突然のにわか雨の後に・・・
いつものように座って本を読んでいると、
窓に水滴がつき始めたかと思うとまもなく、
たちまち水煙を上げるほどの強い降りとなって
雨が眠気と埃のよどむ地表をたたき流した。
水しぶきを上げる電車、
つやめくアスファルトの路面、
クルクルと走り抜ける色とりどりの傘。
これは駅のホームの端で雨宿りしながら眺める
朝のシャワーショー。
ところが今朝の雨はなかなか弱まる気配はなくて
しだいに会社のタスクも気になりだした。
三十分も待てばよいのだろうが
休日ならともかく、出勤の日の数分はとても長い。
結局今日はたまたま傘も持っていなかったために
仕方なくキオスクで傘を買う羽目になったのだった。
めったにないことではあるがこのようして買ったビニール傘は
長い間には何本にもなる。
また次の雨降りに使われるケースもないので
いったいみんなどのように利用しているのだろうかと
傘を抱えた帰り道、ふと疑問に思った。
*
私の場合は、一本は庭用で物置に、
一本はベランダ用として道具入れに。
それは雨の日も楽しい外の空気に触れるために。
憂い顔の人面瘡(じんめんそう) (ホラーファイル№010)
昔、当時小学生低学年の私たちは近所の裏山で宝探しをすることが時々あった。
裏山といってもその実、山というほどもない小さな隆起で、しかも国道の拡張のためにだいぶ削られて雑木林の反対の斜面は落石防止のためコンクリートで固められて無粋な光景を呈しているのだった。
ただ、この山には昔地元の領主の砦があったが、他国に攻め落とされるときに黄金三千枚を埋めたという言い伝えがあって、確かに山腹には低い土塁のようなものの名残があったのだ。
眉唾物の伝説を頼りに、埋蔵金探索と称して低い山の林の中を駆けずり回って遊んでいたのだが、山はまだ見ぬ埋蔵庫への秘密の入り口や、盗掘を防ぐ様々な仕掛け、さらには黄金を守る妖怪や武士の怨霊が跋扈する場所だった。みんなそう信じていた。
ある夏の夕暮れ時、薄暗くなった林の中で、突然タダシが悲鳴をあげた。
どうやら犬のウンコを踏んでしまったのだが、そこは落ち武者の怨念の憑りついた人面犬が出没する林で、人面犬のたれる人面糞(じんめんくそ)を踏んだ者は人面瘡(じんめんそう)になると言われていて当時の小学生はみんなこれを信じていたのだ。
人面瘡とは初めはただのできもののようだが、しだいに盛り上がってこぶのようになって人の顔のような有様を呈してくる。さらに症状が進むとぶつぶつとモノを言うような音を立てたり開いた傷口がモノをくわえ込んだりする。やがて人面瘡がしだいに大きくなるにつれ人間本体のほうはやつれていって、終いには大きくなった人面瘡のこぶが残り、本来の首がまるでイボでも落ちるようにポロリと取れてしまうといわれていた。
「うわーん、オレ、もうだめだあー」と泣きじゃくるタダシの足元を見ると、
なるほど確かに踏んづけられた何物かがあった。
大変だ、ここは救急車を呼ぼうとサトシが大人を呼びに走り、私とタカシは歩けなくなったタダシを抱えて山を降りたがもちろん例の人面糞も一緒だ。病状と治療の特定のためには必要だろうと考えたのだ。
なんとか山を下ると、上り口の国道脇にはすでに救急車が待機して大人が二人立っていた。
症状を説明しブツを差し出したあとの、大人たちの態度が一変したこと、その後の叱責されたことやその顛末はよく覚えていない。
ただ、数日後の二学期の始業式で校長が、
「うんこ踏んだからといって大騒ぎするのはばか者だ、みんなはくだらない空想に関わらずに、一生懸命勉強をしなければならない」
というような訓示をしたことだけはよく覚えている。
私たちは、あれはうんこではなくて、妖怪人面犬の人面糞なのに、とも思ったが、それもすぐに忘れた。
