1980年代のロックは,70年代と比べると個性的なバンドが少なくなったと感じていた。おそらく,自分自身が大人になって感受性が鈍くなっていたせいもあるだろう。

 

   当時,アメリカで人気が沸騰していた成熟したロック・バンドのいくつかは「産業ロック」と呼ばれていたが,その名称を始めて使ったのは,当時,ロック評論家として第一人者だった渋谷陽一氏だったそうだ。

 

 少し引用してみると「『産業ロック』という言葉を日本で初めて使ったのは,渋谷である。1979年ごろ,NHK-FMのラジオ番組『ヤングジョッキー』において」とされ,さらに「渋谷は,当時,日本やアメリカで人気のあったジャーニー,フォリナー,スティクス,REOスピードワゴンらを『産業ロック』と呼んだ。同時期にはアメリカでも,産業ロックに対応する言葉として『ダイナソー・ロック』(恐竜ロック)という言葉がさかんに用いられていた」と書かれている。

 

   同時期に活躍していて,音楽性も近いところがあったボストンやカンサスは「産業ロック」の代表ではなかったようだ。彼が挙げた4つのバンドは,どれもボーカルがメインだが,ボストンやカンサスは,スケールの大きなプログレ風ハード・ロックとも言えるバンドだったから,彼の定義から外れていたのだろう。なぜなら,これも,そのまま引用になるが,渋谷は,こんな風にも語っていたらしい。

 

「ひとつひとつのアヴァンギャルドな試みが積み重なって音楽は進んでいく。そんな努力がない限り,音楽は動脈硬化するだけであり,産業ロックとはその動脈硬化なのである」と言い、さらに,「ロックのこれまでの試行錯誤の歴史を全て御破算にしてしまうような不安を感じる」とまで言い切っている。

 

まあ,ビートルズからツェッペリンを経て,80年代の音楽に親しんだ我々世代からすれば,頷けるところもある。彼も,もっと刺激的なロックが出てこなければ,ロックはただのポピュラー音楽に成り下がってしまうという警告的な意味を込めて,あえて毒舌を吐いたのだろう。

 

売れることを最大の目標にする業界と自分たちのやりたい音楽を作品として発表するという価値観の乖離が一番激しかった時代だったかもしれない。

 

ビートルズは,一般的にはポピュラー音楽の最大の成功者と紹介されることが多いが,僕がこのブログで繰り返し書いているように,彼らは,常に時代の最先端をトップ・スピードで駆け抜けた先駆者であり,実験的ミュージシャンであり,総合芸術家だったというのが正しい見方だ。そのことは渋谷氏もそう思っていたようだ。

 

なぜなら,産業ロックの特徴を定義するに当たって,「長髪にジーンズ・Tシャツといったファッション,情緒的で類型的なメロディ,大げさなアレンジで厚い音,保守的でアヴァンギャルドでない音楽性,過剰管理されたマネージメント・システム(マネージャーがメンバーを選定し,バンドの基本方針を決定する等)」としていたが,その上で,「新しい方法論を示している意味で,ポール・マッカートニーやスティーヴィー・ワンダーは充分にアヴァンギャルドである」とも述べているからだ。

 

80年代のポールやスティーヴィを,ロックというカテゴリーで捉えている評論家は少なかったはずだ。永遠に彼のファンである僕だって,ソロになった当時のポールのことを「無難な曲作りをしているな」としか考えていなかったのだから。

 

だが,彼は,ビートルズ時代同様,売れることよりもやりたいことを選択し続けてきた。世間の評価など関係なく,遊んで暮らせる今も精力的に曲を作り,新たなツアーを開始する意欲に溢れている彼にとっては,ロックというのは,今も産業ではなく生き甲斐そのものなのだから。