるのかもしれない。

 

  

実は今年の春先からある試験を受けるための準備をしていた。
学生ではないから勉強だけやっていればいいわけではないので、
生活と仕事におわれる中で準備の方法と計画を練り、
何週間も続く準備期間には徐々に試験のための体制を固めていくのだが、
途中インフルエンザで寝込んだり、途方もない仕事のイベントが舞い込んだり、
長丁場のうちには予想外の出来事がいくつも起きるものだ。

 

それでもただ私は、自分の立てたスケジュールの進捗をチェックして
不意の出来事を飲み込んでは淡々と予定を消化していくだけだ。
自分の立てた道筋、方法論が揺らいではいけないのだ。

 

当たり前のことだが、準備は単に勉強するだけではない。
生活と心と体を試験向けに作り上げていくのだが、
試験用の机や文具をそろえたり、寝起きのリズムを変えたり
受験日に体調がピークになるように食事や行動に注意を払って、
生活や仕事で忙殺される隙間に詰め込む勉強時間などは
ごく限られたものだ。

そんな手を尽くしてやがて受験を終えると、

準備を始めた頃にはまだ寒かった季節は、すでに夏にさしかかっていた。
だが試験が終わっても結果が返ってくるまではまた幾日も待たねばならず、
また長い長い宙ぶらりんの期間を過ごさねばならないのだった。

 

この間、普段通りの仕事もし、いつもの生活を取り戻し、
受験まで先延ばしにしていた趣味にお金と時間を使い、
また休暇をとって旅行にも出かけてきた。
 
私にしては長い旅、それも船の旅から帰ってくると
ひげもだいぶいい具合に伸びてきていたのだが、
それは今回の休暇も終わりに近づいたということだ。
そこでいつものようにひげを剃ろうとしたのだが、
ふと気がついてPCを上げメールボックスを見ると、
ちょうど試験の合格通知が届いていた。

 

不思議とこの合格には何の感動もなかったのだが、
ひげを剃りはじめると、休暇が終わったこととともに、
長かった私の試験期間もようやく終わったことが
じわじわと実感されてきたのだった。
   

 

仙人の庭

知り合いにFさんという老人がいるのだが、だいぶ前に連れ合いに先立たれ、都内に150坪の地所に建つ屋敷に一人で暮らしている。

都内で150坪は破格の広さといわねばならないが、Fさんの後はきっと5~6個には分割されて都内風の庭無し一戸建ての建売住宅として分譲されることになるのだろう。

それがいつのことかはまだ分からないが、今はまだFさんの自慢の(?)庭が広がっている。


何年か前にFさんは年齢とともに手間のかかる盆栽に見切りをつけ、今では植木のほとんどは地植えに移行した。

その移行期に私にも盆栽をいくつかくれたのだが、盆栽はただの鉢植えとは違う。手間もかかれば知識も技術も必要だから、普段から多忙で無精なうえにもともと庭木と鉢植えで精一杯だった私の手には追えず、もらった盆栽は二年くらいのうちにすべて消滅したか見る影もなく姿を変えてしまったのだった。


 「あーcaptain-jack君、君にやったあの、ほれ、○○の松と××の柏はどうしたかね」
 「はい、すべて朽ちてしまって、裏庭できのこが生えております」
 「ほー、私もずっと菌類の栽培にも手を出そうと思ったが、ついぞ手がまわらなんだ。
 珍しいのが生えたら今度見せておくれ」


こういう人であるから、親子以上の年齢差にもかかわらず気楽に付き合いができるのがFさんである。

 

大谷石の塀に囲まれたFさんのお宅は、家も庭も完全に純和風がベースで、以前はちょうど料亭や旅館の庭みたいであったが、盆栽卒業以来少々趣が変わってきた。ソテツの間にサボテンを植え、立ち並ぶブルーベリーやオリーブに小鳥が群がる様はでたらめな和洋折衷というよりは殿様の南蛮趣味のようなおおらかさがある。


  「老い先短い自分の庭だもの、誰かのお手本だの型だのを追いかけて きゅうきゅうとする時期はもう卒業したのさ」

 

庭園の型だの配置だのに頓着せず、のびのびと枝を伸ばす木々を眺めるFさんの表情には天真さと稚気が宿る。

庭造りはかくありたいものだ。


もちろん思うがままに作りたいのは庭だけではなく自分の人生においても、また同じだ。