それからなんとなくみんな裏山で遊ぶことに遠慮が入るようになり、迫力やスリルがなくなって、人面犬も人面瘡も話題に上らなくなってしまった。
あのとき以来、私たちの世界からは妖怪や埋蔵金は消えて、
それはただテレビが与えてくれるだけのものとなってしまったのだが、
いなくなったのは妖怪や埋蔵金だけではなかったのだ、と気づいたのはもっとずっと後のことだ。
そしてずっと、今も私たちは妖怪も埋蔵金も隠し扉もない乾いた道を歩いている。
君の好きな仕事 (ホラーファイル№009)
ずっと引きこもりだった君だが、最近家で仕事を始めたようだね。
SOHO?まあそんなところかな。
そもそも、引きこもりの原因は人一倍の汗っかきと、脂性で
対人恐怖症になったせいだというが、今度はそんな君にぴったりの仕事だ。
化粧品会社の委託で原料の製造採取を請け負うのだが
これが稀少で高級なものだけに結構な金になるのを
君はまんざらでもなく思っている。
化粧品の原材料には知ってのとおり鉱物性、植物性、動物性があるけれど、
人間の顔に塗るには当然のことながら、より人間になじむものがよいのに
決まっている。
はっきり言えば人体由来のものが圧倒的にいいということだ。
君は一日に数回、プラスチックの定規のようなヘラの縁で
顔の脂をこそげ落としては容器に入れる。
これを集めて化粧品会社に買い取ってもらう。
そして化粧品会社はこれを精製して高価な化粧品の原材料とする。。。
君は今日も美しいモデルが高級な美容液を顔に塗るTVCMを見た。
異性には縁遠い君だが、遠い世界のモデルに
なんだか親しみを感じるようになったようだ。
君の分身があの美しいモデルに
密着しているのかと思えば、君も仕事に陶酔に似た感覚を覚えるようだ。
それどころか気のせいか、最近モデルの顔つきの印象がなんとなく
変ってきて、君の顔つきにに似てきたような気がしている。
そういえば
あの女優も、あのモデルも・・・。
有名人の顔つきは初め違和感があっても、やがて流行となって君に似た顔つきが
世の中にあふれ出すことは間違いないと、君は予感している。
化粧品会社の担当によれば、君のアブラは特に濃厚で品質がいいらしい。
君は今日も精を出してひとりアブラのそぎ落としに励む。
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なんとなく二人称で書いてみましたら、
いろいろ発見がありました。
内容は、ホラじゃないホントかも。。。
私はラヴ・ソングは歌わない
人は快楽と安逸に身を任せるうちにおいて
他人を慮れることは極めてまれである。
たいていの人間は苦しみや悲しみにおいて
初めて他人の心情を考え思いやりもするものだから
万人と感動を共有する芸術は、
悲しみや苦しみの産物であるともいえる。
悲しみや苦しみの共通の下地があればこそ、
芸術は万人の心を動かすことができる。
一見明るい喜びに満ちた表現も、その底流には
悲しみやつらさ切なさがあるからこそ私たちは同じ感動を抱く。
***
暗い晩に流れる、流行おくれのラブソングを
聞くともなしに聞いていると
弱さ、吹っ切れなさ、頼りなさが
過去の記憶とともに負債のように押し寄せて来た。
『喜びの世界』 スリー・ドッグ・ナイト
(Just an ) Old Fashoned Love Song 等を収録
『瞳子』 ・---世の中への違和感を持って生きる
装丁がきれいだったので何気なく手にした普段あまり読まない漫画本だが、
1980年代に学生時代を過ごした著者の回想的作品のようだ。
テーマは世の中の大勢派への違和感を持って生きること、
とでもいえようか、ニートの起源でも見たような気分になった。
大学卒業後就職もせず親の家でぶらぶら過ごす主人公の瞳子は、
対人接触上の障害があるわけでもなければ、
勘違いのオンリーワンの自分を求めているわけでもない。
ただ、自分は何者かを探すというよりも、「自分が何者でないか」を
よく見据えている。
世の中がバブルへ向かおうとしているくらいの時代に
特に大きな障害もなく順調そうに大学までを過ごした人間が
世の中のマジョリティに同調しない行動をとるのは
さぞ過ごしにくかったのではないのだろうか、とも想像する。
(あくまで私の想像だが)
言い寄った金持ちのハンサムを受け入れられなかった瞳子は
次のように友人たちに述解する。
「好きなことが一緒なことより、嫌いなことがいっしょの方が大事な気がする」
今はなんでもポジティブにとらえないことは悪であるような風潮が世の中を支配していて、
パートナーとの関係も明るく前向きにネガティブな面を排除して努力して作っていくものだという
ある種の勘違いが横行しているが、
瞳子の言葉は、
意図して作られた協調だけでなく、
情けなさや負の面を互いにさらけ出して共有できる間を持てる関係が
パートナーなのだ、ということを突いている。
人間は努力して負の面・陰の面を排除して完全な人間になるわけではない。
光と影、正と負との混合体であること全部を肯定することが
自分として生きる唯一の道だ。
現在はいよいよもって経済的価値だけが唯一の価値基準のような有様が進展して、
意識無意識のうちにも、社会的世間的価値への迎合圧力に違和感を覚える
人は多いだろう。
この作品はやはりそんな違和感があったことの、80年代における風景である。
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今は漫画文庫でも出ているようだが、装丁のきれいな単行本のほうが
手に入れるなら圧倒的にお奨め。
真夏の夜の夢、でないやつ(現実)
この時期は毎日どこかで様々な花火大会が開かれていて、
高い建物に上ると、遠く地平近くに小さな花火の円が広がるのが見えたりする。
おもちゃのように小さくかわいらしい光だが、ちゃんと輪郭と放射状の星が見える。
そんな遠くの花火に思わず目を凝らしてしまったりするのだが、
遠く距離を隔てても、今一緒に同じ期待をこめて空に目を凝らす人たちがいると思うと、
なぜか意味もなくひとりでに笑えてきてしまう。
暮れてもなかなか静かにならないにぎやかで華やいだ夜の空気は
夏の夜ならではのものなのかも知れない。
このうきうきするような同じ夜空を抱く同胞に幸運がありますように!
と願いたいような気分。
*
・・・とまあこんな風に書くと、麗しい夏の夕べのようだが
実際このところ毎晩暑い。湿度も非常に高く空気もべたべたと暑苦しい。
日が落ちても涼しくならないのでは「夕涼み」とは言い難い、
夕涼みでなくてただの夜遊びではなんとも風情がない。
だからこんな暑いときには熱いお茶、と
当家では体温を抑える働きのあるミントティーにするのだが、
庭に自生している各種ミントやレモンバームを適当に摘んできては
さっと洗い、グラスケトルでブレンデッドハーブティーとなる。
・・・とまあ、これも書いてみるとなんかおしゃれなような気もするが、
何のことはない、子供のころ見た、年寄が得体の知れない葉っぱブチブチむしってきては
異様なにおいのする液体を煮出して飲んでいたのと同じ、
まあ「せんじ薬」の要領である。
しかも、今月に入って無農薬ハーブ畑(ほったらかしなだけ)は害虫の楽園と化し
すべてのミントは葉脈だけのレース状ならまだいい方で、
虫どもの食い残しの茎だけが立ち並ぶ枯野原・・・((T▽T;)
テレビCMや雑誌広告に見るような麗しい生活は、、、遠い。
というかアレはフィクションや商用目的の作為なのだな、そうに決まっている。
ミントティーなんてティーバッグで十分だ、
今時のあんな自生ハーブなんて、、、ふん、すっぱいに決まっている!
(T▽T;)
完璧害虫撲滅法 (ホラーファイル№008)
農薬の害についてはここでいまさらいうまでもないが、
害虫駆除の名目の元、害の無い虫ばかりか小動物の生息地を奪い生態系を狂わし、
最近ではうつ病の原因とまで疑われている。
日本で鬱による自殺率が多いのは地方の農業県だったりするのが有名だが、
都市型のストレスの多い都会ならともかく
なぜ農業県に?というのは素朴な疑問である。
それが農業県ゆえの農薬散布量の多さと自殺率が比例しているというのは
不気味な推測だ。
だが農薬を使わず、害虫を駆除する方法は、ある。
実は限られた害虫のみを効率的に駆除する完璧な装置が完成しているのだ。
だが、いくつかの事情があって実用化されていない。
もちろん農薬産業はお関係官庁の利権であるから、
既得権益を手放さない役人がこれを認可するわけは無い。
役人というのは国が滅びても既得権益を手放さないというのは
先の大戦の顛末をみればわかるとおりだ。
だが、害虫駆除装置の実用試験を行ったところ、
周囲に集められた虫から害虫のみが始末され、
益虫や無害な虫はまったく影響なく試験は大成功だったのだが、
ただひとつの問題は、
この試験に立ち会った農林水産省と労働厚生省の数名の官僚が
跡形もなく消えてしまっていたことだった。
害虫だけを分別・駆除する完璧な装置だが、これは予想外の性能だった。
立ち会った人間は他にもいるし、害虫だけが完璧にいなくなったはずなのに
どうしたわけか木っ端役人ども関係省庁の官僚たちも
害虫とともにまた消滅してしまっていたのだ。
結局、消えた官僚の行方も原因も消滅の事実さえも発表されなく、
「あの装置は正しく作動した! まさに世の中の甘い汁を吸う害虫だけが消えたのだ!」
という研究者の主張も省みられることはなかった。
こうして完璧な害虫駆除装置が日の目を見ることは無くお蔵入りとなったのは
日本の国益を思うと、本当に残念なことだ。
あなたがお化けに出会うわけ (ホラーファイル№007)
喫茶店での待ち合わせ中に「東京散歩」などという
普段あまり見ない雑誌を見ていたら、
仏像胎内納骨などというものの広告があった。
気をつけてみるとこうしたシルバー層読者の多い雑誌には
様々な「葬儀事業の広告」を目にするようだ。
確かに近年は条件付ながら散骨が認められていたりして、
遺骨遺灰の埋葬方法も多様化していることの一端だろうか。
もっとも、遺灰を陶土に混ぜ合わせて陶器として
焼成するということはかなり古くから商業的に行われている。
依頼は花器や飾り壷、置物としての造形物などが多いようだが、
酒壷や酒器も人気らしい。
遺骨は一定の期間を経ると、美しい陶器として遺族の元に帰ってくる。
遺族は故人の面影を器に重ね好きだった酒を注いで永く故人をしのぶことになる。。。
なるほど、酒に親しむ人間としてはその心情はよくわかる。
ところが、妙なうわさもある。
業者はうやうやしく遺族から遺骨を受け取るものの、
実際のところ個体の区別などいい加減なばかりか、
下請けの陶製業者の扱いもいい加減なもので
製造工程において他の製品の原材料との厳格な区別などしていないというのだ。
請負単価がひどく高いせいもあって、遺灰から多様な器への加工も請け負ってはいるが、
この製陶業者の主力商品はなんと○器である。
便○として日々様々な事業所、店舗、官公庁舎、寺社、もちろん学校へも出荷されている。
死後の始末にも法外な金をかけたがる一部金持ちの末路とはいえ
死後、酒器や花器になるはずが便○になってしまっては・・・
そりゃあ化けて出たくなるわな。
トイレで幽霊の目撃談が多いのはこうした事情によるのである。
南無阿弥陀仏 アーメン 迷わず成仏してください。。。
シンプルな幸せ
日々、会社の仕事や世間のこと、家の雑事に追われ、
なかなか気の休まるヒマもないばかりか、
いったい何がしたいのか自分自身の優先順位がわからなくなるときに
読む本がある。
独楽吟 橘曙覧(たちばなのあけみ)/ グラフ社
江戸末期の歌集だが、実はこの本、単純に安くてすぐ読めそうだからという
理由だけで買ったのだが、その後私の大切な本の一冊になった。
本も人も出合いはワカランもんである。
この歌集、すべての歌が「たのしみは」で始まっている。
たとえば、
たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどい
頭(かしら)ならべて 物を食うとき
訳や解説は不要であろう。
また、
たのしみは まれに魚煮て 児等(こら)が皆
うましうましと いひて食うとき
橘曙覧は貧乏暮らしである。殿様の出仕の誘いも断って文学の道で
精進していた。貧乏暮らしの厳しい中、家族仲良く無心に食べることの
うれしさ・楽しさというのはこの上ない喜びだったのだろう。
その喜びは、衣食住におわれるという意味の貧しさとは無縁な現代の私たちにも
とてもよくわかる。
社会的・物質的環境が如何に変わっていようと、人の心のありようとは
変わらないものなのだ。
だから、こんな昔の歌にも私たちは共感し、感動することができる。
時代が変わっても人の心とは変わらないなら、
幸せのヒントもまた変わらずここにあるといえる。
たのしみは 紙をひろげて とる筆の
思いのほかに よく書けしとき
これは文字のことを言っているのかもしれないが、文字でも文でも物を書く人なら
思いがけずいいできにかけた時のうれしさというのは、わかることでしょう?
それはブログを書いても同じことではないですか?
その意味で文学とは、事件や現象ではなく人間と人間の心を書き留めるものなのでしょうね。
心霊科学研究所 (ホラーファイルNo.006)
その昔、高校の文化祭でわが部(体育会系)は模擬店「心霊科学研究所」を出店した。
主な目的は我が校は当時男子校だったために、女子高生に受けるようなものを出展してきゃあきゃあ言われたいというものだったが、うちは堅い進学校という自意識もあって、単純なお化け屋敷などではなく、内容的にはかなり屈折したものとなった。
心霊スポットのパネル展示、降霊術の実演、線香と蝋燭ロザリオや十字架によるもっともらしいディスプレイなどは好評だった。
もっとも、心霊スポットなどと言ってもそこらの廃屋やトンネルの入り口、古い家の階段や蕎麦屋の古井戸などをそれっぽく写真パネルにして貼りだしただけで、アレが心霊スポットだったことなど当時も今も誰も知らなかったようなものだが、もっともらしい注釈をつけただけで、みんな真面目に見入ってくれたようだった。
また、降霊術は丸テーブルを囲んで霊感の強い(という設定の)霊媒役を中心に男女交互に人を配したので、普段近づくこともない女の子の手が握れてうれしかった、という程度のシロモノだったのだ。
ここまではよかったのだが、心霊写真(もちろん全部ニセモノ)や霊感石(?)などというものをひとつ十円で売りだしたところこれがまた近所のガキどもに大変な人気となり、急遽追加で仕入れを行ったほどであった。
ところがこの人気がアダとなり、心霊写真を買って帰った小学生の親から、学校に抗議が来る騒ぎとなり、これ以降我が部は今後同様の出展を禁じられると共に、売上金の全額返金を命じられたのだった。
ただ、わからなかったのは抗議の趣旨で、もちろん3枚十円で売った写真が暴利をむさぼったとか、心霊写真のインチキがばれての返金騒動だったわけではない。正確なところはもう忘れてしまったが、教育の現場で良識ある健全な高校生がやる行為でない、というようなものだったと思う。
そのうわべだけの良識派ぶりや,偽善者っぽさと言うようなものに子供というのは敏感で、今もってその「良い大人」の安っぽさだけが印象として残っているだけだ。
それがさらにみんなの腹に据えかねたのが、抗議の主がアーメン系宗教関係者だったということで、この場合アーメン系だろうが念仏系だろうが宗教が何かは関係ないのだが、宗教家なら子供が魂や人間の本性に興味を持つことにもう少し理解があってしかるべきなのではないか、悪く言えば宗教なんて霊感商法の親玉みたいなもののくせに、とみんな思ったのだが、そこはいい子系の高校だったためにみんな大人の理解を装うすべを知っており、ことを荒立てることはしなかった。
ただ、帰り道某宗教家の活動拠点である教会の前でみんな同時に尿意をもようしたことはきっと神の意思だったのだろう。 また翌日抗議に来た良識ある糞坊主宗教家が、教会の前で人糞を踏んで滑って転倒したことは全く当時の高校生の行いとは無関係の事実で、みんなはきっと天罰が下ったのだと噂しあうとともに、なんとなく溜飲が下がったのだった。




